快晴の日が幾日もつづいている。マクネイル船長が、ラーマ号をフラッタリー岬の海に停泊させて、今日で四日目だ。ピーコーの婚礼があったため、船長と酋長《しゆうちよう》の取引は一時休止になったのだ。岩松だけが、先ずラーマ号につれ去られていた。酋長が万一の場合を思って、アー・ダンクの手の届かぬ所に、岩松を送ってしまったのだ。岩松と引き替えに、酋長は毛布二十枚、鍋五個、ヤカン五個、小麦粉五袋、砂糖五袋を手に入れた。それらが早速ピーコーの婚礼に披露され、使われたのはむろんである。
祝宴には、三日間というもの、方々から客が集まって来た。魚や肉や野菜などが、大きな器に盛り上げられた。その大きな器には四輪の小さな車がついてい、それが三台四台とつらなって客の前に運ばれた。これらの料理は、この村落の女たちが、酋長の両隣の家に集まって作ったものだ。
土間にひしめく客たちの前で、ドウ・ダーク・テールが鳥の面をつけて巧みに踊った。髪に花を飾ったピーコーの花嫁姿も愛らしかった。宴は夕方から始まり、空の白むまでつづいた。いつもより灯りの多い家の中を、音吉も久吉も、明け方まで忙しく立ち働いた。その三晩の賑わいの間にも、二人は気もそぞろであった。
(舵取《かじと》りさんだけ乗せて、あの船が出てしまうんやないか)
音吉はそう思う。折を見ては、戸口から海に目をやって、二|隻《せき》の船を確かめた。その度にほっと安心するのだが、すぐにまた不安になる。
(久吉と二人だけ残されてしもうたら……)
そうは思いながらも、岩松の命が助かったことを音吉は喜んでもいた。
三晩の祝宴が終わって、ピーコーは遂に、今朝|花婿《はなむこ》と共にカヌーに乗って、この浜を去った。ピーコーは隣村に嫁いで行ったのだ。肩幅の広い逞《たくま》しい花婿だった。ピーコーは泣きじゃくりながら、いつまでもカヌーの上で手をふっていた。子供も大人もみんな総出でピーコーを見送った。ピーコーは家を出る時、音吉を見て何か言った。
「オト」
吐息のような低い声で音吉を呼び、一瞬じっと音吉を見た。そのピーコーを思いながら、音吉も手をふった。
(お琴も嫁に行ったやろか)
去って行くピーコーを見つめながら、音吉は琴の顔を思い浮かべた。
(あの二本の帆柱のある船なら、日本に帰れると、舵取りさんは言った)
その言葉を思うと、音吉は何としてでも日本に帰りたかった。
ピーコーのカヌーが見えなくなるのを待って、ラーマ号の船長は再び酋長《しゆうちよう》の家を訪れた。従者たちが、音吉と久吉を買い取るための毛布や小麦粉などをボートに乗せて運んで来た。音吉と久吉は心が躍《おど》った。あの品物と引き替えに、自分たちもあの船に乗れる。二人はそう思ったのだ。
再び砂浜で交渉が始められた。マクネイル船長の持って来た品々に、酋長は満足げにうなずいたが、やがて言った。
「では、キュウを渡すことにしよう」
「一人だけか」
「一人だけだ。オトはやはり駄目《だめ》だ」
酋長は首をふった。船長はじっと酋長の顔を見つめていたが、視線を空に向けた。青い透きとおるような六月の空だ。燕《つばめ》が数羽頭上を飛び交っている。船長は更にその視線を遠い沖に向けて静かに言った。
「なぜ、オトだけは渡さぬというのだ。なぜ日本の国に帰してやろうと言わないのだ」
音吉と久吉は、家の中で祝宴の後始末に大童《おおわらわ》だった。こんな話し合いになっているとは、二人は思ってもみなかった。酋長が言った。
「船長、あれだけの若者は、今後絶対に、わしの手には入らん。娘の婿《むこ》にしてもいいと思っているほどだ。わしは、あいつを殴《なぐ》ることを禁じてさえいる」
先程《さきほど》ピーコーを嫁にやったばかりの酋長は、一層音吉に執着《しゆうちやく》しているようであった。
「酋長、あなたがあのオトという若者を、大事に思っていることはよくわかった」
「では、諦《あきら》めてくれるのだな」
「いや、諦めるのではない。酋長でさえそれほどあの若者を愛しているのなら、あのオトの父や母、そして兄弟たちは、どんなにあの若者を愛していることか。酋長《しゆうちよう》も人の親なら、あのオトの親の気持ちもわかるだろう」
「いや、それとこれとはちがう。オトはわしの貴重な財産だ。いや、宝だ。誰にも渡すわけにはいかん」
酋長はあくまで言い張った。が、船長は喰《く》い下がった。
「酋長、あのオトのために、わたしたちはどんな代価を払ってもいい。この間も言ったように、三人の救出に、全力を尽くせとマクラフリン博士から厳命を受けている」
「何としても、オトだけは手放せぬ。オトは物には代えられんのだ」
断乎《だんこ》として酋長は拒んだ。船長はがっかりしたように酋長の顔を見つめたが、傍《かたわ》らの通訳にうなずいて、持って来た毛布や砂糖など、久吉の分だけ酋長に渡すように命じた。酋長は目の前に置かれた品々を一つ一つ点検していたが、家のほうをふり返って、
「キュウ」
と、呼んだ。傍《そば》にいたアー・ダンクが、大声で久吉を呼びながら家の中に入って行った。
やがて久吉が、アー・ダンクに背を押されながら船長たちの前に出て来た。
「キュウだ。さあつれてってくれ」
酋長が言った。船長は久吉の肩に手をおき、
「キュウ、わたしと一緒に行こう」
と、やさしく言った。久吉は訝《いぶか》しげに船長を見、酋長《しゆうちよう》を見た。船長は久吉の肩を抱いて、
「酋長、ではまたいつか会おう」
と、歩きかけた。が、ふりかえって、
「酋長、もう一度言う。オトのためには、この品々の三倍を払ってもいい」
と、諦《あきら》め切れぬように言った。
「ならんと言ったらならん。オトは物には代えられん」
取りつく島もない酋長の答えだった。
「わかった、酋長」
マクネイル船長は悲しげに呟《つぶや》き、再び久吉の肩を抱くようにして歩きはじめた。と、久吉が大声で叫んだ。
「音は! 音は行かんのか!?」
久吉は身をよじるようにして、うしろをふり返った。その途端、
「久吉ーっ!」
戸口から音吉が走り出た。が、たちまちアー・ダンクの逞《たくま》しい腕に捕らえられた。
「音ーっ!」
久吉が絶叫した。
「久吉ーっ!」
音吉も必死に叫ぶ。
「音ーっ!」
久吉は砂浜に坐《すわ》りこんだ。マクネイル船長は、その久吉の手を取って立ち上がらせようとした。久吉は地にしがみつくようにして、
「音ーっ!」
と、またも叫ぶ。マクネイル船長がその大きな手で眼尻を拭いた。
叫びを聞きつけた人々がどの家からも駈《か》け出して来た。音吉が叫ぶ。久吉が叫ぶ。騒ぎが次第に大きくなった。と、その時だった。鋭く叫ぶ女の声がした。思わず人々はそのほうを見た。それは、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブだった。
ヘイ・アイブは、アー・ダンクのもとを出てから、人々の前に姿を見せなかった。ピーコーが発つ時でさえ、ヘイ・アイブは自分の家の戸口に立って、ひそかに見送っただけである。そのヘイ・アイブが大声で叫んだのだ。
「オトを帰して上げて!」
酋長《しゆうちよう》は驚いて、目の前に立ったヘイ・アイブを見た。
「酋長! わたしは、もう一度アー・ダンクのもとに帰ります。もしこのオトを、一緒に帰して上げるなら」
「何!? 帰ると?」
酋長の口がわなないた。今日まで、酋長が幾度説得に赴《おもむ》いても、ヘイ・アイブはアー・ダンクのもとに帰るとは言わなかった。それが今、突如《とつじよ》大勢の前で、ヘイ・アイブは帰ると明言したのである。
「おおっ!」
アー・ダンクが喜びの声を上げた。が、ヘイ・アイブの顔には、いつもの微笑はない。ヘイ・アイブはきびしいまなざしで、酋長《しゆうちよう》の答えを待っていた。マクネイル船長が、人垣を分けて酋長の前に立った。
「毛布二十枚。それに、銃を三|挺《ちよう》。それで手を打たぬか」
酋長は音吉を見、ヘイ・アイブを見、そしてアー・ダンクを見た。酋長が腕を組んだ。みんながその酋長を見守った。やがて、酋長は口をひらいた。
「よかろう」
重々しい声であった。人々がどよめき、マクネイル船長は素早く音吉と久吉をその大きな胸の中に抱えて言った。
「オト、よかったな」
久吉と音吉が、声を上げて泣いた。ヘイ・アイブもまた、海に浮かぶラーマ号に目をやりながらその頬《ほお》に涙を光らせていた。
祝宴には、三日間というもの、方々から客が集まって来た。魚や肉や野菜などが、大きな器に盛り上げられた。その大きな器には四輪の小さな車がついてい、それが三台四台とつらなって客の前に運ばれた。これらの料理は、この村落の女たちが、酋長の両隣の家に集まって作ったものだ。
土間にひしめく客たちの前で、ドウ・ダーク・テールが鳥の面をつけて巧みに踊った。髪に花を飾ったピーコーの花嫁姿も愛らしかった。宴は夕方から始まり、空の白むまでつづいた。いつもより灯りの多い家の中を、音吉も久吉も、明け方まで忙しく立ち働いた。その三晩の賑わいの間にも、二人は気もそぞろであった。
(舵取《かじと》りさんだけ乗せて、あの船が出てしまうんやないか)
音吉はそう思う。折を見ては、戸口から海に目をやって、二|隻《せき》の船を確かめた。その度にほっと安心するのだが、すぐにまた不安になる。
(久吉と二人だけ残されてしもうたら……)
そうは思いながらも、岩松の命が助かったことを音吉は喜んでもいた。
三晩の祝宴が終わって、ピーコーは遂に、今朝|花婿《はなむこ》と共にカヌーに乗って、この浜を去った。ピーコーは隣村に嫁いで行ったのだ。肩幅の広い逞《たくま》しい花婿だった。ピーコーは泣きじゃくりながら、いつまでもカヌーの上で手をふっていた。子供も大人もみんな総出でピーコーを見送った。ピーコーは家を出る時、音吉を見て何か言った。
「オト」
吐息のような低い声で音吉を呼び、一瞬じっと音吉を見た。そのピーコーを思いながら、音吉も手をふった。
(お琴も嫁に行ったやろか)
去って行くピーコーを見つめながら、音吉は琴の顔を思い浮かべた。
(あの二本の帆柱のある船なら、日本に帰れると、舵取りさんは言った)
その言葉を思うと、音吉は何としてでも日本に帰りたかった。
ピーコーのカヌーが見えなくなるのを待って、ラーマ号の船長は再び酋長《しゆうちよう》の家を訪れた。従者たちが、音吉と久吉を買い取るための毛布や小麦粉などをボートに乗せて運んで来た。音吉と久吉は心が躍《おど》った。あの品物と引き替えに、自分たちもあの船に乗れる。二人はそう思ったのだ。
再び砂浜で交渉が始められた。マクネイル船長の持って来た品々に、酋長は満足げにうなずいたが、やがて言った。
「では、キュウを渡すことにしよう」
「一人だけか」
「一人だけだ。オトはやはり駄目《だめ》だ」
酋長は首をふった。船長はじっと酋長の顔を見つめていたが、視線を空に向けた。青い透きとおるような六月の空だ。燕《つばめ》が数羽頭上を飛び交っている。船長は更にその視線を遠い沖に向けて静かに言った。
「なぜ、オトだけは渡さぬというのだ。なぜ日本の国に帰してやろうと言わないのだ」
音吉と久吉は、家の中で祝宴の後始末に大童《おおわらわ》だった。こんな話し合いになっているとは、二人は思ってもみなかった。酋長が言った。
「船長、あれだけの若者は、今後絶対に、わしの手には入らん。娘の婿《むこ》にしてもいいと思っているほどだ。わしは、あいつを殴《なぐ》ることを禁じてさえいる」
先程《さきほど》ピーコーを嫁にやったばかりの酋長は、一層音吉に執着《しゆうちやく》しているようであった。
「酋長、あなたがあのオトという若者を、大事に思っていることはよくわかった」
「では、諦《あきら》めてくれるのだな」
「いや、諦めるのではない。酋長でさえそれほどあの若者を愛しているのなら、あのオトの父や母、そして兄弟たちは、どんなにあの若者を愛していることか。酋長《しゆうちよう》も人の親なら、あのオトの親の気持ちもわかるだろう」
「いや、それとこれとはちがう。オトはわしの貴重な財産だ。いや、宝だ。誰にも渡すわけにはいかん」
酋長はあくまで言い張った。が、船長は喰《く》い下がった。
「酋長、あのオトのために、わたしたちはどんな代価を払ってもいい。この間も言ったように、三人の救出に、全力を尽くせとマクラフリン博士から厳命を受けている」
「何としても、オトだけは手放せぬ。オトは物には代えられんのだ」
断乎《だんこ》として酋長は拒んだ。船長はがっかりしたように酋長の顔を見つめたが、傍《かたわ》らの通訳にうなずいて、持って来た毛布や砂糖など、久吉の分だけ酋長に渡すように命じた。酋長は目の前に置かれた品々を一つ一つ点検していたが、家のほうをふり返って、
「キュウ」
と、呼んだ。傍《そば》にいたアー・ダンクが、大声で久吉を呼びながら家の中に入って行った。
やがて久吉が、アー・ダンクに背を押されながら船長たちの前に出て来た。
「キュウだ。さあつれてってくれ」
酋長が言った。船長は久吉の肩に手をおき、
「キュウ、わたしと一緒に行こう」
と、やさしく言った。久吉は訝《いぶか》しげに船長を見、酋長《しゆうちよう》を見た。船長は久吉の肩を抱いて、
「酋長、ではまたいつか会おう」
と、歩きかけた。が、ふりかえって、
「酋長、もう一度言う。オトのためには、この品々の三倍を払ってもいい」
と、諦《あきら》め切れぬように言った。
「ならんと言ったらならん。オトは物には代えられん」
取りつく島もない酋長の答えだった。
「わかった、酋長」
マクネイル船長は悲しげに呟《つぶや》き、再び久吉の肩を抱くようにして歩きはじめた。と、久吉が大声で叫んだ。
「音は! 音は行かんのか!?」
久吉は身をよじるようにして、うしろをふり返った。その途端、
「久吉ーっ!」
戸口から音吉が走り出た。が、たちまちアー・ダンクの逞《たくま》しい腕に捕らえられた。
「音ーっ!」
久吉が絶叫した。
「久吉ーっ!」
音吉も必死に叫ぶ。
「音ーっ!」
久吉は砂浜に坐《すわ》りこんだ。マクネイル船長は、その久吉の手を取って立ち上がらせようとした。久吉は地にしがみつくようにして、
「音ーっ!」
と、またも叫ぶ。マクネイル船長がその大きな手で眼尻を拭いた。
叫びを聞きつけた人々がどの家からも駈《か》け出して来た。音吉が叫ぶ。久吉が叫ぶ。騒ぎが次第に大きくなった。と、その時だった。鋭く叫ぶ女の声がした。思わず人々はそのほうを見た。それは、アー・ダンクの妻ヘイ・アイブだった。
ヘイ・アイブは、アー・ダンクのもとを出てから、人々の前に姿を見せなかった。ピーコーが発つ時でさえ、ヘイ・アイブは自分の家の戸口に立って、ひそかに見送っただけである。そのヘイ・アイブが大声で叫んだのだ。
「オトを帰して上げて!」
酋長《しゆうちよう》は驚いて、目の前に立ったヘイ・アイブを見た。
「酋長! わたしは、もう一度アー・ダンクのもとに帰ります。もしこのオトを、一緒に帰して上げるなら」
「何!? 帰ると?」
酋長の口がわなないた。今日まで、酋長が幾度説得に赴《おもむ》いても、ヘイ・アイブはアー・ダンクのもとに帰るとは言わなかった。それが今、突如《とつじよ》大勢の前で、ヘイ・アイブは帰ると明言したのである。
「おおっ!」
アー・ダンクが喜びの声を上げた。が、ヘイ・アイブの顔には、いつもの微笑はない。ヘイ・アイブはきびしいまなざしで、酋長《しゆうちよう》の答えを待っていた。マクネイル船長が、人垣を分けて酋長の前に立った。
「毛布二十枚。それに、銃を三|挺《ちよう》。それで手を打たぬか」
酋長は音吉を見、ヘイ・アイブを見、そしてアー・ダンクを見た。酋長が腕を組んだ。みんながその酋長を見守った。やがて、酋長は口をひらいた。
「よかろう」
重々しい声であった。人々がどよめき、マクネイル船長は素早く音吉と久吉をその大きな胸の中に抱えて言った。
「オト、よかったな」
久吉と音吉が、声を上げて泣いた。ヘイ・アイブもまた、海に浮かぶラーマ号に目をやりながらその頬《ほお》に涙を光らせていた。