暑苦しい夜だ。ハンモックに上がろうとすると、「親父」が岩吉の傍《そば》に近づいて来た。
「岩、上の甲板《かんぱん》で寝よう。こうむし暑くては、体に毒だ」
サンドイッチ諸島を後にして二日目の夜だ。
「ありがとう。音と久をつれて上に出る」
これまでも二、三度、「親父」に誘われて上甲板で寝た。ガン・デッキのハンモックに揺られながら、大砲を見おろして寝るより、上甲板で風に吹かれて寝るのは心地《ここち》よい。それは決して許されていることではなかったが、しかしイーグル号では黙認されていた。寝苦しい一夜を明かして睡眠不足になられるよりは、熟睡してもらったほうが仕事が捗《はかど》るからだ。
毛布を持った岩吉が、ガン・デッキから上甲板に上がって行くと、いつもの場所に「親父」やサムがいた。西空に、無気味なほどに赤い三日月が出ていた。海は真っ暗だ。その月を左手に見ながら船は走る。早くも大きないびきをかいて眠っている者がいる。大きなマグロを並べたように、上甲板に水兵たちが横になっている。無秩序のようで、ここにも秩序があった。水兵たちの眠る場所は大体決まっていた。
サムたちのすぐ傍《そば》に横になった音吉と久吉が、何かひそひそと話し合っている。が、岩吉は甲板に突っ立ったまま、赤い三日月を眺《なが》めていた。
(妙な色だ。今まで見たこともない色だ)
長年|千石船《せんごくぶね》に乗っていた岩吉は、上甲板に出る度に、月や星を見る癖がある。習い性《しよう》のようなものであった。じっと細い三日月を眺めているうちに、岩吉はふっと、いやな顔を思い出した、絹の母かんの顔だった。目の吊《つ》り上がった因業《いんごう》な顔だった。絹の髪の毛を引きずりまわしていたかんに腹を立て、殴《なぐ》りつけた夜のことを、余りにも鮮やかに岩吉は思い出した。殴られて、音を立てて畳の上に倒れたかんの姿が、中空に浮かんだ。
(いやなものを思い出した)
殺すつもりはなかった。が、かんは翌朝死んだ。迎えた医師は卒中と診断してくれた。
「卒中でしょうか? 心《しん》の臓を患っておりましたが……」
絹がさりげなく言うと、
「うん、そのけもある。が、卒中じゃ」
と、医師は何の疑いも見せなかった。もし自分が殴ったことを知られていれば、自分は縛《しば》り首になったかも知れない。そんなことを思いながら、岩吉は静かに身を横たえた。すぐ傍《かたわ》らに音吉の体があった。
(人殺しか)
(しかし俺は、殺すつもりはなかった)
岩吉は、自分がかんを殺したとはどうしても思えない。たとえ殺したとしても、悪いことをしたとは思えない。娘を苛《さいな》み、娘の生き血を吸って生きていたかんが死んだことは、よいことだったと思う。
(絹は、俺がかんを殺したなどとは、これっぽちも言ったことはない)
絹はやさしい女だと思う。
(かんの奴《やつ》、死んでどこに行ったのやら)
極楽に行ったとは思えない。地獄の針の山で、鬼に追われて逃げまどっているような気がする。
(かんを殺した俺も、地獄に行くか)
岩吉は口を歪めた。地獄はあるような気がした。だが、極楽があると考えたことはない。死んで楽しい所に行けるなどとは、嘘《うそ》っぱちに思われた。
(俺もろくな生き方をしてはいないからな)
師崎の灯りが、目に浮かぶ。
(とにかく、一か八《ばち》かで、あのまま日本に逃げて帰りたかった)
島から離れれば離れる程《ほど》、その思いが大きく胸にひろがって行く。
(お絹のような女に、二度と会うこともあるまい)
あの七里《しちり》の渡しの灯台に寄りかかって、じっと自分を待っていた日の絹の姿が、胸に焼きついている。
(もしかしたら……)
今日も、昨日も、そして明日も、絹はあの灯台に寄りかかって、岩吉が帰って来はしまいかと、ひたすらに待っているような気がした。
(あいつはそんな女だ)
ふっと銀次の顔が浮かんだが、岩吉は、絹は自分のものだと自分自身に言い聞かせた。
(絹は銀次なんぞとは一緒にならねえ)
岩吉はそう信じたかった。
甲板《かんぱん》のあちこちで、ぼそぼそといつまでも語り合う声が聞こえる。波が船腹を洗う。当番|下士官《かしかん》の靴《くつ》の音が時々聞こえてくる。すぐ傍《かたわ》らで、サムと「親父」が低い声で話している。
「そうか。それは知らなかった。あの意気地《いくじ》なしがな。見直したぜ」
サムの声だ。
「そうよ。あの気の弱いお人好しがな。俺は島に残るって、真剣な顔で言ってよ。驚いたぜ」
「あいつも少しは人間らしい気持ちになった証拠だな」
サムは低く笑った。と思うと、今度は声に出して笑った。
「何だ、何がおかしい」
「実はな、親父。俺もあの島の、山ん中にでもずらかろうと思ったからよ」
「そうか。お前もか。まあそうだろうな。あの島に上がるとな、誰でも一度はそんな気持ちになるのさ。花は咲いている。真っ赤な鳥は飛んでいる。木の実は腐るほどある。俺だって、以前あの島に来た時は、逃げ出そうと思ったものさ」
「ほほう、親父も逃げようと思ったのかい。で、どうして逃げなかったね」
「俺たち貧乏人は、どこに逃げてみても、結局はおんなじだと思ったからさ。頭を抑えつける奴《やつ》が、どんな世界にもいるものでな」
「なるほど、ちがいねえや。あの島にも、カメハメハ三世とやらがいるそうだな。貴族がいるなんて、胸糞《むなくそ》の悪くなるような話だ」
「ところでお前は、なぜ逃げなかった? サム」
逃げるという言葉が、幾度も岩吉の耳に入った。
「親父と離れるのが、辛《つら》いからさ」
「まさか」
「ほんとうさ、親父、第一俺が逃げてみろ。一番仲のよかった親父が、罰を食う」
「…………」
「親父が鞭《むち》打たれるのが目に見えている。だから俺は逃げなかった」
「サム……俺はなあ、お前のためなら、鞭打たれたって、かまわないんだぜ」
「親父」の声がやさしかった。
「それは知ってるぜ。親父って男は、そんな男だ。だから俺でさえ、親父には黙って蹤《つ》いて行く」
「…………」
「親父、ありがとう。俺のために鞭打たれてもかまわないってえ人間が、一人でもいる。それで俺は充分さ」
「…………」
「親父、長生きしてくれよ、な親父」
「ありがとうよ、サム。お前も……」
「親父」は何か言ったようだった。岩吉は二人の会話に心を打たれた。そのすべてが理解できたわけではない。が、おおよそはわかった。
(サムの言うとおりだ)
自分のために鞭《むち》打たれてもかまわぬと言う人間が一人でもあれば、それだけで人間は喜んで生きて行けるような気がした。
(絹も、おやじもおふくろも、わしにはそういう人間だ)
そしてまた、自分も家族のためなら、死んでもいいような気がした。
音吉と久吉の寝息が静かに聞こえた。不意に岩吉は、二人が不憫《ふびん》に思われた。
「岩、上の甲板《かんぱん》で寝よう。こうむし暑くては、体に毒だ」
サンドイッチ諸島を後にして二日目の夜だ。
「ありがとう。音と久をつれて上に出る」
これまでも二、三度、「親父」に誘われて上甲板で寝た。ガン・デッキのハンモックに揺られながら、大砲を見おろして寝るより、上甲板で風に吹かれて寝るのは心地《ここち》よい。それは決して許されていることではなかったが、しかしイーグル号では黙認されていた。寝苦しい一夜を明かして睡眠不足になられるよりは、熟睡してもらったほうが仕事が捗《はかど》るからだ。
毛布を持った岩吉が、ガン・デッキから上甲板に上がって行くと、いつもの場所に「親父」やサムがいた。西空に、無気味なほどに赤い三日月が出ていた。海は真っ暗だ。その月を左手に見ながら船は走る。早くも大きないびきをかいて眠っている者がいる。大きなマグロを並べたように、上甲板に水兵たちが横になっている。無秩序のようで、ここにも秩序があった。水兵たちの眠る場所は大体決まっていた。
サムたちのすぐ傍《そば》に横になった音吉と久吉が、何かひそひそと話し合っている。が、岩吉は甲板に突っ立ったまま、赤い三日月を眺《なが》めていた。
(妙な色だ。今まで見たこともない色だ)
長年|千石船《せんごくぶね》に乗っていた岩吉は、上甲板に出る度に、月や星を見る癖がある。習い性《しよう》のようなものであった。じっと細い三日月を眺めているうちに、岩吉はふっと、いやな顔を思い出した、絹の母かんの顔だった。目の吊《つ》り上がった因業《いんごう》な顔だった。絹の髪の毛を引きずりまわしていたかんに腹を立て、殴《なぐ》りつけた夜のことを、余りにも鮮やかに岩吉は思い出した。殴られて、音を立てて畳の上に倒れたかんの姿が、中空に浮かんだ。
(いやなものを思い出した)
殺すつもりはなかった。が、かんは翌朝死んだ。迎えた医師は卒中と診断してくれた。
「卒中でしょうか? 心《しん》の臓を患っておりましたが……」
絹がさりげなく言うと、
「うん、そのけもある。が、卒中じゃ」
と、医師は何の疑いも見せなかった。もし自分が殴ったことを知られていれば、自分は縛《しば》り首になったかも知れない。そんなことを思いながら、岩吉は静かに身を横たえた。すぐ傍《かたわ》らに音吉の体があった。
(人殺しか)
(しかし俺は、殺すつもりはなかった)
岩吉は、自分がかんを殺したとはどうしても思えない。たとえ殺したとしても、悪いことをしたとは思えない。娘を苛《さいな》み、娘の生き血を吸って生きていたかんが死んだことは、よいことだったと思う。
(絹は、俺がかんを殺したなどとは、これっぽちも言ったことはない)
絹はやさしい女だと思う。
(かんの奴《やつ》、死んでどこに行ったのやら)
極楽に行ったとは思えない。地獄の針の山で、鬼に追われて逃げまどっているような気がする。
(かんを殺した俺も、地獄に行くか)
岩吉は口を歪めた。地獄はあるような気がした。だが、極楽があると考えたことはない。死んで楽しい所に行けるなどとは、嘘《うそ》っぱちに思われた。
(俺もろくな生き方をしてはいないからな)
師崎の灯りが、目に浮かぶ。
(とにかく、一か八《ばち》かで、あのまま日本に逃げて帰りたかった)
島から離れれば離れる程《ほど》、その思いが大きく胸にひろがって行く。
(お絹のような女に、二度と会うこともあるまい)
あの七里《しちり》の渡しの灯台に寄りかかって、じっと自分を待っていた日の絹の姿が、胸に焼きついている。
(もしかしたら……)
今日も、昨日も、そして明日も、絹はあの灯台に寄りかかって、岩吉が帰って来はしまいかと、ひたすらに待っているような気がした。
(あいつはそんな女だ)
ふっと銀次の顔が浮かんだが、岩吉は、絹は自分のものだと自分自身に言い聞かせた。
(絹は銀次なんぞとは一緒にならねえ)
岩吉はそう信じたかった。
甲板《かんぱん》のあちこちで、ぼそぼそといつまでも語り合う声が聞こえる。波が船腹を洗う。当番|下士官《かしかん》の靴《くつ》の音が時々聞こえてくる。すぐ傍《かたわ》らで、サムと「親父」が低い声で話している。
「そうか。それは知らなかった。あの意気地《いくじ》なしがな。見直したぜ」
サムの声だ。
「そうよ。あの気の弱いお人好しがな。俺は島に残るって、真剣な顔で言ってよ。驚いたぜ」
「あいつも少しは人間らしい気持ちになった証拠だな」
サムは低く笑った。と思うと、今度は声に出して笑った。
「何だ、何がおかしい」
「実はな、親父。俺もあの島の、山ん中にでもずらかろうと思ったからよ」
「そうか。お前もか。まあそうだろうな。あの島に上がるとな、誰でも一度はそんな気持ちになるのさ。花は咲いている。真っ赤な鳥は飛んでいる。木の実は腐るほどある。俺だって、以前あの島に来た時は、逃げ出そうと思ったものさ」
「ほほう、親父も逃げようと思ったのかい。で、どうして逃げなかったね」
「俺たち貧乏人は、どこに逃げてみても、結局はおんなじだと思ったからさ。頭を抑えつける奴《やつ》が、どんな世界にもいるものでな」
「なるほど、ちがいねえや。あの島にも、カメハメハ三世とやらがいるそうだな。貴族がいるなんて、胸糞《むなくそ》の悪くなるような話だ」
「ところでお前は、なぜ逃げなかった? サム」
逃げるという言葉が、幾度も岩吉の耳に入った。
「親父と離れるのが、辛《つら》いからさ」
「まさか」
「ほんとうさ、親父、第一俺が逃げてみろ。一番仲のよかった親父が、罰を食う」
「…………」
「親父が鞭《むち》打たれるのが目に見えている。だから俺は逃げなかった」
「サム……俺はなあ、お前のためなら、鞭打たれたって、かまわないんだぜ」
「親父」の声がやさしかった。
「それは知ってるぜ。親父って男は、そんな男だ。だから俺でさえ、親父には黙って蹤《つ》いて行く」
「…………」
「親父、ありがとう。俺のために鞭打たれてもかまわないってえ人間が、一人でもいる。それで俺は充分さ」
「…………」
「親父、長生きしてくれよ、な親父」
「ありがとうよ、サム。お前も……」
「親父」は何か言ったようだった。岩吉は二人の会話に心を打たれた。そのすべてが理解できたわけではない。が、おおよそはわかった。
(サムの言うとおりだ)
自分のために鞭《むち》打たれてもかまわぬと言う人間が一人でもあれば、それだけで人間は喜んで生きて行けるような気がした。
(絹も、おやじもおふくろも、わしにはそういう人間だ)
そしてまた、自分も家族のためなら、死んでもいいような気がした。
音吉と久吉の寝息が静かに聞こえた。不意に岩吉は、二人が不憫《ふびん》に思われた。