「コック・サフ?(殺す)」
聞き返す音吉に、 ドウ・ ダーク・ テールは蒼白《そうはく》な顔を向けてうなずいた。 が、 岩松の肩を叩《たた》き、
「イワ」
と、悲しげに言い、たちまち人々の取り囲むアー・ダンクのほうに駈《か》けて行った。
「コック・サフって、何やった?」
途中から戻《もど》って来た久吉が、コック・サフと言う言葉を聞き咎《とが》めて尋ねた。
「殺すということや」
岩松が低い声で言った。
「殺す!? 蝮《まむし》がご新造を殺すってか」
驚く久吉に、音吉が首をふった。
「ちがう! 舵取《かじと》りさんが殺されるんやで、舵取りさんが」
「舵取りさんが!? 何でや?」
「知らん。知らんけど、ドウ・ダーク・テールはそのことを知らせに来たんや」
「いつや!? いつ殺すんや? 音」
「よくはわからんけど、ピーコーがどうとやら言っていた。指を折っていたところを見ると、まだ五日はあるようだ。な、舵取りさん」
「うん。まあな」
岩松は海草を拾いはじめた。
「舵取りさん! そんなものを拾ってる時やないで」
音吉は岩松の肩をゆさぶった。
その三人とは関わりなく、人々はアー・ダンクとヘイ・アイブを囲んで騒いでいた。アー・ダンクは妻のヘイ・アイブの髪を、狂ったように引きずりまわし、そして殴《なぐ》った。
騒ぎを聞き、駈けつけた酋長《しゆうちよう》が、
「やめろっ!」
と、怒鳴った。威厳に満ちた声であった。アー・ダンクは、はっと兄の酋長を見た。
「手を引けっ!」
再び酋長が叱咤《しつた》した。酋長に逆らうことは誰にもできない。アー・ダンクはしぶしぶ、ヘイ・アイブを殴る手をとめた。それを見て、嘲笑《ちようしよう》を浮かべたのは女|祈祷師《きとうし》クワー・レスだった。クワー・レスは先刻から、ヘイ・アイブが殴られるのを平然と見おろしていた。だが、その様子に気づいた者は誰もいない。ヘイ・アイブはしばらく身動きもせずに砂の上に横たわっていたが、やがて女たちに助けられて静かに立ち上がった。ヘイ・アイブは怒りに燃える目を、クワー・レスに向けた。その鼻から血が流れ、上衣の胸を汚した。頬《ほお》が大きく腫《は》れ上がっていた。
ヘイ・アイブは女たちに支えられながら、よろめくように家の中に入って行った。アー・ダンクには一瞥《いちべつ》もしなかった。
アー・ダンクは突っ立ったまま、呆然《ぼうぜん》とそのヘイ・アイブを見送っていた。が、そのうしろ姿が家の中に消えると、
「あー」
と、くず折れるように砂浜に両|膝《ひざ》をつき、大地を打ち叩《たた》いた。アー・ダンクは、妻が一顧《いつこ》だにしなかったことに、妻の怒りの激しさを知ったのだ。
(もしかしたら、あいつは出て行くかも知れない)
アー・ダンクは絶望的な思いで、大地を叩きつづけた。マカハの女たちは、夫の打擲《ちようちやく》の度が過ぎると、家を出て行く。そして子供もろとも、他の男に嫁ぐのだ。
人々はアー・ダンクが地を打ち叩く様子を見ていたが、やがて一人去り、二人去りして、酋長《しゆうちよう》だけがそこに残った。人々は海草拾いや、それぞれの仕事に帰って行った。
酋長はアー・ダンクに諄々《じゆんじゆん》と諭《さと》しはじめた。
「女を殴《なぐ》るものではない。あとが厄介《やつかい》になるからだ。ヘイ・アイブはいい女だ。お前にはもったいない女だ。一体、何であんなに殴ったんだ」
「兄貴、俺はさっき、クワー・レスから聞いたんだ。ヘイ・アイブがイワの寝床の垂れ幕をあけて入って行ったとな」
「馬鹿を言え。ヘイ・アイブはそんな女じゃない。イワもそんな男じゃない」
「しかし兄貴、ヘイ・アイブがイワを見る目つき、あれはイワと寝た目だ」
「馬鹿な! クワー・レスは性悪女《しようわるおんな》だ。あれが時々でたらめを言うのは、お前も知ってる筈《はず》だ」
「いや、クワー・レスが言う前から、俺は何となくわかってたんだ。どうもヘイ・アイブはイワに気があるとな」
「馬鹿な男だお前は。よく確かめもせずに、みんなの前で女房を殴るなんて、何ていうことをするんだ」
「しかし、俺は……」
「黙れ。クワー・レスは、もともと事を起こすのが好きな女だ。ありもしないことを言いふらす。それがあの女の癖だ。あの女に呪《のろ》われては祟《たた》りが恐ろしい。だからみんな、あの女の言うことを聞く。言うことを聞かぬ者を、あの女は決して許さない。あいつはきっと、イワにふられたのだろう。だからつまらぬことをつくり上げて、お前に言ったのだ」
「兄貴、そんなことじゃない。イワとヘイ・アイブは、確かに……道理でヘイ・アイブはこの頃《ごろ》俺を避けていた」
「もしそうだったらどうすると言うんだ」
「俺はイワを殺す。さっき、ドウ・ダーク・テールにも言ってやった。俺はイワを殺すとな」
「イワを殺す?」
「そうだ。俺は、あいつを初めて見た時から虫が好かなかった。いやな男だ」
アー・ダンクは激しく言った。
「アー・ダンク。お前が虫が好こうと好くまいと、イワはわしの奴隷《どれい》だ。わしの財産だ。わしの財産を勝手に減らすことは許さんぞ」
「ふん、わかったよ兄貴」
アー・ダンクは不意に不貞腐《ふてくさ》れたように笑って、
「兄貴は、俺よりも奴隷が大事なんだな」
「馬鹿を言え」
「いや、奴隷が大事なんだ。俺が女房を寝盗《ねと》られても、じっと我慢をしろと言う」
「イワは寝盗るようなことをしない。とにかくこの辺の奴《やつ》らは、お前がなぜヘイ・アイブを殴りつけたか、みんな詮索《せんさく》するだろうよ。お前がそんなことを言ってると、みんなは、お前を、本当に妻を寝盗られた男だといい笑い者にするだろう。いい笑い者にな」
岩松たちは、酋長《しゆうちよう》とアー・ダンクが砂浜で話しているのを、海草を拾いながら、それとなく窺《うかが》っていた。
やがて、アー・ダンクが岩松たちのほうをふり向いた。岩松たちははっとした。と、酋長が、その手をぐいぐいと引いて、家の中に入って行った。アー・ダンクは岩松たちのほうを、ふり返りふり返り、去って行った。
夕方になって、岩松たち三人は家に入った。入るや否や、三人はアー・ダンクのほうを見た。アー・ダンクはマットの上に仰向けに寝ころがっていた。赤子の泣く声、子供たちの笑い声、魚を焼く匂いや、肉汁の煮え立つ匂い、それらはいつもと同じだった。だが三人はすぐに気づいた。どの家庭も、ふだんより口数が少ないことを。女も男も、目まぜで何か言っていた。頭を横にふったり、うなずいたり、吐息を洩《も》らしていた。三人は顔を見合わせた。
「蝮《まむし》のご新造は見えせんで」
久吉がそっとささやいた。
「ほんとやな。蝮の子供たちもいないで」
岩松は、炉端《ろばた》の薪《まき》の崩れをなおしながら、あけ放してある戸口に目をやった。戸口から夕日が長く差しこんでいる。夕暮れと言っても空はまだ明るい。小野浦では知らなかった日の長さだ。その日影をじっとみつめる岩松の横顔を、音吉は不安げに見た。
ヘイ・アイブが子供三人をつれて、出て行ったことを岩松たちは知らなかった。アー・ダンクはヘイ・アイブに去られて、自失したように、先程《さきほど》から寝ていたのだ。ヘイ・アイブの家は、この集落の一番北の端にあった。
聞き返す音吉に、 ドウ・ ダーク・ テールは蒼白《そうはく》な顔を向けてうなずいた。 が、 岩松の肩を叩《たた》き、
「イワ」
と、悲しげに言い、たちまち人々の取り囲むアー・ダンクのほうに駈《か》けて行った。
「コック・サフって、何やった?」
途中から戻《もど》って来た久吉が、コック・サフと言う言葉を聞き咎《とが》めて尋ねた。
「殺すということや」
岩松が低い声で言った。
「殺す!? 蝮《まむし》がご新造を殺すってか」
驚く久吉に、音吉が首をふった。
「ちがう! 舵取《かじと》りさんが殺されるんやで、舵取りさんが」
「舵取りさんが!? 何でや?」
「知らん。知らんけど、ドウ・ダーク・テールはそのことを知らせに来たんや」
「いつや!? いつ殺すんや? 音」
「よくはわからんけど、ピーコーがどうとやら言っていた。指を折っていたところを見ると、まだ五日はあるようだ。な、舵取りさん」
「うん。まあな」
岩松は海草を拾いはじめた。
「舵取りさん! そんなものを拾ってる時やないで」
音吉は岩松の肩をゆさぶった。
その三人とは関わりなく、人々はアー・ダンクとヘイ・アイブを囲んで騒いでいた。アー・ダンクは妻のヘイ・アイブの髪を、狂ったように引きずりまわし、そして殴《なぐ》った。
騒ぎを聞き、駈けつけた酋長《しゆうちよう》が、
「やめろっ!」
と、怒鳴った。威厳に満ちた声であった。アー・ダンクは、はっと兄の酋長を見た。
「手を引けっ!」
再び酋長が叱咤《しつた》した。酋長に逆らうことは誰にもできない。アー・ダンクはしぶしぶ、ヘイ・アイブを殴る手をとめた。それを見て、嘲笑《ちようしよう》を浮かべたのは女|祈祷師《きとうし》クワー・レスだった。クワー・レスは先刻から、ヘイ・アイブが殴られるのを平然と見おろしていた。だが、その様子に気づいた者は誰もいない。ヘイ・アイブはしばらく身動きもせずに砂の上に横たわっていたが、やがて女たちに助けられて静かに立ち上がった。ヘイ・アイブは怒りに燃える目を、クワー・レスに向けた。その鼻から血が流れ、上衣の胸を汚した。頬《ほお》が大きく腫《は》れ上がっていた。
ヘイ・アイブは女たちに支えられながら、よろめくように家の中に入って行った。アー・ダンクには一瞥《いちべつ》もしなかった。
アー・ダンクは突っ立ったまま、呆然《ぼうぜん》とそのヘイ・アイブを見送っていた。が、そのうしろ姿が家の中に消えると、
「あー」
と、くず折れるように砂浜に両|膝《ひざ》をつき、大地を打ち叩《たた》いた。アー・ダンクは、妻が一顧《いつこ》だにしなかったことに、妻の怒りの激しさを知ったのだ。
(もしかしたら、あいつは出て行くかも知れない)
アー・ダンクは絶望的な思いで、大地を叩きつづけた。マカハの女たちは、夫の打擲《ちようちやく》の度が過ぎると、家を出て行く。そして子供もろとも、他の男に嫁ぐのだ。
人々はアー・ダンクが地を打ち叩く様子を見ていたが、やがて一人去り、二人去りして、酋長《しゆうちよう》だけがそこに残った。人々は海草拾いや、それぞれの仕事に帰って行った。
酋長はアー・ダンクに諄々《じゆんじゆん》と諭《さと》しはじめた。
「女を殴《なぐ》るものではない。あとが厄介《やつかい》になるからだ。ヘイ・アイブはいい女だ。お前にはもったいない女だ。一体、何であんなに殴ったんだ」
「兄貴、俺はさっき、クワー・レスから聞いたんだ。ヘイ・アイブがイワの寝床の垂れ幕をあけて入って行ったとな」
「馬鹿を言え。ヘイ・アイブはそんな女じゃない。イワもそんな男じゃない」
「しかし兄貴、ヘイ・アイブがイワを見る目つき、あれはイワと寝た目だ」
「馬鹿な! クワー・レスは性悪女《しようわるおんな》だ。あれが時々でたらめを言うのは、お前も知ってる筈《はず》だ」
「いや、クワー・レスが言う前から、俺は何となくわかってたんだ。どうもヘイ・アイブはイワに気があるとな」
「馬鹿な男だお前は。よく確かめもせずに、みんなの前で女房を殴るなんて、何ていうことをするんだ」
「しかし、俺は……」
「黙れ。クワー・レスは、もともと事を起こすのが好きな女だ。ありもしないことを言いふらす。それがあの女の癖だ。あの女に呪《のろ》われては祟《たた》りが恐ろしい。だからみんな、あの女の言うことを聞く。言うことを聞かぬ者を、あの女は決して許さない。あいつはきっと、イワにふられたのだろう。だからつまらぬことをつくり上げて、お前に言ったのだ」
「兄貴、そんなことじゃない。イワとヘイ・アイブは、確かに……道理でヘイ・アイブはこの頃《ごろ》俺を避けていた」
「もしそうだったらどうすると言うんだ」
「俺はイワを殺す。さっき、ドウ・ダーク・テールにも言ってやった。俺はイワを殺すとな」
「イワを殺す?」
「そうだ。俺は、あいつを初めて見た時から虫が好かなかった。いやな男だ」
アー・ダンクは激しく言った。
「アー・ダンク。お前が虫が好こうと好くまいと、イワはわしの奴隷《どれい》だ。わしの財産だ。わしの財産を勝手に減らすことは許さんぞ」
「ふん、わかったよ兄貴」
アー・ダンクは不意に不貞腐《ふてくさ》れたように笑って、
「兄貴は、俺よりも奴隷が大事なんだな」
「馬鹿を言え」
「いや、奴隷が大事なんだ。俺が女房を寝盗《ねと》られても、じっと我慢をしろと言う」
「イワは寝盗るようなことをしない。とにかくこの辺の奴《やつ》らは、お前がなぜヘイ・アイブを殴りつけたか、みんな詮索《せんさく》するだろうよ。お前がそんなことを言ってると、みんなは、お前を、本当に妻を寝盗られた男だといい笑い者にするだろう。いい笑い者にな」
岩松たちは、酋長《しゆうちよう》とアー・ダンクが砂浜で話しているのを、海草を拾いながら、それとなく窺《うかが》っていた。
やがて、アー・ダンクが岩松たちのほうをふり向いた。岩松たちははっとした。と、酋長が、その手をぐいぐいと引いて、家の中に入って行った。アー・ダンクは岩松たちのほうを、ふり返りふり返り、去って行った。
夕方になって、岩松たち三人は家に入った。入るや否や、三人はアー・ダンクのほうを見た。アー・ダンクはマットの上に仰向けに寝ころがっていた。赤子の泣く声、子供たちの笑い声、魚を焼く匂いや、肉汁の煮え立つ匂い、それらはいつもと同じだった。だが三人はすぐに気づいた。どの家庭も、ふだんより口数が少ないことを。女も男も、目まぜで何か言っていた。頭を横にふったり、うなずいたり、吐息を洩《も》らしていた。三人は顔を見合わせた。
「蝮《まむし》のご新造は見えせんで」
久吉がそっとささやいた。
「ほんとやな。蝮の子供たちもいないで」
岩松は、炉端《ろばた》の薪《まき》の崩れをなおしながら、あけ放してある戸口に目をやった。戸口から夕日が長く差しこんでいる。夕暮れと言っても空はまだ明るい。小野浦では知らなかった日の長さだ。その日影をじっとみつめる岩松の横顔を、音吉は不安げに見た。
ヘイ・アイブが子供三人をつれて、出て行ったことを岩松たちは知らなかった。アー・ダンクはヘイ・アイブに去られて、自失したように、先程《さきほど》から寝ていたのだ。ヘイ・アイブの家は、この集落の一番北の端にあった。