岩松、久吉、音吉の三人は、炉端に並んで夕食を取っていた。今日はそれでも熱いスープが与えられた。珍しく誰の残り物でもない魚も出た。
「何だか、みんな楽しそうやな」
例によって久吉が言う。
「ほんとやな。やっぱり、舟で来たあの男たちは、ピーコーをもらいに来たのかな」
音吉が相槌を打つ。
「そうや、きっとそうや。だから今夜は気前がいいんや」
特に、ピーコーの両親である酋長夫婦は、笑顔で楽しげに何か話し合っている。
岩松が言った。
「早く硯を返さんとならんな」
「そうやな」
音吉は浮かぬ顔をして、自分の寝床のほうを見上げた。久吉が、
「大丈夫や。どうせ、字を書く者はここにはおらんやろ。それが証拠に、十日経っても硯がなくなったのに、気づかんようだでな」
「しかしな、この間よそから何人か来た時、頭《かしら》は宝順丸から持って来た物を、得意気に見せていたでな。もしピーコーが嫁にでも行くことが決まれば、必ずまた見せびらかすにちがいあらせんで」
「そうやな。どうやって返したものかな」
「こんなに一つの家に、三十人も四十人もごろごろしていられては、返す折《おり》がないでなあ」
これは毎晩くり返し三人が語り合って来たことだ。いい知恵がないままに、遂に十日は過ぎたのだ。
「しかし、とにかくあの男に手紙を頼めたんだ。いずれいい機会はくる」
岩松が二人を励ますように言った。
「だけど舵取《かじと》りさん。それがまた心配の種にもなったしな」
久吉の言葉に音吉がうなずき、
「言葉がわからんと、心配なことが多いなあ」
「それはまあそうだが、取り越し苦労はしないものよ」
岩松は言いながら、酋長《しゆうちよう》のほうに目をやった。と、何を思ったか、酋長が立ち上がって、懸硯《かけすずり》の引き出しに手をかけた。岩松ははっと身を固くした。酋長は何か笑いながらピーコーに話しかけ、引き出しをひいた。酋長は「おや」と言うように首を傾け、その上の引き出しをあけた。
「音、久公」
岩松が言った時、
「イーシュ・サップ!(ないぞ)」
酋長が叫んだ。
「イーシュ・サップ!?」
酋長の隣の一画《いつかく》にいたアー・ダンクが鋭く聞き返した。
三人の顔から血が引いた。
「しまった、遅かった!」
イーシュ・サップという言葉を三人も知っていた。時々使う言葉だからだ。
「硯《すずり》のことやな!」
音吉の体がふるえた。
「そうや、まちがいない!」
岩松が声を低めて言い、
「舵取《かじと》りさん、硯を海にでも投げて来るか」
久吉が岩松の顔を見た。
「じたばたするな。見つかるまで知らん顔をせい」
「だって……」
「かまわん。みつかっても、しらを切り通すんだ。おどおどするな」
岩松は、音吉と久吉に、食器をいつものように部屋の隅《すみ》に洗いに行かせた。その間も、酋長《しゆうちよう》は長々と何か言い、アー・ダンクの怒鳴る声がした。家の中はたちまち騒然となった。
「ダー・ダッチュ・チッシュ!(探すんだ)アー・ダンク!」
アー・ダンクが何か言い、鞭《むち》を持つと、すぐ隣の住居から探し始めた。各住居の仕切りにもなっている大きな杉の箱がひらかれ、中から毛布や衣服が取り出された。壁に吊《つ》るしてある食糧籠《しよくりようかご》もおろされた。赤子の眠っている揺籃《ゆりかご》も調べられた。マットもはいで見る。そのアー・ダンクのうしろに、灯をかかげてドウ・ダーク・テールが従う。
「こりゃあ、きびしいぞ」
岩松が呟《つぶや》いた。アー・ダンクは次々と調べて行く。女も子供も、自分の居場所から動く者がいない。多分|酋長《しゆうちよう》がそう命じたのだろう。
「どうする、舵取《かじと》りさん!」
食器を洗って来た久吉の歯の根が合わない。
「心配するな。いざとなったら、俺がやったと言ってやる」
「だけど……舵取りさん」
「確かに俺がやったことにちがいないんだ」
岩松は薄笑いさえ浮かべて見せた。が、久吉も音吉も体がふるえてならない。とにかく硯《すずり》や筆は音吉の寝床の中にある。音吉は、上あごと下あごがへばりついてしまった。
(みつかったら、わしは……)
アー・ダンクのことだ。あの鞭《むち》が背の皮を破るほどに殴《なぐ》るだろう。
「元々は俺たちの物だ」
岩松はさりげなく薪《まき》を炉にくべながら言った。新しい薪は、たちまち炎を上げて、三人の顔を照らす。
アー・ダンクは次々と調べて、次第に三人のほうに近づいて来る。そして遂に三人の傍《そば》に来た。アー・ダンクは岩松の顔を見た。岩松はいつもと同じ顔で、アー・ダンクを見返した。アー・ダンクはちらりと岩松の寝床のほうを一瞥《いちべつ》した。三人には、粗末な籠《かご》が与えられているだけだ。アー・ダンクは岩松の寝床の前に立つと、こわれかけた籠をあけた。毛布のほかに何も入っていない。アー・ダンクは鼻先で笑い、何か言った。岩松の寝床になければ、久吉、音吉の寝床にあるわけはないとでも言うような表情で、アー・ダンクはちらりと二人の寝床を見上げた。そしてそのまま、隣の奴隷《どれい》たちの仕切りに近づいて行った。
「助こうた!」
思わず久吉が吐息をついた。と、アー・ダンクがくるりとうしろを向いた。そして鋭く何か言った。かと思うと、アー・ダンクは素早く踵《きびす》を返して、梯子《はしご》に手をかけた。久吉の寝床には何もなかった。アー・ダンクは遂に音吉の寝床に上がった。音吉は観念して両の拳《こぶし》を固く握り、アー・ダンクをまばたきもせず見上げた。
(ああ、もう駄目《だめ》や!)
枕もとの敷物の下に、硯《すずり》や墨は隠してあるのだ。今朝も音吉は、それに手をふれて確かめておいた。
アー・ダンクが何か言った。三人は息をつめた。が、どうしたことか、梯子を降りて来たアー・ダンクのその手には、何もなかった。三人は凝然と、そのアー・ダンクを見守っていた。
「何だか、みんな楽しそうやな」
例によって久吉が言う。
「ほんとやな。やっぱり、舟で来たあの男たちは、ピーコーをもらいに来たのかな」
音吉が相槌を打つ。
「そうや、きっとそうや。だから今夜は気前がいいんや」
特に、ピーコーの両親である酋長夫婦は、笑顔で楽しげに何か話し合っている。
岩松が言った。
「早く硯を返さんとならんな」
「そうやな」
音吉は浮かぬ顔をして、自分の寝床のほうを見上げた。久吉が、
「大丈夫や。どうせ、字を書く者はここにはおらんやろ。それが証拠に、十日経っても硯がなくなったのに、気づかんようだでな」
「しかしな、この間よそから何人か来た時、頭《かしら》は宝順丸から持って来た物を、得意気に見せていたでな。もしピーコーが嫁にでも行くことが決まれば、必ずまた見せびらかすにちがいあらせんで」
「そうやな。どうやって返したものかな」
「こんなに一つの家に、三十人も四十人もごろごろしていられては、返す折《おり》がないでなあ」
これは毎晩くり返し三人が語り合って来たことだ。いい知恵がないままに、遂に十日は過ぎたのだ。
「しかし、とにかくあの男に手紙を頼めたんだ。いずれいい機会はくる」
岩松が二人を励ますように言った。
「だけど舵取《かじと》りさん。それがまた心配の種にもなったしな」
久吉の言葉に音吉がうなずき、
「言葉がわからんと、心配なことが多いなあ」
「それはまあそうだが、取り越し苦労はしないものよ」
岩松は言いながら、酋長《しゆうちよう》のほうに目をやった。と、何を思ったか、酋長が立ち上がって、懸硯《かけすずり》の引き出しに手をかけた。岩松ははっと身を固くした。酋長は何か笑いながらピーコーに話しかけ、引き出しをひいた。酋長は「おや」と言うように首を傾け、その上の引き出しをあけた。
「音、久公」
岩松が言った時、
「イーシュ・サップ!(ないぞ)」
酋長が叫んだ。
「イーシュ・サップ!?」
酋長の隣の一画《いつかく》にいたアー・ダンクが鋭く聞き返した。
三人の顔から血が引いた。
「しまった、遅かった!」
イーシュ・サップという言葉を三人も知っていた。時々使う言葉だからだ。
「硯《すずり》のことやな!」
音吉の体がふるえた。
「そうや、まちがいない!」
岩松が声を低めて言い、
「舵取《かじと》りさん、硯を海にでも投げて来るか」
久吉が岩松の顔を見た。
「じたばたするな。見つかるまで知らん顔をせい」
「だって……」
「かまわん。みつかっても、しらを切り通すんだ。おどおどするな」
岩松は、音吉と久吉に、食器をいつものように部屋の隅《すみ》に洗いに行かせた。その間も、酋長《しゆうちよう》は長々と何か言い、アー・ダンクの怒鳴る声がした。家の中はたちまち騒然となった。
「ダー・ダッチュ・チッシュ!(探すんだ)アー・ダンク!」
アー・ダンクが何か言い、鞭《むち》を持つと、すぐ隣の住居から探し始めた。各住居の仕切りにもなっている大きな杉の箱がひらかれ、中から毛布や衣服が取り出された。壁に吊《つ》るしてある食糧籠《しよくりようかご》もおろされた。赤子の眠っている揺籃《ゆりかご》も調べられた。マットもはいで見る。そのアー・ダンクのうしろに、灯をかかげてドウ・ダーク・テールが従う。
「こりゃあ、きびしいぞ」
岩松が呟《つぶや》いた。アー・ダンクは次々と調べて行く。女も子供も、自分の居場所から動く者がいない。多分|酋長《しゆうちよう》がそう命じたのだろう。
「どうする、舵取《かじと》りさん!」
食器を洗って来た久吉の歯の根が合わない。
「心配するな。いざとなったら、俺がやったと言ってやる」
「だけど……舵取りさん」
「確かに俺がやったことにちがいないんだ」
岩松は薄笑いさえ浮かべて見せた。が、久吉も音吉も体がふるえてならない。とにかく硯《すずり》や筆は音吉の寝床の中にある。音吉は、上あごと下あごがへばりついてしまった。
(みつかったら、わしは……)
アー・ダンクのことだ。あの鞭《むち》が背の皮を破るほどに殴《なぐ》るだろう。
「元々は俺たちの物だ」
岩松はさりげなく薪《まき》を炉にくべながら言った。新しい薪は、たちまち炎を上げて、三人の顔を照らす。
アー・ダンクは次々と調べて、次第に三人のほうに近づいて来る。そして遂に三人の傍《そば》に来た。アー・ダンクは岩松の顔を見た。岩松はいつもと同じ顔で、アー・ダンクを見返した。アー・ダンクはちらりと岩松の寝床のほうを一瞥《いちべつ》した。三人には、粗末な籠《かご》が与えられているだけだ。アー・ダンクは岩松の寝床の前に立つと、こわれかけた籠をあけた。毛布のほかに何も入っていない。アー・ダンクは鼻先で笑い、何か言った。岩松の寝床になければ、久吉、音吉の寝床にあるわけはないとでも言うような表情で、アー・ダンクはちらりと二人の寝床を見上げた。そしてそのまま、隣の奴隷《どれい》たちの仕切りに近づいて行った。
「助こうた!」
思わず久吉が吐息をついた。と、アー・ダンクがくるりとうしろを向いた。そして鋭く何か言った。かと思うと、アー・ダンクは素早く踵《きびす》を返して、梯子《はしご》に手をかけた。久吉の寝床には何もなかった。アー・ダンクは遂に音吉の寝床に上がった。音吉は観念して両の拳《こぶし》を固く握り、アー・ダンクをまばたきもせず見上げた。
(ああ、もう駄目《だめ》や!)
枕もとの敷物の下に、硯《すずり》や墨は隠してあるのだ。今朝も音吉は、それに手をふれて確かめておいた。
アー・ダンクが何か言った。三人は息をつめた。が、どうしたことか、梯子を降りて来たアー・ダンクのその手には、何もなかった。三人は凝然と、そのアー・ダンクを見守っていた。