一
絹は赤いたすきを外《はず》しながら、下駄《げた》を突っかけた。古田屋のお内儀《かみ》に、
「岩さんによう似た人が、うちの前に立っておったが」
と言われたからだ。
「もし岩さんなら、あとはわたしが何とかするからさ」
男まさりのお内儀は、絹の背をぽんと叩《たた》いてそう言ってくれた。礼の言葉もそこそこに、絹はすぐ裏手のわが家に走った。
(うちの人が帰って来た!?)
それは絹にとって信じ難いことだった。岩松が帰ってくるのは、十二月に入ってからと決まっていた。師崎の港に千石船《せんごくぶね》を囲い、山伝いに小野浦に出、すぐ隣の野間から船に乗って熱田へ帰って来る。そして三月にはもう千石船に乗るのだった。つまり、岩松が熱田のわが家にいるのは冬の間だけだ。
(こんな暑いさなかに……)
絹には、岩松の帰宅は信じられなかった。家に戻《もど》ったが岩松の姿はなかった。姑《しゆうとめ》の房が、
「そうなんだよ、思いがけなく帰って来てねえ。ところがさ、ぷいとどこかへ行ってしまってな。何が気に入らんかったのかねえ。岩松は根がやさしいが、かんしゃくさまへのお参りが足りなかったのかも知れせんな」
土間に立っている絹に、房は立てつづけにそう言った。かんしゃくさまとは、熱田の境内《けいだい》の、日除橋《ひよけばし》の傍《そば》にある小社《こやしろ》で、熱田の親たちは、子供たちをつれてこの小社によく参詣《さんけい》した。ここに参ると、祭神|天照大神《あまてらすおおみかみ》の和魂《にぎみたま》が、子供を柔順な、そして和《やわ》らぎを好む人格に育ててくれると伝えられていた。つまり癇癪持《かんしやくも》ちの子供にご利益《りやく》のある神さまと言われていたのだ。
「おっかさん。わたし、ちょっと探してきますで」
絹はそう言うと、再び通りのほうに駈《か》け出して行く。
絹は、行き交う人の中に岩松の姿を必死になって探した。不機嫌《ふきげん》に家を出て行ったという岩松の気持ちが絹にはわかる。きっと岩松は、妻の自分が古田屋に働いていると聞いて、あらぬ想像をしたにちがいない。が、絹にとってそれは、心外なことだった。絹は実母のかんに脅《おど》され、すかされ、なだめられて、師崎で身を売ってはいた。親の言いなりになることは、親孝行だと信じていたからだ。死ぬより嫌《いや》なことでも、親のためなら耐えねばならぬと思っていたからだ。だが今では、絹にとって、岩松は只《ただ》一人の大切な夫であった。まさか岩松が、同じ長屋の銀次を見かけて、機嫌を損《そこ》ねたとは、絹は夢にも思わない。
絹は通りを外《はず》れて、渡し場の傍《そば》の常夜灯の前に行って見た。ここから桑名の城を眺《なが》めるのが好きだと、岩松は言っていたからだ。が、岩松はいなかった。渡し場から、お伊勢参りの一団が、賑やかに船に乗って出て行くところであった。
(じゃ、截断橋《さいだんばし》だわ)
絹には岩松の行きそうな場所がわかっていた。だが截断橋の上にも、岩松の姿はなかった。絹は首筋に流れる汗を前垂れで拭《ふ》き、おくれ毛をかき上げると、
「お前さんたら」
と、小さく口に出して呟《つぶや》いた。
しばらく絹は、截断橋のたもとの擬宝珠《ぎぼし》に手をふれていた。そして擬宝珠に刻みつけられた文字を眺《なが》めていた。絹はもともと字を習ったわけではない。が、岩松が冬の間に、ひら仮名を教えてくれた。何かの時に役に立つだろうと、岩松は暇々に、いろは四十八文字を教えてくれたのだ。擬宝珠に刻みこまれた供養《くよう》文は、全文ひら仮名で書かれてあったから、絹にも読める。だが絹は今、眺めるだけで読んではいなかった。今しがた、常夜灯の傍で、
「截断橋の上で喧嘩《けんか》があった」
といううわさを、ちらりと絹は小耳《こみみ》に挟《はさ》んだ。そのことも絹には気がかりだった。
絹は目の下を流れる精進川に目をやり、そして、向こうの土手を見るともなく見た。と、そこに思いがけなく土手を歩いて来る岩松の浴衣《ゆかた》姿が見えた。
「あ!」
小さく叫んで、絹は再び駈けた。絹の日和下駄《ひよりげた》の音が、橋の上に高くひびいた。
岩松は背筋をしゃっきりと立て、天を睥睨《へいげい》するような姿勢で歩いて来る。絹は、岩松が不機嫌《ふきげん》であったと聞いたことも忘れて、土手を走った。と、岩松が立ちどまった。絹はなおも駈《か》けた。
次の瞬間岩松も、大きく駈け出した。
二人は一|間程《けんほど》隔てて向かい合った。
「お絹!」
「お前さん!」
二人の視線が絡み合った。
「よく帰ってくれて……」
うれしいという言葉は、胸に詰まって出てこない。その絹の表情の中に、岩松は絹のすべてを見た。
「お絹達者だな。達者でよかった」
岩松が微笑した。微笑すると、ひどく優しいまなざしになる。くるみこむようなまなざしだ。この目が、本当の岩松だと絹は思う。
「ごめんなお前さん。折角《せつかく》帰ったのに、わたし、家におらんと……」
絹の声はやさしい。
「仕方ないわな。古田屋の頼みだでな」
絹はちらりと岩松を見た。古田屋の手伝いを岩松は別段|咎《とが》めているようでもない。
(では、何を怒ったのだろう)
絹は不安になった。幼い時から、絹は母のかんに、よく折檻《せつかん》された。かんはすぐに大声を出した。絹は叱《しか》られることを極度に恐れるようになった。岩松は絹にとってやさしい夫だ。が、時折《ときおり》いらだつ表情をみせ、不意に荒々しくなることがある。それが絹には一番つらいのだ。
「熱田の夏は暑いな。こりゃあ、やっぱり日本一だぜ」
岩松が歩き出した。絹が三歩程遅れて歩く。夫婦だからといって、肩を並べて歩く者はほとんどない。三歩では近過ぎる程だ。岩松は、先程から銀次にこだわっていた。が、絹の顔を見ると、そのこだわりは不要な気がした。
(絹は俺の女房だ)
絹は裏切ってはいないと確信して、岩松の足は軽かった。その二人のあとを、久吉が見え隠れにつけていた。
「岩さんによう似た人が、うちの前に立っておったが」
と言われたからだ。
「もし岩さんなら、あとはわたしが何とかするからさ」
男まさりのお内儀は、絹の背をぽんと叩《たた》いてそう言ってくれた。礼の言葉もそこそこに、絹はすぐ裏手のわが家に走った。
(うちの人が帰って来た!?)
それは絹にとって信じ難いことだった。岩松が帰ってくるのは、十二月に入ってからと決まっていた。師崎の港に千石船《せんごくぶね》を囲い、山伝いに小野浦に出、すぐ隣の野間から船に乗って熱田へ帰って来る。そして三月にはもう千石船に乗るのだった。つまり、岩松が熱田のわが家にいるのは冬の間だけだ。
(こんな暑いさなかに……)
絹には、岩松の帰宅は信じられなかった。家に戻《もど》ったが岩松の姿はなかった。姑《しゆうとめ》の房が、
「そうなんだよ、思いがけなく帰って来てねえ。ところがさ、ぷいとどこかへ行ってしまってな。何が気に入らんかったのかねえ。岩松は根がやさしいが、かんしゃくさまへのお参りが足りなかったのかも知れせんな」
土間に立っている絹に、房は立てつづけにそう言った。かんしゃくさまとは、熱田の境内《けいだい》の、日除橋《ひよけばし》の傍《そば》にある小社《こやしろ》で、熱田の親たちは、子供たちをつれてこの小社によく参詣《さんけい》した。ここに参ると、祭神|天照大神《あまてらすおおみかみ》の和魂《にぎみたま》が、子供を柔順な、そして和《やわ》らぎを好む人格に育ててくれると伝えられていた。つまり癇癪持《かんしやくも》ちの子供にご利益《りやく》のある神さまと言われていたのだ。
「おっかさん。わたし、ちょっと探してきますで」
絹はそう言うと、再び通りのほうに駈《か》け出して行く。
絹は、行き交う人の中に岩松の姿を必死になって探した。不機嫌《ふきげん》に家を出て行ったという岩松の気持ちが絹にはわかる。きっと岩松は、妻の自分が古田屋に働いていると聞いて、あらぬ想像をしたにちがいない。が、絹にとってそれは、心外なことだった。絹は実母のかんに脅《おど》され、すかされ、なだめられて、師崎で身を売ってはいた。親の言いなりになることは、親孝行だと信じていたからだ。死ぬより嫌《いや》なことでも、親のためなら耐えねばならぬと思っていたからだ。だが今では、絹にとって、岩松は只《ただ》一人の大切な夫であった。まさか岩松が、同じ長屋の銀次を見かけて、機嫌を損《そこ》ねたとは、絹は夢にも思わない。
絹は通りを外《はず》れて、渡し場の傍《そば》の常夜灯の前に行って見た。ここから桑名の城を眺《なが》めるのが好きだと、岩松は言っていたからだ。が、岩松はいなかった。渡し場から、お伊勢参りの一団が、賑やかに船に乗って出て行くところであった。
(じゃ、截断橋《さいだんばし》だわ)
絹には岩松の行きそうな場所がわかっていた。だが截断橋の上にも、岩松の姿はなかった。絹は首筋に流れる汗を前垂れで拭《ふ》き、おくれ毛をかき上げると、
「お前さんたら」
と、小さく口に出して呟《つぶや》いた。
しばらく絹は、截断橋のたもとの擬宝珠《ぎぼし》に手をふれていた。そして擬宝珠に刻みつけられた文字を眺《なが》めていた。絹はもともと字を習ったわけではない。が、岩松が冬の間に、ひら仮名を教えてくれた。何かの時に役に立つだろうと、岩松は暇々に、いろは四十八文字を教えてくれたのだ。擬宝珠に刻みこまれた供養《くよう》文は、全文ひら仮名で書かれてあったから、絹にも読める。だが絹は今、眺めるだけで読んではいなかった。今しがた、常夜灯の傍で、
「截断橋の上で喧嘩《けんか》があった」
といううわさを、ちらりと絹は小耳《こみみ》に挟《はさ》んだ。そのことも絹には気がかりだった。
絹は目の下を流れる精進川に目をやり、そして、向こうの土手を見るともなく見た。と、そこに思いがけなく土手を歩いて来る岩松の浴衣《ゆかた》姿が見えた。
「あ!」
小さく叫んで、絹は再び駈けた。絹の日和下駄《ひよりげた》の音が、橋の上に高くひびいた。
岩松は背筋をしゃっきりと立て、天を睥睨《へいげい》するような姿勢で歩いて来る。絹は、岩松が不機嫌《ふきげん》であったと聞いたことも忘れて、土手を走った。と、岩松が立ちどまった。絹はなおも駈《か》けた。
次の瞬間岩松も、大きく駈け出した。
二人は一|間程《けんほど》隔てて向かい合った。
「お絹!」
「お前さん!」
二人の視線が絡み合った。
「よく帰ってくれて……」
うれしいという言葉は、胸に詰まって出てこない。その絹の表情の中に、岩松は絹のすべてを見た。
「お絹達者だな。達者でよかった」
岩松が微笑した。微笑すると、ひどく優しいまなざしになる。くるみこむようなまなざしだ。この目が、本当の岩松だと絹は思う。
「ごめんなお前さん。折角《せつかく》帰ったのに、わたし、家におらんと……」
絹の声はやさしい。
「仕方ないわな。古田屋の頼みだでな」
絹はちらりと岩松を見た。古田屋の手伝いを岩松は別段|咎《とが》めているようでもない。
(では、何を怒ったのだろう)
絹は不安になった。幼い時から、絹は母のかんに、よく折檻《せつかん》された。かんはすぐに大声を出した。絹は叱《しか》られることを極度に恐れるようになった。岩松は絹にとってやさしい夫だ。が、時折《ときおり》いらだつ表情をみせ、不意に荒々しくなることがある。それが絹には一番つらいのだ。
「熱田の夏は暑いな。こりゃあ、やっぱり日本一だぜ」
岩松が歩き出した。絹が三歩程遅れて歩く。夫婦だからといって、肩を並べて歩く者はほとんどない。三歩では近過ぎる程だ。岩松は、先程から銀次にこだわっていた。が、絹の顔を見ると、そのこだわりは不要な気がした。
(絹は俺の女房だ)
絹は裏切ってはいないと確信して、岩松の足は軽かった。その二人のあとを、久吉が見え隠れにつけていた。