四
懐かしい八幡社の森が、家並みの向こうに見えて来た。うばめがしの葉が、折々《おりおり》さざ波のように風に動くのが見える。久吉は胸の痛くなる思いがした。あとひとっ走りでわが家である。
だが、久吉はのろのろと歩いて行く。やがて久吉は、曲がり角に来た。そこを左に折れると、あと二丁と歩かずにわが家に着くのだが、久吉は小川の縁にしゃがみこんだ。澄んだ川底に青い藻《も》がゆらいでいる。ちょろりと動いた影は小鮒《こぶな》だ。
「困ったなあ」
久吉は思わず呟《つぶや》いた。
久吉は先程《さきほど》、小野浦の町に入って初めて、今日が八幡社の祭りであることに気づいた。久吉は今日が何日であるかを忘れていたのだ。久吉は喜んで、道々出店を見、行き交《か》う人を見た。僅《わず》か一か月しか離れていないのに、もう何年も離れていたかのように、見るものすべてがひどく懐かしかった。が、ある呉服屋の店先で、立ちどまってあたりを見ていた時、いきなり水をかけられた。乞食《こじき》だと思われたのだ。ふだんならともかく、みんなが晴れ着を着ている祭りの日に、垢《あか》と埃《ほこり》にまみれた久吉の姿は、乞食に見えたのかもしれない。久吉は不意にがっくりとし、家に帰ることが俄《にわか》に不安になった。父の怒った顔が、まざまざと目に浮かんだ。
こうして久吉は今、曲がり角まで来たのだが、何とも気が重い。久吉はじっと小川の流れに目をやりながら父の怒りを考える。小川を見ている久吉の耳に、突如境内《とつじよけいだい》から歓声が聞こえた。
「あ! 草《くさ》相撲《ずもう》をやっとる」
八歳の時から、毎年久吉は草相撲に出て来た。子供の草相撲は大人の相撲の先に始まる。
(そうか! したら家はからっぽだな)
相撲好きな父は、毎年祭りには子供の草相撲も見る。きっと今年も見ている筈《はず》だ。品も当然遊びに出ているにちがいない。母のりよだけなら、さほど恐れることはない。
久吉は立ち上がった。ひどく腹が空《す》いている。
(祭りのごちそうがあるやろな)
久吉はにこっとした。祭りには決まって、赤飯に上等の魚がつく。漁師はしていても、ふだんは滅多に魚は口に入らない。たまに鰯《いわし》が食膳《しよくぜん》にのぼるくらいのものだ。
(鰈《かれい》かな。鰤《ぶり》かな)
久吉は心も軽く立ち上がった。茅葺《かやぶ》きのわが家がすぐそこに見えて来た。軒が深く、窓の小さな、二十坪ほどの家だ。その手前に、門構えも立派な、瓦葺《かわらぶ》きの隣家がある。船頭嘉市の家だ。隣家の前まで来て、久吉はまた立ちどまった。
(もし、父《と》っさまがいたら……)
父の又平は手が早い。頭にこぶができたことも、二度や三度ではない。
(まあ、仕方あらせんな)
久吉は自分に言い聞かせてみる。
(けどなあ……)
久吉はためらう。
(長助のことを何と言ったらええかなあ)
江戸に行ったと告げたなら、叱《しか》られるのは久吉だ。長助は早くにふた親を亡くし、船主源六の家に住みこむまでは、又平に育てられていた。
(父っさまあ、怒るぞう。なんでとめんかったと、怒鳴るやろなあ)
久吉の家の向こうには、家が一軒あるだけで、だらだらと山道にかかる。
(はぐれてしもうたと言ったらええやろか)
(いやいや、はぐれたなんぞと言ったら、なおのこと叱られるやろな)
のんきな久吉も、わが家を目の前に、さすがに思案顔《しあんがお》になる。長助のことが、こんなに重荷になるとは思わなかった。
(こりゃ、えらいことになったわ。けど、悪いのは長助だ。俺はとめたでな)
腹がくーっと鳴った。のどもからからに乾いている。
(どっちにしても叱られるのは俺や)
久吉は吐息をついて、そっと家に近づいた。と、戸口まで行かぬうちに、
「あの久吉の野郎!」
いきなり、窓から又平の声が聞こえた。久吉はぎょっとした。
「帰って来てみい! 只《ただ》じゃおかんでな!」
(どうしよう)
久吉は窓の下にそっと屈《かが》んだ。と、何やら又平に答える母の声がした。
「なにいっ!? 何だとう!」
潮風で鍛えた又平の声が、びんびんと外までひびく。久吉は首をちぢめて、
「父《と》っさまぁ。神罰《しんばつ》が当たるでえ」
呟《つぶや》いてみる。りよがまた何か言う声がした。と、又平が、
「おりよ、久吉はもう戻《もど》らんでえ。あれは馬鹿者だでな」
(父っさま、戻ったでえ)
久吉はにやっとした。父の怒声には馴《な》れている。聞いているうちに、久吉は次第にその怒声さえ懐かしくなった。
(ああ、腹がすいた)
久吉はひょろひょろと立ち上がった。途端に、
「久吉も久吉なら、長助も長助だ!」
と、怒声が飛んだ。久吉は、再び首をちぢめた。が、
(そうや! 隣の小母《おば》さまに頼もう。隣の小母さまに詫《わ》びてもらお)
久吉は隣家の黒い塀《へい》を見た。船頭嘉市には又平も頭が上がらない。
(うまいこと考えついたわ)
久吉はたまに嘉市の使い走りをすることもある。特にその久吉を、嘉市の妻はかわいがり、
(久吉はほんまにおもしろい子や)
と、よく飴《あめ》や麦こがしをくれる。久吉は急に元気が出て、嘉市の家の門に入った。が、妙にひっそりしている。裏に廻《まわ》ると、飯炊《めした》きの女が出て来て、
「何や、久吉か。えらい汚《きたな》らしいかっこして、今帰って来たんか」
と、驚きの声を上げた。
「うん、帰って来た。たった今な。ところで小母《おば》さま、いるやろか」
「おかみさんも旦那《だんな》さまも、出かけて留守や」
「何や。留守か。困ったなあ」
「何が困ったね」
「小母さまに、うちの父っさまに詫《わ》びを入れてもらおうと思ってな」
「詫び?」
中年の飯炊《めした》き女は、二重にくびれたあごを突き出すようにして、
「いかんいかん。誰が詫びを入れたって駄目《だめ》や。又平さんは朝から晩まで、お前のこと怒っとるだでな。とにかく早うお帰り。でもまあ、よう無事に帰って来たなあ。うちのおかみさんも、えろう心配していたわ」
言われて久吉は、仕方なく歩みを返した。久吉は再び、わが家の窓の下に屈《かが》みこんだ。が、どうしたことか又平の怒声は聞こえない。何かりよと品の声がする。久吉はほっとした。又平が境内《けいだい》に遊びに行ったのかと思った。品の声が少しした。
(しめた。二人っきりやな)
久吉はあけ放った戸口をそっとのぞいた。家の三分の一は土間で、土間には鍬《くわ》や鋤《すき》や漁具が並べてある。|煮〆《にしめ》の匂いもうまそうに漂っている。久吉は、
「あのう……」
と、及び腰になり、
「今、戻《もど》りました」
と小さな声で言った。
「あれ? 今誰か、なんぞ言ったか?」
又平の訝《いぶか》る声がした。久吉はギクリとした。が、今更《いまさら》逃げることもならない。足を一歩土間に踏み入れて、久吉は声を励まし、
「あの、父《と》っさま、今……」
言いかけるや否や、
「何だ!? 久吉でないか!」
「何や! 久吉の声やないか」
又平と、りよの声が同時にした。と思うと、ころがるように又平が土間に降り、
「久吉かあーっ!」
と、いきなり久吉の体を、その逞《たくま》しい腕の中に抱きしめた。久吉はきょとんとした。
「久吉かあーっ! よう戻ったなあ」
痛いほどに又平は久吉を抱きしめ、不意に号泣《ごうきゆう》した。
「久吉っ!」
「兄さ」
りよも品も飛びついて来た。
「父っさまぁ!」
久吉も又平にしがみついて泣いた。と、
「この馬鹿があっ! この馬鹿があっ!」
と、又平は久吉の頭を、二つ三つ殴《なぐ》りつけた。
だが、久吉はのろのろと歩いて行く。やがて久吉は、曲がり角に来た。そこを左に折れると、あと二丁と歩かずにわが家に着くのだが、久吉は小川の縁にしゃがみこんだ。澄んだ川底に青い藻《も》がゆらいでいる。ちょろりと動いた影は小鮒《こぶな》だ。
「困ったなあ」
久吉は思わず呟《つぶや》いた。
久吉は先程《さきほど》、小野浦の町に入って初めて、今日が八幡社の祭りであることに気づいた。久吉は今日が何日であるかを忘れていたのだ。久吉は喜んで、道々出店を見、行き交《か》う人を見た。僅《わず》か一か月しか離れていないのに、もう何年も離れていたかのように、見るものすべてがひどく懐かしかった。が、ある呉服屋の店先で、立ちどまってあたりを見ていた時、いきなり水をかけられた。乞食《こじき》だと思われたのだ。ふだんならともかく、みんなが晴れ着を着ている祭りの日に、垢《あか》と埃《ほこり》にまみれた久吉の姿は、乞食に見えたのかもしれない。久吉は不意にがっくりとし、家に帰ることが俄《にわか》に不安になった。父の怒った顔が、まざまざと目に浮かんだ。
こうして久吉は今、曲がり角まで来たのだが、何とも気が重い。久吉はじっと小川の流れに目をやりながら父の怒りを考える。小川を見ている久吉の耳に、突如境内《とつじよけいだい》から歓声が聞こえた。
「あ! 草《くさ》相撲《ずもう》をやっとる」
八歳の時から、毎年久吉は草相撲に出て来た。子供の草相撲は大人の相撲の先に始まる。
(そうか! したら家はからっぽだな)
相撲好きな父は、毎年祭りには子供の草相撲も見る。きっと今年も見ている筈《はず》だ。品も当然遊びに出ているにちがいない。母のりよだけなら、さほど恐れることはない。
久吉は立ち上がった。ひどく腹が空《す》いている。
(祭りのごちそうがあるやろな)
久吉はにこっとした。祭りには決まって、赤飯に上等の魚がつく。漁師はしていても、ふだんは滅多に魚は口に入らない。たまに鰯《いわし》が食膳《しよくぜん》にのぼるくらいのものだ。
(鰈《かれい》かな。鰤《ぶり》かな)
久吉は心も軽く立ち上がった。茅葺《かやぶ》きのわが家がすぐそこに見えて来た。軒が深く、窓の小さな、二十坪ほどの家だ。その手前に、門構えも立派な、瓦葺《かわらぶ》きの隣家がある。船頭嘉市の家だ。隣家の前まで来て、久吉はまた立ちどまった。
(もし、父《と》っさまがいたら……)
父の又平は手が早い。頭にこぶができたことも、二度や三度ではない。
(まあ、仕方あらせんな)
久吉は自分に言い聞かせてみる。
(けどなあ……)
久吉はためらう。
(長助のことを何と言ったらええかなあ)
江戸に行ったと告げたなら、叱《しか》られるのは久吉だ。長助は早くにふた親を亡くし、船主源六の家に住みこむまでは、又平に育てられていた。
(父っさまあ、怒るぞう。なんでとめんかったと、怒鳴るやろなあ)
久吉の家の向こうには、家が一軒あるだけで、だらだらと山道にかかる。
(はぐれてしもうたと言ったらええやろか)
(いやいや、はぐれたなんぞと言ったら、なおのこと叱られるやろな)
のんきな久吉も、わが家を目の前に、さすがに思案顔《しあんがお》になる。長助のことが、こんなに重荷になるとは思わなかった。
(こりゃ、えらいことになったわ。けど、悪いのは長助だ。俺はとめたでな)
腹がくーっと鳴った。のどもからからに乾いている。
(どっちにしても叱られるのは俺や)
久吉は吐息をついて、そっと家に近づいた。と、戸口まで行かぬうちに、
「あの久吉の野郎!」
いきなり、窓から又平の声が聞こえた。久吉はぎょっとした。
「帰って来てみい! 只《ただ》じゃおかんでな!」
(どうしよう)
久吉は窓の下にそっと屈《かが》んだ。と、何やら又平に答える母の声がした。
「なにいっ!? 何だとう!」
潮風で鍛えた又平の声が、びんびんと外までひびく。久吉は首をちぢめて、
「父《と》っさまぁ。神罰《しんばつ》が当たるでえ」
呟《つぶや》いてみる。りよがまた何か言う声がした。と、又平が、
「おりよ、久吉はもう戻《もど》らんでえ。あれは馬鹿者だでな」
(父っさま、戻ったでえ)
久吉はにやっとした。父の怒声には馴《な》れている。聞いているうちに、久吉は次第にその怒声さえ懐かしくなった。
(ああ、腹がすいた)
久吉はひょろひょろと立ち上がった。途端に、
「久吉も久吉なら、長助も長助だ!」
と、怒声が飛んだ。久吉は、再び首をちぢめた。が、
(そうや! 隣の小母《おば》さまに頼もう。隣の小母さまに詫《わ》びてもらお)
久吉は隣家の黒い塀《へい》を見た。船頭嘉市には又平も頭が上がらない。
(うまいこと考えついたわ)
久吉はたまに嘉市の使い走りをすることもある。特にその久吉を、嘉市の妻はかわいがり、
(久吉はほんまにおもしろい子や)
と、よく飴《あめ》や麦こがしをくれる。久吉は急に元気が出て、嘉市の家の門に入った。が、妙にひっそりしている。裏に廻《まわ》ると、飯炊《めした》きの女が出て来て、
「何や、久吉か。えらい汚《きたな》らしいかっこして、今帰って来たんか」
と、驚きの声を上げた。
「うん、帰って来た。たった今な。ところで小母《おば》さま、いるやろか」
「おかみさんも旦那《だんな》さまも、出かけて留守や」
「何や。留守か。困ったなあ」
「何が困ったね」
「小母さまに、うちの父っさまに詫《わ》びを入れてもらおうと思ってな」
「詫び?」
中年の飯炊《めした》き女は、二重にくびれたあごを突き出すようにして、
「いかんいかん。誰が詫びを入れたって駄目《だめ》や。又平さんは朝から晩まで、お前のこと怒っとるだでな。とにかく早うお帰り。でもまあ、よう無事に帰って来たなあ。うちのおかみさんも、えろう心配していたわ」
言われて久吉は、仕方なく歩みを返した。久吉は再び、わが家の窓の下に屈《かが》みこんだ。が、どうしたことか又平の怒声は聞こえない。何かりよと品の声がする。久吉はほっとした。又平が境内《けいだい》に遊びに行ったのかと思った。品の声が少しした。
(しめた。二人っきりやな)
久吉はあけ放った戸口をそっとのぞいた。家の三分の一は土間で、土間には鍬《くわ》や鋤《すき》や漁具が並べてある。|煮〆《にしめ》の匂いもうまそうに漂っている。久吉は、
「あのう……」
と、及び腰になり、
「今、戻《もど》りました」
と小さな声で言った。
「あれ? 今誰か、なんぞ言ったか?」
又平の訝《いぶか》る声がした。久吉はギクリとした。が、今更《いまさら》逃げることもならない。足を一歩土間に踏み入れて、久吉は声を励まし、
「あの、父《と》っさま、今……」
言いかけるや否や、
「何だ!? 久吉でないか!」
「何や! 久吉の声やないか」
又平と、りよの声が同時にした。と思うと、ころがるように又平が土間に降り、
「久吉かあーっ!」
と、いきなり久吉の体を、その逞《たくま》しい腕の中に抱きしめた。久吉はきょとんとした。
「久吉かあーっ! よう戻ったなあ」
痛いほどに又平は久吉を抱きしめ、不意に号泣《ごうきゆう》した。
「久吉っ!」
「兄さ」
りよも品も飛びついて来た。
「父っさまぁ!」
久吉も又平にしがみついて泣いた。と、
「この馬鹿があっ! この馬鹿があっ!」
と、又平は久吉の頭を、二つ三つ殴《なぐ》りつけた。