一
今日も五月の空は青い。太陽が山に海に眩《まぶ》しく照り輝いている。音吉と久吉は、子供たちと一緒に、命じられた海草拾いをしていた。鰊《にしん》の匂いがまだ浜に残っている。家々の屋根の上には、身をひらいた鰊が一面に干されていた。
「オト、オト」
子供たちはまつわるようについて来る。その中にはシュー・フーブもいた。音吉が「さと」と呼ぶ五、六歳の女の子だ。子供たちはみんな裸だ。音吉も久吉も腰布一枚だ。
この二、三日海は荒れた。その大波に岩場から引きちぎられ打ち上げられた海草が、浜に散乱していた。藻のような細いものもあれば、蛇《へび》のように太い茎をもった海草もある。大きなものは、肩にかついで引きずる程《ほど》だ。大きな海草を見ると、子供たちは、
「ウワーッ!」
と叫ぶ。そして、小さな石を拾って、鯨獲《くじらと》りの遊びをする。投げる礫《つぶて》はモリのつもりなのだ。誰かがこれを始めると、女の子も男の子も、吾《われ》を忘れて熱中する。今も子供たちは、一本の太い海草に向かって、夢中になって石をなげつけていた。誰もが顔を真っ赤にして、真剣に投げつける。シュー・フーブさえも目を輝かせて石を投げている。
「音、やっぱりこの子らは、日本の子やないな」
「うん、そうやな」
音吉は海草を拾いながら答えた。小野浦にはこんな遊びはなかった。ここの子供たちは、太い海草の茎が、あたかも本物の鯨《くじら》であるかのように、幾度となく石を投げつける。そして命中する度に歓声を上げる。しかも、茎がずたずたになるまで、決してその手をとめはしない。
「何やら気味が悪いな」
「そうやなあ。けどこのあたりの者たちは、鯨を獲るのがうまければ、尊敬されるでな」
「そりゃあそうやけどな、見てると気味が悪いわ、あんなにずたずたになるまで投げせんでもいいのに、血でも噴き出してくるような、何かいやな気持ちやな」
久吉は顔をしかめて見せた。事、鯨獲りのことになると、男も女も、子供たちも熱中する。それだけが生き甲斐《がい》のような、熱気が感じられるのだ。
「船の子たちも、鯨獲りの稽古《けいこ》や」
久吉が海のほうをあごでしゃくった。海には小さなカヌーが幾隻《いくせき》か出ていた。ほんの浅い所だが、男の子たちが巧みにカヌーを操っている。手足と同じように、鮮やかに櫂《かい》を操るようになるためには、小さい時からこうした遊びが欠かせないのであろう。
二人は子供たちを置いて、海草を肩に担《かつ》いでは運んで行く。砂浜の所々に集めておくのだ。
二人はまた海草を拾う。単調な仕事だ。格別に頭を使うこともなく、打ち上げられた海草類を拾い上げるだけだ。音吉には、こんな単調な仕事が堪《た》え難い。こんな単調な仕事をしていると、思いはつい故里小野浦に馳《は》せることになるからだ。
(父っさまの足は、少しはよくなったかな)
(いやいや、よくなるわけはあらせん。兄さとわしが、一度に死んだと、さぞ気落ちして……足腰も立たなくなったかも知れん)
その寝たっきりの父武右衛門の顔がまざまざと目に浮かぶ。気のやさしい武右衛門が、目尻に涙をためている様子がまたしても浮かんで来る。母親の美乃がふり上げる鍬《くわ》がきらりと光って見える。胡瓜《きゆうり》や茄子《なす》のなっている様子が目に浮かぶ。顔にかぶった手拭《てぬぐ》いで、時々首筋の汗をぬぐう美乃の姿が、今目の前に見えるように浮かんでくる。
(おさとも大きくなったやろなあ)
兄二人を失ったさとは、一人ぼっちになってしまった。だが琴が、きっと目をかけてくれているにちがいない。黒塀《くろべい》をめぐらした琴の家、そして土蔵の白い壁が思い出された。胸のきゅっと痛くなるような懐かしさだ。
(けど、お琴は嫁に行ったかも知れせん)
懐かしさが急に淋《さび》しさに変わった。良参寺のあの境内《けいだい》に、きっと自分たちの墓は建てられたことだろう。考えてみると、自分たちの一周忌も過ぎたわけだ。琴は幾度墓参りしてくれたことか。あの墓に行くには、鐘楼《しようろう》の前を通る。
いつであったか、みんなでかくれんぼをしたことがあった。あの時、鐘楼の下の物置に音吉が入ると、琴が中にひそんでいた。琴とたった二人になって、胸苦しいような思いがしたものだ。階段の途中に腰をかけて、琴は音吉をみつめていた。その短い着物の裾《すそ》から琴の足がのぞいていた。
(あの時、お琴は言った。船に乗ったらあかんと)
「何であかん」
聞き返す音吉に、琴は階段から降りて、音吉の傍《そば》に身をすり寄せるように、近々と顔を向けて言った。
「嵐はこわいでな。陸《おか》にいて欲しいわ」
琴は真剣な顔だった。
嵐はこわいと言った琴の言葉が今にして胸に迫る。音吉は、赤や青の海草を裸の肩に担《かつ》ぎながら、思いは遠くふるさとにあった。と、先に立って歩いていた久吉が、
「音、早く故里《くに》に帰りたいなあ」
と、しみじみと言った。
「うん」
音吉は不意に泣きたいような気がした。いつも自分たちは、心の中で故里のことを考えている。いつもこうなのだ。音吉が故里のことを言うと、久吉が、
「何や、おれと同じことを考えていたんやな」
と答えるのだ。そしてまた、音吉が小野浦のことを思っていると、不意に久吉が、
「ああ、父っさまは何をしてるかなあ」
とか、
「あの餠屋《もちや》の娘な」
などと言い出すことがある。岩松は滅多に故里のことを口に出さない。が、岩松もきっと同じなのだろうと音吉は思っている。今日は岩松は、アー・ダンクやドウ・ダーク・テールたちと一緒に家の修理をしていた。二、三日つづいた嵐で、壊れかかった扉を、つけ直している筈《はず》だった。それが終わったら、一緒に海草拾いをすることになっていた。
子供たちの騒ぐ声が、次第に遠ざかった。子供たちはまだ鯨獲《くじらと》り遊びに熱中している。
「一休みするか」
久吉は砂浜に腰をおろした。尻に砂が熱いほどだ。岩の多い磯浜に平行して、白い砂浜が帯のようにつづいている。打ち上げられた木の株や、皮がすっかりむけて、日に曝《さら》された丸木が浜べの所々にちらばっている。宝順丸の打ち上げられている浜も、すぐ目の先だ。
「そうやな。一休みするか」
他の女たちや、奴隷《どれい》たちは、砂浜に腰をおろして休んでいる。音吉や久吉にくらべて、ここの者たちは一心不乱に働くことは余りない。時々腰をおろし、仕事の手をとめる。日本人たちのように、絶え間なく働く気風ではないようだ。
「蝮《まむし》がやってくるかな」
久吉は家のほうをふり返りながら言った。家からは二丁|程《ほど》離れている。
「来やせんさ」
音吉は指で砂の上に、「小野浦」と書いた。
「ところでな、音、蝮の奴《やつ》、お前んこと、どうして殴《なぐ》らんのやろな」
「どうしてやろな。わからんけど、すまんことやな」
音吉は心からすまないと思う。なぜ自分だけが鞭《むち》打たれないのか。音吉も初めはわからなかった。だがそれは、子供たちのお蔭《かげ》でもあることがわかってきた。アー・ダンクが音吉を殴《なぐ》ると、子供たちが泣いたり、怒鳴ったり、騒ぎ立てるのだ。アー・ダンク自身も、音吉の素直な顔を見ると、つい矛先《ほこさき》が鈍る。が、すぐに口を尖《とが》らす久吉や、殴られても怒鳴られても、顔色一つ変えない岩松を見ると、無性《むしよう》に腹立たしくなる。それでいつしか鞭は二人だけに向けられるようになった。その上|酋長《しゆうちよう》も、音吉にはことの外《ほか》目をかけていた。酋長は音吉に、特別の食物を与えたり、杉の皮の着物や、アザラシの毛皮さえ与えた。音吉は自分が優遇されればされるほど、身を小さくして働いた。
「音はいいな。小野浦ではお琴の婿《むこ》になったし、ここに来たら来たで、俺たちとはちがう扱いを受けるでな」
羨《うらや》むというより感心する語調であった。
「すまんな、久吉」
音吉は久吉の肩に白く干からびた塩を、手の指で払いながら言った。
「すまんことあらせんで。一人でも殴られん者がいたほうがいい。三人が三人いじめられては、心もとないでな」
久吉はにやっと笑って音吉を見たが、そのまま顔を海に向けた。陽に焼けた顔だ。
二人は立ち上がると、また海草を拾いながら歩き始めた。あちこちに海草の小山が出来ている。これらの海草は、食物になったり、ロープになったり、壁の目張りに使われたりするのだ。音吉は、幅広い昆布のような海草を拾った。水を含んだ海草は、ずっしりと重かった。
「おやっ!?」
音吉は思わず目をみはった。その海草の下から、小さな鍋蓋《なべぶた》が現れたのだ。
「何や、大きな声を出して」
ふり返った久吉に、音吉の声がふるえた。
「久吉! これ、鍋蓋やないか!?」
「鍋蓋!? ああ、鍋蓋やな」
久吉がのん気に言った。音吉は鍋蓋のつまみを持って、腕を弾ませた。鍋蓋には、|※[#カネサの印]《カネサ》と焼き印が押してある。
「宝順丸から流れ出したんやないか、音」
久吉が言った。
「ちがう! 久吉、これを見い。※[#カネサの印]と焼き印が押してある。宝順丸の焼き印とはちがう。これは……」
音吉は遥《はる》か水平線の方に目をやった。
「これは? これはって何や」
「久吉! これは、日本から、流れて来たんや。それにちがいあらせん!」
「日本から? そんな馬鹿な」
「いや、日本からや。この焼き印は日本のものや。この字は日本の字や。ちがいあらせん。宝順丸には、こんな小さな鍋蓋《なべぶた》はなかったでな。これは、普通の家で使う鍋蓋や」
音吉の言葉に、久吉の目が俄《にわか》に輝いた。
「そう言えばそうや! 宝順丸のものではあらせん」
久吉は言うなり、音吉の手から鍋蓋をぐいと奪い、
「日本から来たのかあっ!」
と胸に抱いた。
「そうや、きっとそうや。宝順丸が潮に乗ってここに流れ着いたように、この蓋も流れ着いたんや」
「と言うことは、この海の潮は、日本から流れて来た潮やということやな」
久吉が声を詰まらせた。とその時、いつのまに二人の傍《そば》に来たのか、岩松がうしろで言った。
「見せて見い、その鍋蓋を」
久吉が差し出すと、岩松はじっと鍋蓋をみつめて、
「※[#カネサの印]」
と、口に出して焼き印を読んだ。かと思うと、岩松は両|膝《ひざ》を砂につけ、声もなく肩をふるわせた。日本から流れ着いた小さな鍋蓋に、三人は三様の涙をこぼした。
しばらくの間、三人は何も言わずに、涙にかすむ目で、遠い海の彼方《かなた》をみつめた。鴎《かもめ》が、その三人の上をやさしく鳴きながら飛びかっていた。
やがて久吉が、海の中に足を入れながら言った。
「これは日本から来た潮や、日本の土を洗って来た潮や!」
岩松はなおも鍋蓋を抱きしめて、唇《くちびる》を噛《か》んでいた。
その時突然どこかで悲鳴が上がった。女の悲鳴だった。三人はふり返った。アー・ダンクが女の上に馬乗りになって、殴《なぐ》っている。一丁|程《ほど》向こうの砂の上だ。
「どうしたんやろ!?」
久吉が渚《なぎさ》に突っ立ったまま言った。黒い久吉の足を、打ち寄せる波が洗っている。
「蝮《まむし》のご新造や」
音吉が不安げに言った。岩松の目がちかりと光った。インデアンの男たちは時折《ときおり》、その妻を殴る。余りに殴ると、妻たちはその男を置いて出て行ってしまう。そして、他の男の所に堂々と嫁ぐ。そうした時、夫たちは、出て行った妻の嫁ぎ先にねじこむことまではしなかった。すべての人から軽蔑されるからであった。それはともかく、男が妻を殴る光景は、音吉たちもしばしば見てきた。それは日本でも見てきた光景であった。
アー・ダンクは気が短かったが、その割には、他の男ほど妻を殴ることはなかった。アー・ダンクは妻のヘイ・アイブに惚《ほ》れこんでいるようであった。そのヘイ・アイブにアー・ダンクは今、馬乗りになって殴りつけている。浜にいた男や女たちが、仕事を捨てて駈《か》け寄った。子供たちも大人たちの後ろから走った。音吉は岩松の顔を見た。岩松は視線を海に投げかけたままだ。音吉は岩松に何か言おうと思った。が、黙って、ヘイ・アイブのほうに走り出した。久吉も走り出した。が、
「舵取《かじと》りさんは、どうして来ないんや?」
久吉が岩松をふり返った。音吉も足をとめて、
「わからん。けど、深い考えがあるんやろ。行って見たかて、あのご新造を救うわけにもいかんやろ」
「それもそうやな。相手が蝮《まむし》やからな。わしらが行ったかて、何の助けにもならせんけど、あのご新造かわいそうやでな。悪いこと何もせんのに」
(悪いことせんのに……)
音吉は不意に考える顔になって、
(ほんまにあのご新造は悪いことをしてはおらんのやろか)
いつか、森の中でヘイ・アイブは岩松と顔もすれすれに向かい合って立っていた。洗濯《せんたく》をしていた時、小さな籠《かご》に菓子を持って来てくれた。硯《すずり》や筆をそっと返してくれたのも、ヘイ・アイブらしい。いつも岩松をじっとみつめているのも、ヘイ・アイブだ。
(いや、それよりも……)
二日|程《ほど》前の夜のことを、音吉は思い浮かべた。嵐で入り口の戸ががたがたと鳴った。音吉は、それが耳について寝つけなかった。音吉の寝床は一番高い。そこからは家の中がよく見渡せた。何げなく下を見おろした音吉の目に、ヘイ・アイブの姿が見えた。
(廁《かわや》に行くのやろか。この嵐の中を大変やな)
と思ったが、ヘイ・アイブは岩松の傍《そば》にためらうふうもなくやって来た。岩松は、一番下の寝床だ。音吉の胸が動悸《どうき》した。思わず身を乗り出すようにして、眼下のヘイ・アイブを見た。ヘイ・アイブは垂れ幕を持ち上げて、しばらく岩松の寝顔を見ているようだった。が、つと、体を屈《かが》めると、胸から上が音吉の視界から消えた。音吉は生唾《なまつば》をのみこんだ。と、ヘイ・アイブは何事もなかったかのように、静かな足どりで自分の寝床に帰って行った。
(あのご新造……悪いことをしとるかも知れせん)
あの夜は偶然音吉が気づいたが、あるいはヘイ・アイブが、これまで幾度も岩松の傍《かたわ》らに、あのように立っていたのではないか。何のためにヘイ・アイブは身を屈めたのか。音吉はこれ以上人の輪に近づくことができないような気がした。
久吉が一人走って行くのを、音吉は見守った。と、その音吉の手を、不意に握った者がいた。ドウ・ダーク・テールだった。ドウ・ダーク・テールは酋長《しゆうちよう》の息子。アー・ダンクの甥《おい》に当たる。ピーコーの兄であった。
驚く音吉の手をぐいぐいと引いて、ドウ・ダーク・テールは岩松の傍《そば》に行った。いつもは人なつっこい笑顔を見せるドウ・ダーク・テールが、顔色を変えていた。ドウ・ダーク・テールは親指を立ててアー・ダンクと言い、小指を立ててヘイ・アイブと言い、更に岩松を差して「イワ」と言った。そしてその両手を、何かをかきまぜるように忙しく動かし、
「コック・サフ」
と言った。
音吉ははっとした。「コック・サフ」とは、「殺す」という言葉であった。
「オト、オト」
子供たちはまつわるようについて来る。その中にはシュー・フーブもいた。音吉が「さと」と呼ぶ五、六歳の女の子だ。子供たちはみんな裸だ。音吉も久吉も腰布一枚だ。
この二、三日海は荒れた。その大波に岩場から引きちぎられ打ち上げられた海草が、浜に散乱していた。藻のような細いものもあれば、蛇《へび》のように太い茎をもった海草もある。大きなものは、肩にかついで引きずる程《ほど》だ。大きな海草を見ると、子供たちは、
「ウワーッ!」
と叫ぶ。そして、小さな石を拾って、鯨獲《くじらと》りの遊びをする。投げる礫《つぶて》はモリのつもりなのだ。誰かがこれを始めると、女の子も男の子も、吾《われ》を忘れて熱中する。今も子供たちは、一本の太い海草に向かって、夢中になって石をなげつけていた。誰もが顔を真っ赤にして、真剣に投げつける。シュー・フーブさえも目を輝かせて石を投げている。
「音、やっぱりこの子らは、日本の子やないな」
「うん、そうやな」
音吉は海草を拾いながら答えた。小野浦にはこんな遊びはなかった。ここの子供たちは、太い海草の茎が、あたかも本物の鯨《くじら》であるかのように、幾度となく石を投げつける。そして命中する度に歓声を上げる。しかも、茎がずたずたになるまで、決してその手をとめはしない。
「何やら気味が悪いな」
「そうやなあ。けどこのあたりの者たちは、鯨を獲るのがうまければ、尊敬されるでな」
「そりゃあそうやけどな、見てると気味が悪いわ、あんなにずたずたになるまで投げせんでもいいのに、血でも噴き出してくるような、何かいやな気持ちやな」
久吉は顔をしかめて見せた。事、鯨獲りのことになると、男も女も、子供たちも熱中する。それだけが生き甲斐《がい》のような、熱気が感じられるのだ。
「船の子たちも、鯨獲りの稽古《けいこ》や」
久吉が海のほうをあごでしゃくった。海には小さなカヌーが幾隻《いくせき》か出ていた。ほんの浅い所だが、男の子たちが巧みにカヌーを操っている。手足と同じように、鮮やかに櫂《かい》を操るようになるためには、小さい時からこうした遊びが欠かせないのであろう。
二人は子供たちを置いて、海草を肩に担《かつ》いでは運んで行く。砂浜の所々に集めておくのだ。
二人はまた海草を拾う。単調な仕事だ。格別に頭を使うこともなく、打ち上げられた海草類を拾い上げるだけだ。音吉には、こんな単調な仕事が堪《た》え難い。こんな単調な仕事をしていると、思いはつい故里小野浦に馳《は》せることになるからだ。
(父っさまの足は、少しはよくなったかな)
(いやいや、よくなるわけはあらせん。兄さとわしが、一度に死んだと、さぞ気落ちして……足腰も立たなくなったかも知れん)
その寝たっきりの父武右衛門の顔がまざまざと目に浮かぶ。気のやさしい武右衛門が、目尻に涙をためている様子がまたしても浮かんで来る。母親の美乃がふり上げる鍬《くわ》がきらりと光って見える。胡瓜《きゆうり》や茄子《なす》のなっている様子が目に浮かぶ。顔にかぶった手拭《てぬぐ》いで、時々首筋の汗をぬぐう美乃の姿が、今目の前に見えるように浮かんでくる。
(おさとも大きくなったやろなあ)
兄二人を失ったさとは、一人ぼっちになってしまった。だが琴が、きっと目をかけてくれているにちがいない。黒塀《くろべい》をめぐらした琴の家、そして土蔵の白い壁が思い出された。胸のきゅっと痛くなるような懐かしさだ。
(けど、お琴は嫁に行ったかも知れせん)
懐かしさが急に淋《さび》しさに変わった。良参寺のあの境内《けいだい》に、きっと自分たちの墓は建てられたことだろう。考えてみると、自分たちの一周忌も過ぎたわけだ。琴は幾度墓参りしてくれたことか。あの墓に行くには、鐘楼《しようろう》の前を通る。
いつであったか、みんなでかくれんぼをしたことがあった。あの時、鐘楼の下の物置に音吉が入ると、琴が中にひそんでいた。琴とたった二人になって、胸苦しいような思いがしたものだ。階段の途中に腰をかけて、琴は音吉をみつめていた。その短い着物の裾《すそ》から琴の足がのぞいていた。
(あの時、お琴は言った。船に乗ったらあかんと)
「何であかん」
聞き返す音吉に、琴は階段から降りて、音吉の傍《そば》に身をすり寄せるように、近々と顔を向けて言った。
「嵐はこわいでな。陸《おか》にいて欲しいわ」
琴は真剣な顔だった。
嵐はこわいと言った琴の言葉が今にして胸に迫る。音吉は、赤や青の海草を裸の肩に担《かつ》ぎながら、思いは遠くふるさとにあった。と、先に立って歩いていた久吉が、
「音、早く故里《くに》に帰りたいなあ」
と、しみじみと言った。
「うん」
音吉は不意に泣きたいような気がした。いつも自分たちは、心の中で故里のことを考えている。いつもこうなのだ。音吉が故里のことを言うと、久吉が、
「何や、おれと同じことを考えていたんやな」
と答えるのだ。そしてまた、音吉が小野浦のことを思っていると、不意に久吉が、
「ああ、父っさまは何をしてるかなあ」
とか、
「あの餠屋《もちや》の娘な」
などと言い出すことがある。岩松は滅多に故里のことを口に出さない。が、岩松もきっと同じなのだろうと音吉は思っている。今日は岩松は、アー・ダンクやドウ・ダーク・テールたちと一緒に家の修理をしていた。二、三日つづいた嵐で、壊れかかった扉を、つけ直している筈《はず》だった。それが終わったら、一緒に海草拾いをすることになっていた。
子供たちの騒ぐ声が、次第に遠ざかった。子供たちはまだ鯨獲《くじらと》り遊びに熱中している。
「一休みするか」
久吉は砂浜に腰をおろした。尻に砂が熱いほどだ。岩の多い磯浜に平行して、白い砂浜が帯のようにつづいている。打ち上げられた木の株や、皮がすっかりむけて、日に曝《さら》された丸木が浜べの所々にちらばっている。宝順丸の打ち上げられている浜も、すぐ目の先だ。
「そうやな。一休みするか」
他の女たちや、奴隷《どれい》たちは、砂浜に腰をおろして休んでいる。音吉や久吉にくらべて、ここの者たちは一心不乱に働くことは余りない。時々腰をおろし、仕事の手をとめる。日本人たちのように、絶え間なく働く気風ではないようだ。
「蝮《まむし》がやってくるかな」
久吉は家のほうをふり返りながら言った。家からは二丁|程《ほど》離れている。
「来やせんさ」
音吉は指で砂の上に、「小野浦」と書いた。
「ところでな、音、蝮の奴《やつ》、お前んこと、どうして殴《なぐ》らんのやろな」
「どうしてやろな。わからんけど、すまんことやな」
音吉は心からすまないと思う。なぜ自分だけが鞭《むち》打たれないのか。音吉も初めはわからなかった。だがそれは、子供たちのお蔭《かげ》でもあることがわかってきた。アー・ダンクが音吉を殴《なぐ》ると、子供たちが泣いたり、怒鳴ったり、騒ぎ立てるのだ。アー・ダンク自身も、音吉の素直な顔を見ると、つい矛先《ほこさき》が鈍る。が、すぐに口を尖《とが》らす久吉や、殴られても怒鳴られても、顔色一つ変えない岩松を見ると、無性《むしよう》に腹立たしくなる。それでいつしか鞭は二人だけに向けられるようになった。その上|酋長《しゆうちよう》も、音吉にはことの外《ほか》目をかけていた。酋長は音吉に、特別の食物を与えたり、杉の皮の着物や、アザラシの毛皮さえ与えた。音吉は自分が優遇されればされるほど、身を小さくして働いた。
「音はいいな。小野浦ではお琴の婿《むこ》になったし、ここに来たら来たで、俺たちとはちがう扱いを受けるでな」
羨《うらや》むというより感心する語調であった。
「すまんな、久吉」
音吉は久吉の肩に白く干からびた塩を、手の指で払いながら言った。
「すまんことあらせんで。一人でも殴られん者がいたほうがいい。三人が三人いじめられては、心もとないでな」
久吉はにやっと笑って音吉を見たが、そのまま顔を海に向けた。陽に焼けた顔だ。
二人は立ち上がると、また海草を拾いながら歩き始めた。あちこちに海草の小山が出来ている。これらの海草は、食物になったり、ロープになったり、壁の目張りに使われたりするのだ。音吉は、幅広い昆布のような海草を拾った。水を含んだ海草は、ずっしりと重かった。
「おやっ!?」
音吉は思わず目をみはった。その海草の下から、小さな鍋蓋《なべぶた》が現れたのだ。
「何や、大きな声を出して」
ふり返った久吉に、音吉の声がふるえた。
「久吉! これ、鍋蓋やないか!?」
「鍋蓋!? ああ、鍋蓋やな」
久吉がのん気に言った。音吉は鍋蓋のつまみを持って、腕を弾ませた。鍋蓋には、|※[#カネサの印]《カネサ》と焼き印が押してある。
「宝順丸から流れ出したんやないか、音」
久吉が言った。
「ちがう! 久吉、これを見い。※[#カネサの印]と焼き印が押してある。宝順丸の焼き印とはちがう。これは……」
音吉は遥《はる》か水平線の方に目をやった。
「これは? これはって何や」
「久吉! これは、日本から、流れて来たんや。それにちがいあらせん!」
「日本から? そんな馬鹿な」
「いや、日本からや。この焼き印は日本のものや。この字は日本の字や。ちがいあらせん。宝順丸には、こんな小さな鍋蓋《なべぶた》はなかったでな。これは、普通の家で使う鍋蓋や」
音吉の言葉に、久吉の目が俄《にわか》に輝いた。
「そう言えばそうや! 宝順丸のものではあらせん」
久吉は言うなり、音吉の手から鍋蓋をぐいと奪い、
「日本から来たのかあっ!」
と胸に抱いた。
「そうや、きっとそうや。宝順丸が潮に乗ってここに流れ着いたように、この蓋も流れ着いたんや」
「と言うことは、この海の潮は、日本から流れて来た潮やということやな」
久吉が声を詰まらせた。とその時、いつのまに二人の傍《そば》に来たのか、岩松がうしろで言った。
「見せて見い、その鍋蓋を」
久吉が差し出すと、岩松はじっと鍋蓋をみつめて、
「※[#カネサの印]」
と、口に出して焼き印を読んだ。かと思うと、岩松は両|膝《ひざ》を砂につけ、声もなく肩をふるわせた。日本から流れ着いた小さな鍋蓋に、三人は三様の涙をこぼした。
しばらくの間、三人は何も言わずに、涙にかすむ目で、遠い海の彼方《かなた》をみつめた。鴎《かもめ》が、その三人の上をやさしく鳴きながら飛びかっていた。
やがて久吉が、海の中に足を入れながら言った。
「これは日本から来た潮や、日本の土を洗って来た潮や!」
岩松はなおも鍋蓋を抱きしめて、唇《くちびる》を噛《か》んでいた。
その時突然どこかで悲鳴が上がった。女の悲鳴だった。三人はふり返った。アー・ダンクが女の上に馬乗りになって、殴《なぐ》っている。一丁|程《ほど》向こうの砂の上だ。
「どうしたんやろ!?」
久吉が渚《なぎさ》に突っ立ったまま言った。黒い久吉の足を、打ち寄せる波が洗っている。
「蝮《まむし》のご新造や」
音吉が不安げに言った。岩松の目がちかりと光った。インデアンの男たちは時折《ときおり》、その妻を殴る。余りに殴ると、妻たちはその男を置いて出て行ってしまう。そして、他の男の所に堂々と嫁ぐ。そうした時、夫たちは、出て行った妻の嫁ぎ先にねじこむことまではしなかった。すべての人から軽蔑されるからであった。それはともかく、男が妻を殴る光景は、音吉たちもしばしば見てきた。それは日本でも見てきた光景であった。
アー・ダンクは気が短かったが、その割には、他の男ほど妻を殴ることはなかった。アー・ダンクは妻のヘイ・アイブに惚《ほ》れこんでいるようであった。そのヘイ・アイブにアー・ダンクは今、馬乗りになって殴りつけている。浜にいた男や女たちが、仕事を捨てて駈《か》け寄った。子供たちも大人たちの後ろから走った。音吉は岩松の顔を見た。岩松は視線を海に投げかけたままだ。音吉は岩松に何か言おうと思った。が、黙って、ヘイ・アイブのほうに走り出した。久吉も走り出した。が、
「舵取《かじと》りさんは、どうして来ないんや?」
久吉が岩松をふり返った。音吉も足をとめて、
「わからん。けど、深い考えがあるんやろ。行って見たかて、あのご新造を救うわけにもいかんやろ」
「それもそうやな。相手が蝮《まむし》やからな。わしらが行ったかて、何の助けにもならせんけど、あのご新造かわいそうやでな。悪いこと何もせんのに」
(悪いことせんのに……)
音吉は不意に考える顔になって、
(ほんまにあのご新造は悪いことをしてはおらんのやろか)
いつか、森の中でヘイ・アイブは岩松と顔もすれすれに向かい合って立っていた。洗濯《せんたく》をしていた時、小さな籠《かご》に菓子を持って来てくれた。硯《すずり》や筆をそっと返してくれたのも、ヘイ・アイブらしい。いつも岩松をじっとみつめているのも、ヘイ・アイブだ。
(いや、それよりも……)
二日|程《ほど》前の夜のことを、音吉は思い浮かべた。嵐で入り口の戸ががたがたと鳴った。音吉は、それが耳について寝つけなかった。音吉の寝床は一番高い。そこからは家の中がよく見渡せた。何げなく下を見おろした音吉の目に、ヘイ・アイブの姿が見えた。
(廁《かわや》に行くのやろか。この嵐の中を大変やな)
と思ったが、ヘイ・アイブは岩松の傍《そば》にためらうふうもなくやって来た。岩松は、一番下の寝床だ。音吉の胸が動悸《どうき》した。思わず身を乗り出すようにして、眼下のヘイ・アイブを見た。ヘイ・アイブは垂れ幕を持ち上げて、しばらく岩松の寝顔を見ているようだった。が、つと、体を屈《かが》めると、胸から上が音吉の視界から消えた。音吉は生唾《なまつば》をのみこんだ。と、ヘイ・アイブは何事もなかったかのように、静かな足どりで自分の寝床に帰って行った。
(あのご新造……悪いことをしとるかも知れせん)
あの夜は偶然音吉が気づいたが、あるいはヘイ・アイブが、これまで幾度も岩松の傍《かたわ》らに、あのように立っていたのではないか。何のためにヘイ・アイブは身を屈めたのか。音吉はこれ以上人の輪に近づくことができないような気がした。
久吉が一人走って行くのを、音吉は見守った。と、その音吉の手を、不意に握った者がいた。ドウ・ダーク・テールだった。ドウ・ダーク・テールは酋長《しゆうちよう》の息子。アー・ダンクの甥《おい》に当たる。ピーコーの兄であった。
驚く音吉の手をぐいぐいと引いて、ドウ・ダーク・テールは岩松の傍《そば》に行った。いつもは人なつっこい笑顔を見せるドウ・ダーク・テールが、顔色を変えていた。ドウ・ダーク・テールは親指を立ててアー・ダンクと言い、小指を立ててヘイ・アイブと言い、更に岩松を差して「イワ」と言った。そしてその両手を、何かをかきまぜるように忙しく動かし、
「コック・サフ」
と言った。
音吉ははっとした。「コック・サフ」とは、「殺す」という言葉であった。