西暦一八三四年、即《すなわ》ち天保《てんぽう》五年——。
前年に引きつづいて、日本では国中に飢饉《ききん》がひろがっていた。特に大坂市中では米価|高騰《こうとう》に抗して暴動が起きた。
更《さら》に江戸では大火があり、飢饉の上に不幸が重なっていた。
一方フランスのリヨンとパリに、共和主義者の反乱が起きた。また英国は、清国《しんこく》への阿片《あへん》の輸出を阻《はば》まれ、それが戦争への危機を孕《はら》みつつあった。
歴史に残るこれらの事件が、自分たち三人に関わりを持っているとも知らず、いやその歴史も知らず、今、岩松たち三人は、アメリカ西部のコロンビア河口を遡《さかのぼ》る船上にあった。
「夢みたいやなあ」
音吉は広い河口を眺《なが》めながら言った。
マカハ族から三人を救出した船は、カナダのフォート・ラングリーに寄港し、再びフラッタリー岬の沖を通って、今ワシントン州のフォート・バンクーバーに向かっていた。
「全くだ」
岩松が河岸につらなる鬱蒼《うつそう》たる森林に目をやった。その森林の向こうに、たたなわる山々が見えた。二、三日降っていた小雨が晴れて、雲一つない青空だ。
「とにかく、この船には蝮《まむし》のような奴《やつ》がおらんで、安心やな」
久吉はのびのびとした語調で言った。
「ほんとやなあ。わしも初めは心配したで。また殴《なぐ》られはせんかと思ってな」
「殴るどころやないわ。みんなチヤホヤしてくれるわ。きっと日本に帰してくれるんや。な、舵取《かじと》りさん」
「そうやな、久。とにかく日本に帰れるんや。もうひと息やで」
と、岩松の顔も明るい。この百四十五トンの沿岸船ラーマ号は、さして大きくはなかったが、マクネイル船長はじめ船員たちは善意にあふれていた。彼らも船乗りである。はるばると日本から漂流して来た三人に一同は感動していた。アメリカから日本に向かってこの大海を横断するのは、完全な船でさえ容易なことではない。その大洋を、壊れた千石船《せんごくぶね》で漂着したのである。それは正《まさ》に尊敬に価《あたい》することであった。漂流生活に耐え切ったということ、それはなまなかの精神ではなし得ないことを、マクネイル船長はじめ一同はよく心得ていた。だからこそ、誰もが三人を客人《きやくじん》として丁重《ていちよう》に扱っていた。鞭《むち》がふるわれるわけはなかった。
「とにかく音が一緒でよかったなあ」
幾度も幾度もくり返した久吉の言葉だった。
「うん、この船の船頭さんと、蝮《まむし》のご新造のお蔭《かげ》やな」
「そうやな。蝮のご新造があの時何か言うたで、急に雲行きが変わったんやからな」
「蝮のご新造が何やら言うたら、蝮が喜んだなあ。やっぱりあれは、自分が家に戻《もど》るで、代わりにわしを帰せと言うてくれたんやろな」
「きっとそうや。お蔭で、こうして三人一緒にいれるんや」
船縁にもたれて語り合う二人の言葉を、岩松は黙って聞いていた。
「あのご新造、船のほうを見つめて泣いてたな」
「そうやなあ、つらそうやった」
久吉はちらりと岩松を見たが、
「けど、みんなで浜で見送ってくれて、よかったなあ、音」
「うん。もう会うこともないやろな」
「もう会いたくはないわ」
久吉はそう言ったが、音吉は子供たちの顔を思い浮かべて、いつの日か会いに行ってみたいような気がした。特に、さとによく似たシュー・フーブと、はじめから親切だったドウ・ダーク・テールには、ぜひまた会ってみたい気がした。ドウ・ダーク・テールは、二人がボートに乗る前に、二人を小道に誘った。何処《どこ》へ行くのかと訝《いぶか》しく思って従《つ》いて行くと、それは思いがけなく、重右衛門はじめ兄の吉治郎や水主頭《かこがしら》の仁右衛門たちの眠っている墓前であった。言葉は通じなくても、自分たちの気持ちをよくわかってくれるドウ・ダーク・テールだった。いつもここで、二人が手を合わせているのをドウ・ダーク・テールは見ていたのだ。二人は心の中に、一人一人に別れを告げた。
(兄さ、わしらはこれから、帰って行くでな。淋《さび》しいだろうが、堪忍《かんにん》してな。こらえてな)
胸の引きちぎられる思いで、音吉はそう心の中で言って別れて来た。
ボートに乗ろうとする二人に、干した魚やせんべいをくれる者もいた。頭の髪を結ぶ紐《ひも》をくれる者もいた。さとに似た幼いシュー・フーブは、
「オト、オト」
と、手を握って離さなかった。
「ひろい河やなあ」
感に堪《た》えぬように、久吉が言った。コロンビア河の河口は、確かに見たこともないほどに広かった。その河口も徐々に狭まり、船は遡《さかのぼ》って行く。ラーマ号の倍もあるような、三本マストの帆船《はんせん》がすれちがって行った。
「大きい船やなあ」
三人は声を上げた。が、久吉が言った。
「わしらのこの船はどこへ行くんやろ」
「わからんが、何《いず》れ日本には行くのや」
「言葉がわからんと、どこへ行くのかもわからん。折角《せつかく》少し言葉がわかりかけたのに、また全然わからんようになったわ」
「久、音、言葉はわからんでも帆の扱い方や、舵《かじ》の扱い方は、見てりゃあわかるでな。しっかりと覚えるのだぞ」
岩松の言葉に、音吉はなるほどと思った。飯《めし》の食べ方も、船の掃除の仕方もちがっていた。が、覚えようと思えば、見様見真似《みようみまね》で覚えられることが多かった。
「よく見るがいいで。この船はよく出来ている。踏立板《ふたていた》を並べているわけではないから、波が打ちこんでも、船底にはほとんど水が入らん。水船になる心配は先《ま》ずないでな」
一番最初に岩松はそう言って、二人の注意を促したものだった。岩松に言われて、二人はこの船には取り外《はず》しのきく踏立板がなく、床板がきっちりと敷きつめられて、水の洩《も》らぬ甲板になっていることを初めて知った。
「山の奥に行くんやろか」
両岸、見渡す限り、樹林また樹林である。音吉がそう言った時、パイプを銜《くわ》えたマクネイル船長が近づいて来た。
「どうだね、気分は」
船長は言ったが、三人にはわからない。
(ハウ? 這《は》うって何やろ)
音吉はこの船に乗ってから、ハウと言う言葉を何度も聞いたような気がする。ユーと言う言葉もアイと言う言葉も幾度も聞いた。がこの幾日かの間に覚えたのは、ブレッド(パン)、バター、ウォーター、カップぐらいであった。
と、突如《とつじよ》、
「あっ! 富士山だ!」
と、久吉が大声で叫び、前方を指さした。
「何? 富士山?」
岩松が久吉の指さす彼方を見た。
「おおっ! ほんとだ! 富士だ!」
岩松も叫んだ。左手遠くにつらなる山並みの上に、正《まさ》しく富士と見紛《みまが》う山が、白い山容を見せていた。
前年に引きつづいて、日本では国中に飢饉《ききん》がひろがっていた。特に大坂市中では米価|高騰《こうとう》に抗して暴動が起きた。
更《さら》に江戸では大火があり、飢饉の上に不幸が重なっていた。
一方フランスのリヨンとパリに、共和主義者の反乱が起きた。また英国は、清国《しんこく》への阿片《あへん》の輸出を阻《はば》まれ、それが戦争への危機を孕《はら》みつつあった。
歴史に残るこれらの事件が、自分たち三人に関わりを持っているとも知らず、いやその歴史も知らず、今、岩松たち三人は、アメリカ西部のコロンビア河口を遡《さかのぼ》る船上にあった。
「夢みたいやなあ」
音吉は広い河口を眺《なが》めながら言った。
マカハ族から三人を救出した船は、カナダのフォート・ラングリーに寄港し、再びフラッタリー岬の沖を通って、今ワシントン州のフォート・バンクーバーに向かっていた。
「全くだ」
岩松が河岸につらなる鬱蒼《うつそう》たる森林に目をやった。その森林の向こうに、たたなわる山々が見えた。二、三日降っていた小雨が晴れて、雲一つない青空だ。
「とにかく、この船には蝮《まむし》のような奴《やつ》がおらんで、安心やな」
久吉はのびのびとした語調で言った。
「ほんとやなあ。わしも初めは心配したで。また殴《なぐ》られはせんかと思ってな」
「殴るどころやないわ。みんなチヤホヤしてくれるわ。きっと日本に帰してくれるんや。な、舵取《かじと》りさん」
「そうやな、久。とにかく日本に帰れるんや。もうひと息やで」
と、岩松の顔も明るい。この百四十五トンの沿岸船ラーマ号は、さして大きくはなかったが、マクネイル船長はじめ船員たちは善意にあふれていた。彼らも船乗りである。はるばると日本から漂流して来た三人に一同は感動していた。アメリカから日本に向かってこの大海を横断するのは、完全な船でさえ容易なことではない。その大洋を、壊れた千石船《せんごくぶね》で漂着したのである。それは正《まさ》に尊敬に価《あたい》することであった。漂流生活に耐え切ったということ、それはなまなかの精神ではなし得ないことを、マクネイル船長はじめ一同はよく心得ていた。だからこそ、誰もが三人を客人《きやくじん》として丁重《ていちよう》に扱っていた。鞭《むち》がふるわれるわけはなかった。
「とにかく音が一緒でよかったなあ」
幾度も幾度もくり返した久吉の言葉だった。
「うん、この船の船頭さんと、蝮《まむし》のご新造のお蔭《かげ》やな」
「そうやな。蝮のご新造があの時何か言うたで、急に雲行きが変わったんやからな」
「蝮のご新造が何やら言うたら、蝮が喜んだなあ。やっぱりあれは、自分が家に戻《もど》るで、代わりにわしを帰せと言うてくれたんやろな」
「きっとそうや。お蔭で、こうして三人一緒にいれるんや」
船縁にもたれて語り合う二人の言葉を、岩松は黙って聞いていた。
「あのご新造、船のほうを見つめて泣いてたな」
「そうやなあ、つらそうやった」
久吉はちらりと岩松を見たが、
「けど、みんなで浜で見送ってくれて、よかったなあ、音」
「うん。もう会うこともないやろな」
「もう会いたくはないわ」
久吉はそう言ったが、音吉は子供たちの顔を思い浮かべて、いつの日か会いに行ってみたいような気がした。特に、さとによく似たシュー・フーブと、はじめから親切だったドウ・ダーク・テールには、ぜひまた会ってみたい気がした。ドウ・ダーク・テールは、二人がボートに乗る前に、二人を小道に誘った。何処《どこ》へ行くのかと訝《いぶか》しく思って従《つ》いて行くと、それは思いがけなく、重右衛門はじめ兄の吉治郎や水主頭《かこがしら》の仁右衛門たちの眠っている墓前であった。言葉は通じなくても、自分たちの気持ちをよくわかってくれるドウ・ダーク・テールだった。いつもここで、二人が手を合わせているのをドウ・ダーク・テールは見ていたのだ。二人は心の中に、一人一人に別れを告げた。
(兄さ、わしらはこれから、帰って行くでな。淋《さび》しいだろうが、堪忍《かんにん》してな。こらえてな)
胸の引きちぎられる思いで、音吉はそう心の中で言って別れて来た。
ボートに乗ろうとする二人に、干した魚やせんべいをくれる者もいた。頭の髪を結ぶ紐《ひも》をくれる者もいた。さとに似た幼いシュー・フーブは、
「オト、オト」
と、手を握って離さなかった。
「ひろい河やなあ」
感に堪《た》えぬように、久吉が言った。コロンビア河の河口は、確かに見たこともないほどに広かった。その河口も徐々に狭まり、船は遡《さかのぼ》って行く。ラーマ号の倍もあるような、三本マストの帆船《はんせん》がすれちがって行った。
「大きい船やなあ」
三人は声を上げた。が、久吉が言った。
「わしらのこの船はどこへ行くんやろ」
「わからんが、何《いず》れ日本には行くのや」
「言葉がわからんと、どこへ行くのかもわからん。折角《せつかく》少し言葉がわかりかけたのに、また全然わからんようになったわ」
「久、音、言葉はわからんでも帆の扱い方や、舵《かじ》の扱い方は、見てりゃあわかるでな。しっかりと覚えるのだぞ」
岩松の言葉に、音吉はなるほどと思った。飯《めし》の食べ方も、船の掃除の仕方もちがっていた。が、覚えようと思えば、見様見真似《みようみまね》で覚えられることが多かった。
「よく見るがいいで。この船はよく出来ている。踏立板《ふたていた》を並べているわけではないから、波が打ちこんでも、船底にはほとんど水が入らん。水船になる心配は先《ま》ずないでな」
一番最初に岩松はそう言って、二人の注意を促したものだった。岩松に言われて、二人はこの船には取り外《はず》しのきく踏立板がなく、床板がきっちりと敷きつめられて、水の洩《も》らぬ甲板になっていることを初めて知った。
「山の奥に行くんやろか」
両岸、見渡す限り、樹林また樹林である。音吉がそう言った時、パイプを銜《くわ》えたマクネイル船長が近づいて来た。
「どうだね、気分は」
船長は言ったが、三人にはわからない。
(ハウ? 這《は》うって何やろ)
音吉はこの船に乗ってから、ハウと言う言葉を何度も聞いたような気がする。ユーと言う言葉もアイと言う言葉も幾度も聞いた。がこの幾日かの間に覚えたのは、ブレッド(パン)、バター、ウォーター、カップぐらいであった。
と、突如《とつじよ》、
「あっ! 富士山だ!」
と、久吉が大声で叫び、前方を指さした。
「何? 富士山?」
岩松が久吉の指さす彼方を見た。
「おおっ! ほんとだ! 富士だ!」
岩松も叫んだ。左手遠くにつらなる山並みの上に、正《まさ》しく富士と見紛《みまが》う山が、白い山容を見せていた。