一
「着いた!」
久吉は、野間の浜に上がった時、思わずそう叫んだ。久吉が従兄《いとこ》の長助に誘われて、熱田に御蔭参《おかげまい》りに家を出てから、既《すで》にひと月以上経っていた。その長助は江戸に行き、十三歳の久吉は、一人熱田の宿に取り残された。来る日も来る日も、久吉は小野浦へ帰る船を探したが、桑名に渡る渡し船ばかりで、めったに大きな船は入らない。ようやく、野間に寄るという鳥羽行きの船に乗ったのが、三日前だった。それまで久吉は、善根宿《ぜんこんやど》で使い走りをしながら、日を過ごしていた。
さて船に乗ったものの、この伊勢湾のあちこちに寄る小船は、果たして野間に寄るのかどうか、不安であった。常滑《とこなめ》に着いた時、久吉はよほど常滑から小野浦まで歩いて帰ろうかと思った。それが今、確かに小野浦の手前の野間に着いたのだ。
うれしさのあまり、久吉は一人で大声にうたいながら踊り出した。
「お蔭でさ、するりとな、脱《ぬ》けたとさ」
人が指さして笑っているのも気づかずに、久吉は身ぶりもおかしく踊って行く。
「お蔭でな、こうして、帰って来れたもな」
そううたったところで、久吉ははじめてまじめな顔になり、急ぎ足になった。
(御蔭参りなんて、何のご利益《りやく》もなかったわ)
久吉は胸の中で呟《つぶや》く。
(おっかねえ目に会ってな)
熱田の截断橋《さいだんばし》の上で、あの荒くれ男に宙に持ち上げられた時、これまでだと思った。橋の上に叩《たた》きつけられると思ったのだ。が、男が欄干《らんかん》の傍《そば》まで行った時は、
(川ん中なら、何でもあらせんわ)
水を見て、久吉はとっさにそう思った。いつも小野浦の岩礁《がんしよう》の上から、音吉たちと飛びこんで育った久吉だ。男の頭を蹴《け》って、自分から飛びこんでやれと、一瞬思った時、思いがけなく岩松に助けられた。
(変な男だった)
陽気な久吉も、ちょっと腑《ふ》に落ちない顔になる。道べの竹林が、海風にさやぐ。もう野間の町をぬけて、小野浦へは半道足らずだ。久吉の足が次第に速くなる。岩松の、幟《のぼり》をぴたりと荒くれ男の胸板に突きつけた姿を久吉は思い出す。
(侍《さむらい》のような奴《やつ》だったでえ)
短刀《どす》を持った相手を、殺さぬ程度に突き倒し、うしろも見ずにさっさと土手に降りて行った。それが久吉には、凄《すご》い男に思われた。
「だけど、お琴の乳房《ちち》を、ぎゅっとつかんだ男だでな」
久吉の口がちょっと尖る。
(あれは変な男だ)
助けてくれた癖《くせ》に、久吉が礼を言っても、にこりともしなかった。小野浦に帰るのなら、一緒につれて行ってくれと頼んだのに、
「そいつぁごめんだな」
と、にべもなかった。親切なのか、不親切なのか、いい人間なのか、悪い人間なのか、見当もつかない。
それでも久吉は、一日に一度、そっと岩松の家の傍《そば》まで行った。もしや岩松が、小野浦まで帰るのではないかと思ったからだ。が、岩松は帰る気配《けはい》がなかった。時には岩松と顔を合わせることがあっても、岩松はそ知らぬ顔をしていた。岩松の妻の絹には幾度も会った。会う度に絹は、にこっと笑い、
「お前のうちはどこ? いつ越して来たの」
とか、
「おや、今日も会ったわね」
と、やさしく声をかけてくれた。
(あの小母さんは、観音《かんのん》さまみたいだった)
あんなやさしい美しい女を、今まで見たことがない、と久吉は思った。
(お琴もきれいやけど、お琴はきかんでな)
そうだ、お琴は小野浦にいるのだと、久吉は走り出す。が、少し走って久吉は立ちどまった。浜木綿《はまゆう》の白い花が、久吉の丈《たけ》よりも高い。
(父《と》っさまは、怒っとるだろな)
雷のような大きな声で、また怒鳴られるのかと思うと、さすがの久吉も身が縮む。
(だけどな、御蔭参《おかげまい》りやで。御蔭参りに行ったもんを咎《とが》めることは、殿様でも親でも、できないんや。神罰下るでな)
久吉は、善根宿《ぜんこんやど》で聞いた旅人たちの話を思い出す。
「いつもいつも、俺たちを見下している奴《やつ》らがよ。御蔭参りには、へいこらへいこらじゃ。大きな屋敷に土足で踊りこんでも、膳《ぜん》をこさえて、酒を飲ませて、小遣《こづか》いまでくれるんじゃ」
久吉は目を丸くして話を聞いた。
「とにかく、大勢集まれば強いんや。その上、天照大神《あまてらすおおみかみ》さまがついているからな。文句は言えんのよ。何せ神さまが許したことだ、逆らえば神罰が下るんだ」
「そしたら、毎年御蔭参りをやったらええ。只《ただ》で飲み食いできるでえ」
久吉が言った。
「馬鹿を言うな。御蔭参りはな、六十一年目でなきゃあ、やって来ねえんだ。それにしても今年の御蔭参りは、お前のような餓鬼《がき》や、娘女房がやたらと多い。こりゃ一体どうしたことかな」
そんな言葉が思い出される。確かに、女、子供がどこの街道筋にもたくさんいた。時代がそのように動いていることを、久吉はわかる筈《はず》もない。とにかく父親に叱《しか》られたら、今年の御蔭参りは子供が多いのだと返答するつもりだった。
しばらく足もとの土を這《は》う蟻《あり》をみつめていた久吉は、また歩き出した。一か月も着たままの着物は、あちこちほころびて、うす汚れている。汗と埃《ほこり》にまみれた着物の裾《すそ》をからげて、久吉は再び早足になる。
「なあに、父《と》っさまが怒ったって、雷さまとおなじで一時だ。首をちぢめて黙って聞きすごせばいいのやで」
久吉は笑顔になった。雲は厚いが、雨の降る気配もない。鈍い光を反射して、海もおだやかだった。
久吉は、野間の浜に上がった時、思わずそう叫んだ。久吉が従兄《いとこ》の長助に誘われて、熱田に御蔭参《おかげまい》りに家を出てから、既《すで》にひと月以上経っていた。その長助は江戸に行き、十三歳の久吉は、一人熱田の宿に取り残された。来る日も来る日も、久吉は小野浦へ帰る船を探したが、桑名に渡る渡し船ばかりで、めったに大きな船は入らない。ようやく、野間に寄るという鳥羽行きの船に乗ったのが、三日前だった。それまで久吉は、善根宿《ぜんこんやど》で使い走りをしながら、日を過ごしていた。
さて船に乗ったものの、この伊勢湾のあちこちに寄る小船は、果たして野間に寄るのかどうか、不安であった。常滑《とこなめ》に着いた時、久吉はよほど常滑から小野浦まで歩いて帰ろうかと思った。それが今、確かに小野浦の手前の野間に着いたのだ。
うれしさのあまり、久吉は一人で大声にうたいながら踊り出した。
「お蔭でさ、するりとな、脱《ぬ》けたとさ」
人が指さして笑っているのも気づかずに、久吉は身ぶりもおかしく踊って行く。
「お蔭でな、こうして、帰って来れたもな」
そううたったところで、久吉ははじめてまじめな顔になり、急ぎ足になった。
(御蔭参りなんて、何のご利益《りやく》もなかったわ)
久吉は胸の中で呟《つぶや》く。
(おっかねえ目に会ってな)
熱田の截断橋《さいだんばし》の上で、あの荒くれ男に宙に持ち上げられた時、これまでだと思った。橋の上に叩《たた》きつけられると思ったのだ。が、男が欄干《らんかん》の傍《そば》まで行った時は、
(川ん中なら、何でもあらせんわ)
水を見て、久吉はとっさにそう思った。いつも小野浦の岩礁《がんしよう》の上から、音吉たちと飛びこんで育った久吉だ。男の頭を蹴《け》って、自分から飛びこんでやれと、一瞬思った時、思いがけなく岩松に助けられた。
(変な男だった)
陽気な久吉も、ちょっと腑《ふ》に落ちない顔になる。道べの竹林が、海風にさやぐ。もう野間の町をぬけて、小野浦へは半道足らずだ。久吉の足が次第に速くなる。岩松の、幟《のぼり》をぴたりと荒くれ男の胸板に突きつけた姿を久吉は思い出す。
(侍《さむらい》のような奴《やつ》だったでえ)
短刀《どす》を持った相手を、殺さぬ程度に突き倒し、うしろも見ずにさっさと土手に降りて行った。それが久吉には、凄《すご》い男に思われた。
「だけど、お琴の乳房《ちち》を、ぎゅっとつかんだ男だでな」
久吉の口がちょっと尖る。
(あれは変な男だ)
助けてくれた癖《くせ》に、久吉が礼を言っても、にこりともしなかった。小野浦に帰るのなら、一緒につれて行ってくれと頼んだのに、
「そいつぁごめんだな」
と、にべもなかった。親切なのか、不親切なのか、いい人間なのか、悪い人間なのか、見当もつかない。
それでも久吉は、一日に一度、そっと岩松の家の傍《そば》まで行った。もしや岩松が、小野浦まで帰るのではないかと思ったからだ。が、岩松は帰る気配《けはい》がなかった。時には岩松と顔を合わせることがあっても、岩松はそ知らぬ顔をしていた。岩松の妻の絹には幾度も会った。会う度に絹は、にこっと笑い、
「お前のうちはどこ? いつ越して来たの」
とか、
「おや、今日も会ったわね」
と、やさしく声をかけてくれた。
(あの小母さんは、観音《かんのん》さまみたいだった)
あんなやさしい美しい女を、今まで見たことがない、と久吉は思った。
(お琴もきれいやけど、お琴はきかんでな)
そうだ、お琴は小野浦にいるのだと、久吉は走り出す。が、少し走って久吉は立ちどまった。浜木綿《はまゆう》の白い花が、久吉の丈《たけ》よりも高い。
(父《と》っさまは、怒っとるだろな)
雷のような大きな声で、また怒鳴られるのかと思うと、さすがの久吉も身が縮む。
(だけどな、御蔭参《おかげまい》りやで。御蔭参りに行ったもんを咎《とが》めることは、殿様でも親でも、できないんや。神罰下るでな)
久吉は、善根宿《ぜんこんやど》で聞いた旅人たちの話を思い出す。
「いつもいつも、俺たちを見下している奴《やつ》らがよ。御蔭参りには、へいこらへいこらじゃ。大きな屋敷に土足で踊りこんでも、膳《ぜん》をこさえて、酒を飲ませて、小遣《こづか》いまでくれるんじゃ」
久吉は目を丸くして話を聞いた。
「とにかく、大勢集まれば強いんや。その上、天照大神《あまてらすおおみかみ》さまがついているからな。文句は言えんのよ。何せ神さまが許したことだ、逆らえば神罰が下るんだ」
「そしたら、毎年御蔭参りをやったらええ。只《ただ》で飲み食いできるでえ」
久吉が言った。
「馬鹿を言うな。御蔭参りはな、六十一年目でなきゃあ、やって来ねえんだ。それにしても今年の御蔭参りは、お前のような餓鬼《がき》や、娘女房がやたらと多い。こりゃ一体どうしたことかな」
そんな言葉が思い出される。確かに、女、子供がどこの街道筋にもたくさんいた。時代がそのように動いていることを、久吉はわかる筈《はず》もない。とにかく父親に叱《しか》られたら、今年の御蔭参りは子供が多いのだと返答するつもりだった。
しばらく足もとの土を這《は》う蟻《あり》をみつめていた久吉は、また歩き出した。一か月も着たままの着物は、あちこちほころびて、うす汚れている。汗と埃《ほこり》にまみれた着物の裾《すそ》をからげて、久吉は再び早足になる。
「なあに、父《と》っさまが怒ったって、雷さまとおなじで一時だ。首をちぢめて黙って聞きすごせばいいのやで」
久吉は笑顔になった。雲は厚いが、雨の降る気配もない。鈍い光を反射して、海もおだやかだった。