二
土蔵《どぞう》の重い扉が、ギイッと音を立ててひらいた。源六のあとについて、音吉は蔵《くら》に入った。ひやりとした空気が肌《はだ》に快い。
(蔵の中って、涼しいもんだなあ)
音吉は目を凝らして、蔵の中を見た。蔵の中は五十畳もあるだろうか。源六が小窓をあけてまわって、ようやくはっきりと中の様子が目に入った。千石船の模型が二つあるのが先ず目についた。大人の腰の高さほどの台が、壁に沿って置かれ、その上に様々な船の道具が置かれている。その一つ一つに目をやる暇もなく、源六が言った。
「ここにあるのは、うちの家宝じゃでな、めったに人には見せん。が、音はていねいに掃除《そうじ》をするだで、特別にここの掃除をさせてやろう。いいかな。決して落としたり、こわしたりしてはならんで。傷一つつけてはならんで。ていねいに一つ一つ、はたきをかけるのじゃ」
「はいっ」
緊張して音吉は答えた。並べられているものは珍しいものばかりだ。尾張藩《おわりはん》の紋入りの小田原|提灯《ちようちん》がある。お札《ふだ》入れの小さな宮がある。それも一つ二つではない。五つもある。恐らく千石船の水主《かこ》の部屋に、打ちつけて飾ってあったものであろう。音吉はそっと一つ一つ抱えては、蔵の入り口に来て、はたきをかけた。年に幾度か埃《ほこり》を払うのか、思ったほど埃はない。うっすらと、細かいちりがかかっているだけだ。
「うーむ」
源六が興味深げに古い大福帳を繰っている。大福帳は幾つも重ねられ、その傍《そば》には仕入帳もあった。何やら色のついた、横長い本もある。
「見てみい、音。これが日本の地図だで」
釣《つ》り灯籠《どうろう》にはたきをかけていた音吉を、源六は手招いた。
「日本のちず?」
とっさに、音吉には何のことかわからない。源六の傍《そば》に近寄ると、長ひょろい芋虫《いもむし》のような絵が黄いろく描かれている。地色は青い。
「これが日本じゃ」
音吉の目に芋虫と見えたのは、日本の地図であった。口をあけているように見える頭のほうを源六は指さし、
「ここが陸奥《むつ》じゃ」
と言った。陸奥と言われても、音吉には小野浦からどれほど離れた所か見当もつかない。
「小野浦はここらじゃ」
源六は虫の真ん中の腹あたりに、ちょこんと出張ったあたりをさして言った。そしてその横に引っこんでいる青い色を、
「ここが伊勢湾じゃ。ここが師崎、ここが鳥羽。お伊勢さんがここで、大坂がここ」
源六はその太い指で、一つ一つおさえながら言う。
「お江戸は? 親方さま」
「江戸か。江戸はここよ。ここが四国、そして九州、陸奥の上にほんのちょっぴりのぞいているのが蝦夷《えぞ》が島じゃ」
音吉は声もなくうなずいた。自分の住んでいる小野浦が、日本のどのあたりにあるか、音吉は知らなかった。が、日本の真ん中あたりにあると知って、音吉は何となく満足だった。
「お前の父《と》っさまは、このお江戸に、大坂に、何十回行ったものやら。わしも、北前船《きたまえせん》に乗っていた時は、この瀬戸内《せとうち》を通って、金沢を過ぎ、新潟を過ぎ、陸奥まで行ったものよ」
音吉は相槌《あいづち》の打ちようもない。只《ただ》、江戸は遠いと聞いていたが、地図で見るとほんの人指し指ほどの距離しかない。この間を何日もかかって行くとすれば、日本をひとまわりするのは、大変な旅だと、音吉は初めて知った。
「あの、親方さま。熱田はどっちで?」
音吉はふっと、岩松のことを思った。米をくすねに、兄の吉治郎は夜の千石船《せんごくぶね》に音吉をつれて行った。音吉は何も知らずについて行ったが、その時岩松は、
「お前の父っさまと、俺は一緒に船に乗っていたことがある」
と言って、音吉に、
「お前も船乗りになるか」
と尋《たず》ねた。乗るというと、岩松はずしりと重い米を、音吉に返してくれたのだ。
あの男が熱田の人間で、岩松という名であると吉治郎から聞き、音吉はそれを忘れなかった。
「熱田か。熱田はここじゃ。熱田も御蔭参《おかげまい》りで賑《にぎ》やかなそうな」
源六はそう言い、
「長助や久吉はいつ帰るやら。お伊勢参りに行っている筈《はず》だが……」
と、再び人指し指の腹で伊勢をなでた。
「音、お前、船に乗ると言うたな」
「はい」
「うん、音は見込みのある男じゃ。きっといい船乗りになるじゃろう。頑張《がんば》れよ」
言った時、蔵《くら》の入り口に琴が現れた。
「じいさまぁ、庄屋さまが見えとるわ」
「庄屋さま? 何じゃろう。こんな早うから」
源六はふり返り、
「お琴、お前、この蔵に誰も入って来んように、見張っとれ。ええな」
返事も聞かずに、源六はそそくさと蔵を出て行った。
不意に音吉は体が固くなった。うれしいような、恥ずかしいような、そして幾分迷惑な心地なのだ。
「ねえ、音吉つぁん」
琴が音吉の傍《そば》に来た。音吉は黙って琴を見た。外の光を背に、琴はひどく美しく見えた。
「長助が帰らんといいわ。長助は、うちを好きやと手を握ったことがある」
琴がそう言って、音吉の顔をのぞきこんだ。
(蔵の中って、涼しいもんだなあ)
音吉は目を凝らして、蔵の中を見た。蔵の中は五十畳もあるだろうか。源六が小窓をあけてまわって、ようやくはっきりと中の様子が目に入った。千石船の模型が二つあるのが先ず目についた。大人の腰の高さほどの台が、壁に沿って置かれ、その上に様々な船の道具が置かれている。その一つ一つに目をやる暇もなく、源六が言った。
「ここにあるのは、うちの家宝じゃでな、めったに人には見せん。が、音はていねいに掃除《そうじ》をするだで、特別にここの掃除をさせてやろう。いいかな。決して落としたり、こわしたりしてはならんで。傷一つつけてはならんで。ていねいに一つ一つ、はたきをかけるのじゃ」
「はいっ」
緊張して音吉は答えた。並べられているものは珍しいものばかりだ。尾張藩《おわりはん》の紋入りの小田原|提灯《ちようちん》がある。お札《ふだ》入れの小さな宮がある。それも一つ二つではない。五つもある。恐らく千石船の水主《かこ》の部屋に、打ちつけて飾ってあったものであろう。音吉はそっと一つ一つ抱えては、蔵の入り口に来て、はたきをかけた。年に幾度か埃《ほこり》を払うのか、思ったほど埃はない。うっすらと、細かいちりがかかっているだけだ。
「うーむ」
源六が興味深げに古い大福帳を繰っている。大福帳は幾つも重ねられ、その傍《そば》には仕入帳もあった。何やら色のついた、横長い本もある。
「見てみい、音。これが日本の地図だで」
釣《つ》り灯籠《どうろう》にはたきをかけていた音吉を、源六は手招いた。
「日本のちず?」
とっさに、音吉には何のことかわからない。源六の傍《そば》に近寄ると、長ひょろい芋虫《いもむし》のような絵が黄いろく描かれている。地色は青い。
「これが日本じゃ」
音吉の目に芋虫と見えたのは、日本の地図であった。口をあけているように見える頭のほうを源六は指さし、
「ここが陸奥《むつ》じゃ」
と言った。陸奥と言われても、音吉には小野浦からどれほど離れた所か見当もつかない。
「小野浦はここらじゃ」
源六は虫の真ん中の腹あたりに、ちょこんと出張ったあたりをさして言った。そしてその横に引っこんでいる青い色を、
「ここが伊勢湾じゃ。ここが師崎、ここが鳥羽。お伊勢さんがここで、大坂がここ」
源六はその太い指で、一つ一つおさえながら言う。
「お江戸は? 親方さま」
「江戸か。江戸はここよ。ここが四国、そして九州、陸奥の上にほんのちょっぴりのぞいているのが蝦夷《えぞ》が島じゃ」
音吉は声もなくうなずいた。自分の住んでいる小野浦が、日本のどのあたりにあるか、音吉は知らなかった。が、日本の真ん中あたりにあると知って、音吉は何となく満足だった。
「お前の父《と》っさまは、このお江戸に、大坂に、何十回行ったものやら。わしも、北前船《きたまえせん》に乗っていた時は、この瀬戸内《せとうち》を通って、金沢を過ぎ、新潟を過ぎ、陸奥まで行ったものよ」
音吉は相槌《あいづち》の打ちようもない。只《ただ》、江戸は遠いと聞いていたが、地図で見るとほんの人指し指ほどの距離しかない。この間を何日もかかって行くとすれば、日本をひとまわりするのは、大変な旅だと、音吉は初めて知った。
「あの、親方さま。熱田はどっちで?」
音吉はふっと、岩松のことを思った。米をくすねに、兄の吉治郎は夜の千石船《せんごくぶね》に音吉をつれて行った。音吉は何も知らずについて行ったが、その時岩松は、
「お前の父っさまと、俺は一緒に船に乗っていたことがある」
と言って、音吉に、
「お前も船乗りになるか」
と尋《たず》ねた。乗るというと、岩松はずしりと重い米を、音吉に返してくれたのだ。
あの男が熱田の人間で、岩松という名であると吉治郎から聞き、音吉はそれを忘れなかった。
「熱田か。熱田はここじゃ。熱田も御蔭参《おかげまい》りで賑《にぎ》やかなそうな」
源六はそう言い、
「長助や久吉はいつ帰るやら。お伊勢参りに行っている筈《はず》だが……」
と、再び人指し指の腹で伊勢をなでた。
「音、お前、船に乗ると言うたな」
「はい」
「うん、音は見込みのある男じゃ。きっといい船乗りになるじゃろう。頑張《がんば》れよ」
言った時、蔵《くら》の入り口に琴が現れた。
「じいさまぁ、庄屋さまが見えとるわ」
「庄屋さま? 何じゃろう。こんな早うから」
源六はふり返り、
「お琴、お前、この蔵に誰も入って来んように、見張っとれ。ええな」
返事も聞かずに、源六はそそくさと蔵を出て行った。
不意に音吉は体が固くなった。うれしいような、恥ずかしいような、そして幾分迷惑な心地なのだ。
「ねえ、音吉つぁん」
琴が音吉の傍《そば》に来た。音吉は黙って琴を見た。外の光を背に、琴はひどく美しく見えた。
「長助が帰らんといいわ。長助は、うちを好きやと手を握ったことがある」
琴がそう言って、音吉の顔をのぞきこんだ。