(いよいよ明日は、ピーコーの婚礼やな)
音吉は夢うつつの中でそう思っていた。が、はっと目を覚ました。ピーコーの婚礼の日は、即《すなわ》ち三人が脱出する日だ。逃げ出さなければ、岩松が殺される。と思うが、激しい睡魔が、ずるずると音吉を眠りの中に誘う。音吉は先程《さきほど》も脅えたように、はっと目を覚ました。逃げると決めてから、眠りがひどく浅くなった。そのために、かえって朝起きるのが辛《つら》い。フラッタリー岬の六月の夜は短い。横になったかと思うと、煙出しの天窓が白んで来る。物思いにふけっていると、眠らぬうちに夜は明ける。
今、眠りに引き入れられた音吉の眼底《まなぞこ》に、明け方の明るい空が残っていた。
いつしか音吉は息を切らして砂浜を走っていた。遠くに岩松と久吉の駈《か》けて行く姿が見える。が、音吉だけは、走っても走っても足がうしろに戻《もど》っていくようだ。その音吉の背に、わあわあと大声を上げて人々が追って来る。音吉は必死になって砂浜を駈ける。ふと気がつくと、前方に見えていた岩松と久吉の姿が消えている。だが、琴の家の白壁が見える。
(何や、お琴の家はこんなに近かったんやな)
そう思った時、俄《にわか》にどこかで大声でうたう声がした。
「うるさいな。またピーコーが川に入るのか」
ひどく眠い。大声でうたう声が耳もとに近づいて来た。
「音、音ったら!」
久吉が下の寝床から伸び上がって音吉の肩をゆすった。
「何や、久吉ここにいたんか」
音吉は片目をあけた。
「何を寝呆《ねぼ》けとる」
言われて音吉の両目があいた。アー・ダンクや酋長《しゆうちよう》たちが、音吉の寝床のすぐ傍《そば》で何か言っている。界隈《かいわい》の人々も入り口に立って何か大声で言い立てている。
「何や知らんが大ごとやで」
久吉は緊張した声で言い、素早く梯子《はしご》を降りて行った。宝順丸の三の間に隠した燻製《くんせい》の鮭《さけ》や鰊《にしん》が見つかったのかと、音吉の胸がとどろいた。そして次の瞬間、
(舵取《かじと》りさんが逃げたんか!?)
と、思わず息をのんだ。が、岩松は久吉と一緒に入り口に立っていた。
二人の傍《そば》に行った音吉に、久吉が言った。
「よう眠っていたな、音」
入り口には、人々が大勢群れていた。と、その人群れがいきなり崩れ、外に走り出た。何かは知らぬが、音吉たちも走り出た。そして音吉は、
「船や!」
と叫んだ。久吉も、同じように叫んだ。人々が先を争って浜べに走る。久吉も音吉も走った。二|隻《せき》の船であった。未《いま》だ曾《かつ》て見たこともない珍しい帆船《はんせん》であった。二本の帆柱が高くそびえ、朝風を孕《はら》んだ帆を幾つも張って、青い海の上を大きな船は悠然《ゆうぜん》と進んで来る。騒ぎは、村の誰かがこれを見つけて、酋長《しゆうちよう》の家に注進に及んでの騒ぎであったのだ。
「でっかい船やなあ!」
久吉は腕を組んで突っ立っている岩松の脇腹《わきばら》を突ついた。
「どこへ行くんやろ」
「この浜を目ざしている」
身じろぎもせずに岩松は言う。
「この浜を?」
「そうや」
「舵取《かじと》りさん! あの船に乗って逃げたら、助かるやろな」
「わからん」
岩松は油断なく船を見守っている。村の者たちは、残らず渚《なぎさ》に立った。人々が騒ぎ合う中に、岩松は只《ただ》じっと立ちつくしていた。鳥の声が、山に浜に賑《にぎ》やかだ。が、鳥の声など誰の耳にも入らない。
船が確かにこの海岸を目指しているとわかった時、酋長を先頭に、男や女たちが家に駈《か》け戻《もど》った。皆、活気に満ちた表情だ。
「イワ、オト、キュウ!」
酋長《しゆうちよう》が自《みずか》ら呼んだ。呼ばれて三人は酋長の傍《そば》に行った。箱に納められているアザラシやラッコの皮を、外に運ぶように酋長は命じた。三人は他の男たちと一緒に、それらの箱を家の前に運び始めた。
「商売の船やな」
久吉が言い、
「そうやろなあ」
音吉がうなずく。
「それにしても、大きな船やなあ、宝順丸くらいはあるやろな」
「うん、そうやな。いや、もっと大きいかもしれん」
岩松が言った。
「帆柱が二本あるんやで」
「うん。あれなら日本に帰れるぞ、音」
「ほんとか、舵取《かじと》りさん!」
音吉の目が輝いた。
「うん、帰れる」
岩松が深くうなずいた。久吉が、
「だけど、わしらがあの船をぶんどって帰るわけにはいかんしな」
「そのとおりや」
荷物を運びながら、三人はひそひそと話し合った。毛皮を入れた箱は、次々と家の前に並べられる。
「一年に一度か二度、買いに来るんやろな、舵取りさん」
「そうやろな」
岩松はうなずいた。が、商船は三年に一度しか来なかった。と、岩松ははっとしたように言った。
「音! 久公! もしかしたら……」
「もしかしたらって、何や舵取りさん」
「もしかしたら、救いの船かも知れせんぞ」
岩松は船からおろされる小舟を見ながら言った。
「な、何やって!?」
「救いの船やって!?」
音吉と久吉は同時に叫んだ。
「そんな気がする。虫が知らせる」
岩松の目が光った。炎のほとばしるような目だった。
「ほんとか、舵取りさん?」
久吉は疑わしげに、頭をかしげた。
「ほんとならええなあ」
音吉も半信半疑だった。
あんな大きな船がどうしてこの三人を助けに来たのか。信じ難い気持ちだった。
「手紙が着いたんや」
「手紙が?」
久吉は言い、
「ああ、何か月も前のことやな。もう当てにせんかったわ。なあ、音」
「うん。当てにせんこともなかったが、諦《あきら》めていたでな」
日本の字も知らぬ者に、岩松の書いた手紙が役に立つとは、音吉にも思えなかった。只《ただ》の商売の船だと、音吉も見ていたのだ。
音吉は夢うつつの中でそう思っていた。が、はっと目を覚ました。ピーコーの婚礼の日は、即《すなわ》ち三人が脱出する日だ。逃げ出さなければ、岩松が殺される。と思うが、激しい睡魔が、ずるずると音吉を眠りの中に誘う。音吉は先程《さきほど》も脅えたように、はっと目を覚ました。逃げると決めてから、眠りがひどく浅くなった。そのために、かえって朝起きるのが辛《つら》い。フラッタリー岬の六月の夜は短い。横になったかと思うと、煙出しの天窓が白んで来る。物思いにふけっていると、眠らぬうちに夜は明ける。
今、眠りに引き入れられた音吉の眼底《まなぞこ》に、明け方の明るい空が残っていた。
いつしか音吉は息を切らして砂浜を走っていた。遠くに岩松と久吉の駈《か》けて行く姿が見える。が、音吉だけは、走っても走っても足がうしろに戻《もど》っていくようだ。その音吉の背に、わあわあと大声を上げて人々が追って来る。音吉は必死になって砂浜を駈ける。ふと気がつくと、前方に見えていた岩松と久吉の姿が消えている。だが、琴の家の白壁が見える。
(何や、お琴の家はこんなに近かったんやな)
そう思った時、俄《にわか》にどこかで大声でうたう声がした。
「うるさいな。またピーコーが川に入るのか」
ひどく眠い。大声でうたう声が耳もとに近づいて来た。
「音、音ったら!」
久吉が下の寝床から伸び上がって音吉の肩をゆすった。
「何や、久吉ここにいたんか」
音吉は片目をあけた。
「何を寝呆《ねぼ》けとる」
言われて音吉の両目があいた。アー・ダンクや酋長《しゆうちよう》たちが、音吉の寝床のすぐ傍《そば》で何か言っている。界隈《かいわい》の人々も入り口に立って何か大声で言い立てている。
「何や知らんが大ごとやで」
久吉は緊張した声で言い、素早く梯子《はしご》を降りて行った。宝順丸の三の間に隠した燻製《くんせい》の鮭《さけ》や鰊《にしん》が見つかったのかと、音吉の胸がとどろいた。そして次の瞬間、
(舵取《かじと》りさんが逃げたんか!?)
と、思わず息をのんだ。が、岩松は久吉と一緒に入り口に立っていた。
二人の傍《そば》に行った音吉に、久吉が言った。
「よう眠っていたな、音」
入り口には、人々が大勢群れていた。と、その人群れがいきなり崩れ、外に走り出た。何かは知らぬが、音吉たちも走り出た。そして音吉は、
「船や!」
と叫んだ。久吉も、同じように叫んだ。人々が先を争って浜べに走る。久吉も音吉も走った。二|隻《せき》の船であった。未《いま》だ曾《かつ》て見たこともない珍しい帆船《はんせん》であった。二本の帆柱が高くそびえ、朝風を孕《はら》んだ帆を幾つも張って、青い海の上を大きな船は悠然《ゆうぜん》と進んで来る。騒ぎは、村の誰かがこれを見つけて、酋長《しゆうちよう》の家に注進に及んでの騒ぎであったのだ。
「でっかい船やなあ!」
久吉は腕を組んで突っ立っている岩松の脇腹《わきばら》を突ついた。
「どこへ行くんやろ」
「この浜を目ざしている」
身じろぎもせずに岩松は言う。
「この浜を?」
「そうや」
「舵取《かじと》りさん! あの船に乗って逃げたら、助かるやろな」
「わからん」
岩松は油断なく船を見守っている。村の者たちは、残らず渚《なぎさ》に立った。人々が騒ぎ合う中に、岩松は只《ただ》じっと立ちつくしていた。鳥の声が、山に浜に賑《にぎ》やかだ。が、鳥の声など誰の耳にも入らない。
船が確かにこの海岸を目指しているとわかった時、酋長を先頭に、男や女たちが家に駈《か》け戻《もど》った。皆、活気に満ちた表情だ。
「イワ、オト、キュウ!」
酋長《しゆうちよう》が自《みずか》ら呼んだ。呼ばれて三人は酋長の傍《そば》に行った。箱に納められているアザラシやラッコの皮を、外に運ぶように酋長は命じた。三人は他の男たちと一緒に、それらの箱を家の前に運び始めた。
「商売の船やな」
久吉が言い、
「そうやろなあ」
音吉がうなずく。
「それにしても、大きな船やなあ、宝順丸くらいはあるやろな」
「うん、そうやな。いや、もっと大きいかもしれん」
岩松が言った。
「帆柱が二本あるんやで」
「うん。あれなら日本に帰れるぞ、音」
「ほんとか、舵取《かじと》りさん!」
音吉の目が輝いた。
「うん、帰れる」
岩松が深くうなずいた。久吉が、
「だけど、わしらがあの船をぶんどって帰るわけにはいかんしな」
「そのとおりや」
荷物を運びながら、三人はひそひそと話し合った。毛皮を入れた箱は、次々と家の前に並べられる。
「一年に一度か二度、買いに来るんやろな、舵取りさん」
「そうやろな」
岩松はうなずいた。が、商船は三年に一度しか来なかった。と、岩松ははっとしたように言った。
「音! 久公! もしかしたら……」
「もしかしたらって、何や舵取りさん」
「もしかしたら、救いの船かも知れせんぞ」
岩松は船からおろされる小舟を見ながら言った。
「な、何やって!?」
「救いの船やって!?」
音吉と久吉は同時に叫んだ。
「そんな気がする。虫が知らせる」
岩松の目が光った。炎のほとばしるような目だった。
「ほんとか、舵取りさん?」
久吉は疑わしげに、頭をかしげた。
「ほんとならええなあ」
音吉も半信半疑だった。
あんな大きな船がどうしてこの三人を助けに来たのか。信じ難い気持ちだった。
「手紙が着いたんや」
「手紙が?」
久吉は言い、
「ああ、何か月も前のことやな。もう当てにせんかったわ。なあ、音」
「うん。当てにせんこともなかったが、諦《あきら》めていたでな」
日本の字も知らぬ者に、岩松の書いた手紙が役に立つとは、音吉にも思えなかった。只《ただ》の商売の船だと、音吉も見ていたのだ。