フォート・バンクーバーでの初めての夜が明けた。疲れてはいたが、岩松も久吉も音吉も、なぜか朝早く目が覚めてしまった。やはり初めての土地に来て、神経がたかぶっているのだ。窓ガラスの外側の、閉ざされた雨戸の隙間《すきま》から、一条の光が部屋の中に差しこんでいる。
「何刻《なんどき》やろな」
久吉が言った。ここもフラッタリー岬と同じく、夏の夜は短い。
「まだ七つ(五時)にはならんな」
岩松がひっそりと言った。この家の主トーマス・グリーンとその妻ローズはまだ眠っているらしい。家の中はかたりとも音がしない。と、どこかで|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》の啼《な》く声がした。
「わあ、※[#「奚+隹」、unicode96de]や。日本にいるみたいやなあ」
久吉が声を上げた。フラッタリー岬には※[#「奚+隹」、unicode96de]はいなかった。
「ほんとやなあ」
いつしか三人は、寝台の上に起き上がっていた。
「どうや、これからみそぎに行こうか」
岩松が言った時、音吉がふっと思った。
(何や、潮騒《しおさい》の音がせんわ)
昨夜も何か奇妙な感じがした。それは潮騒が聞こえなかったからだと、音吉は今初めて気がついた。小野浦は海べの村であった。フラッタリー岬も海に面していた。一年二か月の漂流はむろん海の只中《ただなか》にあった。生まれてこのかた、波の音の聞こえぬ所に、一夜として住んだことがなかった。だがここには海がない。そう思った時、久吉が言った。
「みそぎか、大賛成や。なあ音、けど、浜はどっちやろ」
岩松が苦笑して、
「久、何を寝呆《ねぼ》けとる。ここには浜なんぞあらせんで」
「浜があらせん? ああ、そうやったな。でっかい河があるだけやったな。そうか、海がないんか。そりゃつまらんわ」
久吉ががっかりしたように言った。
「ま、浜はなくとも、みそぎはできるわ」
岩松は寝台から降りて、
「音をたてるなよ。ここんちはまだ眠っているでな」
三人は足音をしのばせて外へ出た。三人とも素足だ。服には着替えず、パジャマのままだ。三人には、自分たちの今着ているものが、寝巻きだという意識はない。
「これから毎日みそぎをやろうな、舵取《かじと》りさん」
久吉は浮き浮きとして言った。河までは二|丁《ちよう》と離れていない。人けのない畠《はたけ》に、ポプラや楓《かえで》の木が長い影を落としている。さわやかな朝だ。道べには、のぼり藤に似た花が咲いている。
「これ、日本ののぼり藤と同じやな」
「いや、ちょっとちがうわ」
「ちがわんと思うがな」
道の草には、もう朝露もない。昨日体を洗った河岸に出て、三人はみそぎを始めた。澄んだ水だ。みそぎをしながら、三人は心足りていた。三人は漂流中、どんなに疲れていても、水垢離《みずごり》だけは怠らなかった。それがフラッタリー岬に着いてからは、水垢離を取る暇もなかった。薪《まき》運び、水|汲《く》み、魚獲り、網づくろい、海草拾い、洗濯《せんたく》、伐採《ばつさい》、薪割り、ロープ作り等々。仕事は次々に三人を待っていた。目が覚めるなり、アー・ダンクの鞭《むち》が待っているような毎日だった。
みそぎを終えて岸に上がった三人は、体を拭き、再びパジャマを着た。久吉が岩松に言った。
「舵取りさん、みそぎをしたら、神棚《かみだな》を拝まんならんわな。しかしここには神棚があらせんしなあ」
「全くここは困った所やな。神棚もあらせんなんてな。岬と同じやな」
「それで舵取りさん、どこを拝む?」
「そうやな」
「な、舵取りさん。わしらの近しい神様というたら、お伊勢さんとか金比羅《こんぴら》さん、それに船玉《ふなだま》さんと八幡さんくらいのものだで。やっぱり知り合いの神さまに挨拶《あいさつ》しといたほうがええやろな」
「そうやな。この村のどこぞに社があるわけもないやろし、それぞれの神に拝むより仕方ないやろな」
「だけどな、舵取《かじと》りさん。ここにはここの神様もあるやろ。そこにも挨拶しとかんと、義理が悪いでな。ほら、こうやって、掌を組んで拝んどるわな。あれは何という神様やろ。アーメンという神様やろか」
「そうやな。アーメン、アーメンと祈りが終わる時に言うわな」
音吉も言う。
「ま、とにかく、アーメン様にもよろしく頼んでおこうか」
水主《かこ》たちは神の祟《たた》りを恐れる。水主たちの信心はその恐れから生じていた。三人は川原にひざまずき、それぞれ心の中で祈った。音吉は、
(船玉《ふなだま》さま。今日もどうか一日、三人をお守り下さい。故里《くに》の父や母、そしておさと、お琴、災難病気に会わんよう、お守り下さい。アーメン様、お初《はつ》にご挨拶いたします。どうぞよろしくおねがいいたします)
と、心をこめて祈った。
祈り終わった三人は、今来た道を戻《もど》って行った。畠にちらほらと人影が見えた。と、その一人が三人の方を指さし、何か大声を上げた。少し行くと、他の一人がまた大声で叫んだ。
「ほら、始まった。また見せ物や」
久吉が首をすくめた。家に近づくと、グリーンの妻のローズが三人を見つけて、声高く何か叫んだ。
「まだ眠っとると思うたんやな」
久吉がのんきそうに言った。ローズは家の中に向かってグリーンを呼んだ。グリーンが飛び出して来た。グリーンも大声で何か叫んでいる。
「何と言うてるんやろ」
「早く起きたなあと言うてるんかな」
「いや、どこへ行って来たと言うてるんやろ。みそぎをして、神様を拝んで来たんやからな。大威張りや」
「そうやな。こっちの神様にもご挨拶《あいさつ》して来たんやし……」
グリーンがその三人の前に飛んで来て、何か言いながら久吉の手を引っ張った。急げと言っているらしい。何のことかわからず、三人は急いで家に入った。家の中に入るとグリーンが言った。
「あなたがたの着ているのは寝巻きです。寝巻きのままで外に出るのは作法《さほう》ではありません。恥ずかしいことなのです」
三人は顔を見合わせた。グリーンが久吉の着物を引っ張りながら一心に言う表情には、只《ただ》ならぬものがある。
「何や、この着ているものが問題らしいな」
三人は自分たちの姿を眺《なが》めた。別に穴もあいていなければ汚れてもいない。昨夜、これを着るようにとローズが手真似《てまね》をして枕もとにおいてくれた。それで、着ただけのことだ。三人にとって、これを着て寝るのは、気持ちのよいことではなかった。途中で久吉は、素裸になってしまったし、岩松も音吉も、上着を脱いでしまった。三人共、物心《ものごころ》ついてから寝巻きなどというものを着たことがない。下帯《したおび》一つで布団の中にもぐりこむか、着のみ着のまま眠ったものだ。だから寝巻きというものへの観念がない。戸惑っている三人にグリーンはくり返し言った。
「これは寝巻きです。この寝巻きのままで外に出てはいけません。みんなが驚きます。笑います」
着ているパジャマを再びつままれて、三人は何となくわかったような気がした。この姿のままで外へ出てはならないことを、おぼろげながら感じ取ったのである。
「何刻《なんどき》やろな」
久吉が言った。ここもフラッタリー岬と同じく、夏の夜は短い。
「まだ七つ(五時)にはならんな」
岩松がひっそりと言った。この家の主トーマス・グリーンとその妻ローズはまだ眠っているらしい。家の中はかたりとも音がしない。と、どこかで|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》の啼《な》く声がした。
「わあ、※[#「奚+隹」、unicode96de]や。日本にいるみたいやなあ」
久吉が声を上げた。フラッタリー岬には※[#「奚+隹」、unicode96de]はいなかった。
「ほんとやなあ」
いつしか三人は、寝台の上に起き上がっていた。
「どうや、これからみそぎに行こうか」
岩松が言った時、音吉がふっと思った。
(何や、潮騒《しおさい》の音がせんわ)
昨夜も何か奇妙な感じがした。それは潮騒が聞こえなかったからだと、音吉は今初めて気がついた。小野浦は海べの村であった。フラッタリー岬も海に面していた。一年二か月の漂流はむろん海の只中《ただなか》にあった。生まれてこのかた、波の音の聞こえぬ所に、一夜として住んだことがなかった。だがここには海がない。そう思った時、久吉が言った。
「みそぎか、大賛成や。なあ音、けど、浜はどっちやろ」
岩松が苦笑して、
「久、何を寝呆《ねぼ》けとる。ここには浜なんぞあらせんで」
「浜があらせん? ああ、そうやったな。でっかい河があるだけやったな。そうか、海がないんか。そりゃつまらんわ」
久吉ががっかりしたように言った。
「ま、浜はなくとも、みそぎはできるわ」
岩松は寝台から降りて、
「音をたてるなよ。ここんちはまだ眠っているでな」
三人は足音をしのばせて外へ出た。三人とも素足だ。服には着替えず、パジャマのままだ。三人には、自分たちの今着ているものが、寝巻きだという意識はない。
「これから毎日みそぎをやろうな、舵取《かじと》りさん」
久吉は浮き浮きとして言った。河までは二|丁《ちよう》と離れていない。人けのない畠《はたけ》に、ポプラや楓《かえで》の木が長い影を落としている。さわやかな朝だ。道べには、のぼり藤に似た花が咲いている。
「これ、日本ののぼり藤と同じやな」
「いや、ちょっとちがうわ」
「ちがわんと思うがな」
道の草には、もう朝露もない。昨日体を洗った河岸に出て、三人はみそぎを始めた。澄んだ水だ。みそぎをしながら、三人は心足りていた。三人は漂流中、どんなに疲れていても、水垢離《みずごり》だけは怠らなかった。それがフラッタリー岬に着いてからは、水垢離を取る暇もなかった。薪《まき》運び、水|汲《く》み、魚獲り、網づくろい、海草拾い、洗濯《せんたく》、伐採《ばつさい》、薪割り、ロープ作り等々。仕事は次々に三人を待っていた。目が覚めるなり、アー・ダンクの鞭《むち》が待っているような毎日だった。
みそぎを終えて岸に上がった三人は、体を拭き、再びパジャマを着た。久吉が岩松に言った。
「舵取りさん、みそぎをしたら、神棚《かみだな》を拝まんならんわな。しかしここには神棚があらせんしなあ」
「全くここは困った所やな。神棚もあらせんなんてな。岬と同じやな」
「それで舵取りさん、どこを拝む?」
「そうやな」
「な、舵取りさん。わしらの近しい神様というたら、お伊勢さんとか金比羅《こんぴら》さん、それに船玉《ふなだま》さんと八幡さんくらいのものだで。やっぱり知り合いの神さまに挨拶《あいさつ》しといたほうがええやろな」
「そうやな。この村のどこぞに社があるわけもないやろし、それぞれの神に拝むより仕方ないやろな」
「だけどな、舵取《かじと》りさん。ここにはここの神様もあるやろ。そこにも挨拶しとかんと、義理が悪いでな。ほら、こうやって、掌を組んで拝んどるわな。あれは何という神様やろ。アーメンという神様やろか」
「そうやな。アーメン、アーメンと祈りが終わる時に言うわな」
音吉も言う。
「ま、とにかく、アーメン様にもよろしく頼んでおこうか」
水主《かこ》たちは神の祟《たた》りを恐れる。水主たちの信心はその恐れから生じていた。三人は川原にひざまずき、それぞれ心の中で祈った。音吉は、
(船玉《ふなだま》さま。今日もどうか一日、三人をお守り下さい。故里《くに》の父や母、そしておさと、お琴、災難病気に会わんよう、お守り下さい。アーメン様、お初《はつ》にご挨拶いたします。どうぞよろしくおねがいいたします)
と、心をこめて祈った。
祈り終わった三人は、今来た道を戻《もど》って行った。畠にちらほらと人影が見えた。と、その一人が三人の方を指さし、何か大声を上げた。少し行くと、他の一人がまた大声で叫んだ。
「ほら、始まった。また見せ物や」
久吉が首をすくめた。家に近づくと、グリーンの妻のローズが三人を見つけて、声高く何か叫んだ。
「まだ眠っとると思うたんやな」
久吉がのんきそうに言った。ローズは家の中に向かってグリーンを呼んだ。グリーンが飛び出して来た。グリーンも大声で何か叫んでいる。
「何と言うてるんやろ」
「早く起きたなあと言うてるんかな」
「いや、どこへ行って来たと言うてるんやろ。みそぎをして、神様を拝んで来たんやからな。大威張りや」
「そうやな。こっちの神様にもご挨拶《あいさつ》して来たんやし……」
グリーンがその三人の前に飛んで来て、何か言いながら久吉の手を引っ張った。急げと言っているらしい。何のことかわからず、三人は急いで家に入った。家の中に入るとグリーンが言った。
「あなたがたの着ているのは寝巻きです。寝巻きのままで外に出るのは作法《さほう》ではありません。恥ずかしいことなのです」
三人は顔を見合わせた。グリーンが久吉の着物を引っ張りながら一心に言う表情には、只《ただ》ならぬものがある。
「何や、この着ているものが問題らしいな」
三人は自分たちの姿を眺《なが》めた。別に穴もあいていなければ汚れてもいない。昨夜、これを着るようにとローズが手真似《てまね》をして枕もとにおいてくれた。それで、着ただけのことだ。三人にとって、これを着て寝るのは、気持ちのよいことではなかった。途中で久吉は、素裸になってしまったし、岩松も音吉も、上着を脱いでしまった。三人共、物心《ものごころ》ついてから寝巻きなどというものを着たことがない。下帯《したおび》一つで布団の中にもぐりこむか、着のみ着のまま眠ったものだ。だから寝巻きというものへの観念がない。戸惑っている三人にグリーンはくり返し言った。
「これは寝巻きです。この寝巻きのままで外に出てはいけません。みんなが驚きます。笑います」
着ているパジャマを再びつままれて、三人は何となくわかったような気がした。この姿のままで外へ出てはならないことを、おぼろげながら感じ取ったのである。