イーグル号は今、西経七〇度南緯五七度の海にあった。ジェゴラミレス諸島を右に見ながら、世界最大の難所、ホーン岬を廻《まわ》る途中にあった。べた凪《なぎ》に悩まされた日から二十日余りが過ぎた。秋風の中に、白雪輝くアンデス山脈を眺《なが》めているうちはまだよかった。南アメリカの最南端にかかると、突如《とつじよ》として海は荒れた。雪まじりの刺すような風は、さすがの岩吉をも震えあがらせた。ハワイのブラウン牧師にもらったタパーを、岩吉たち三人は、下着としてズックの衣服の下に着ていた。ハワイには織物はなかった。しかし、タパーという木の皮を叩《たた》いて作った薄い布が、この寒さの中で意外に役立った。が、それでも風は容赦《ようしや》なく、針のように体につき刺さる。波が真っ白に泡立《あわだ》つ。波頭の上にイーグル号は突き上げられ、そのまま斜めに波間にすべり落ちる。無用の者はハッチの下に待機を命ぜられた。甲板長《かんぱんちよう》は三本のマストの軋《きし》みに極度に緊張して、全神経を集中する。はらめるにいいだけ風をはらんだ帆は、今にも張り裂けんばかりにふくらんでいる。その幾枚かは、今しがた縮帆したばかりだ。砲手が大砲の索をライフロープ伝いに点検して歩く。凍った甲板に足をすべらせて、倒れる者がいる。荒天用の三角帆を甲板長が見上げる。ホーン岬の潮は、太平洋側から大西洋側へと、ぐんぐんと流れている。風と潮とが同じ方向を取っているのだ。イーグル号は恐ろしい速さで走っている。その船底に部下を引きつれたカーペンターが、絶えずアカを点検して廻《まわ》る。船の揺れによろけながら、帆布を縫製する者たちもいる。岩吉たち三人は、今、その帆布の縫製を手伝っていた。
「うん、これは凄《すご》い嵐だ。サムの言うとおりだ」
岩吉は、サムが幾度も言っていた言葉を思い浮かべた。
「ホーン岬の嵐にくらべりゃあ、ほかの嵐は嵐と言えないぜ。ホーン岬を一度も通ったことがなくて、船乗りなどとは言ってもらいたくないぜ」
岩吉はしかし、自分は北前船《きたまえぶね》に乗って、激しい嵐に遭《あ》ったことがあると、胸の中で思っていた。宝順丸を襲った嵐は、滅多にない嵐だと信じこんでいた。だが今、ぐんと海の底から突き上げてくる波の大きさは、かつて経験したことのない強い衝撃だった。しかし水兵たちは、
「こんな波は、ホーン岬じゃ凪《なぎ》のうちだ」
と、口々に言うのだ。
幾時間かが過ぎて、突如《とつじよ》海のうねりが静まった。途端に号笛《ごうてき》が艦内に響き渡った。全員|甲板《かんぱん》に集合の号笛だ。どんな仕事をしていようと、号笛には従わねばならない。ハッチを開けると同時に、冷たい空気がさっと艦内に入りこんできた。水兵たちは吾《われ》先にと甲板に飛び出す。それを追い立てるように、気合棒《きあいぼう》が鳴る。岩吉はその後につづいた。
上甲板に整列した水兵たちに、号笛が命令を告げた。
「総員配置につけ!」
嘘《うそ》のように風がおさまった甲板の上を、水兵たちは各自の持ち場に突進した。凍った甲板だ。みんなガニ股《また》で急ぐ。
「持ち場総点検!」
つづいて号笛《ごうてき》が鳴る。
「展帆《てんぱん》!」
岩吉が水兵たちと共に、シュラウドに取りついた。シュラウドもフットラインも、波しぶきを浴びて、がつがつに凍っている。氷をつかむような痛さだ。が、誰もが裸足で素手である。どれほども登らぬうちに、手足の感覚が失われた。風は落ちても、嵐の余波で波のうねりは相変わらず大きい。
岩吉は凍りついた帆桁《ヤード》に身をもたせて、何時間か前にたたんだ帆を展《ひら》く。帆も凍っていて、ばりばりと音を立てる。誰もが必死だ。命賭《いのちが》けだ。ようやく帆を展いて、帆足を帆桁に結びつけた岩吉は、ふっと下を見た。黒い海が、七、八丈下にうねっている。目のまわるような高さだ。その取りついているヤードが、船の揺らぎにつれて、大きく傾く。水平線が天を指す。思わず目をつむった眼裏《まなうら》に、絹の姿が浮かんで消えた。
岩吉は、再び凍りついたシュラウドを伝って、上甲板《じようかんぱん》に降り立った。降り立てたことが不思議なような気がした。誰一人、足をすべらせた者のないことが、奇蹟《きせき》のように思えるのだ。
中甲板に戻《もど》って岩吉は、再び帆の繕《つくろ》いを始めた。何に驚いてか、|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》がけたたましく啼《な》いている。アカを汲《く》み上げるポンプの鎖の音が、頭上で絶え間なく聞こえる。
「舵取《かじと》りさん」
「何や」
一緒に帆繕いを始めた音吉が、岩吉の赤く凍えた手足を見て言った。
「舵取りさん、もうヤードに登ることは、やめたほうがいいで」
「うん。けどな、無駄飯《むだめし》食うてるようで、気がひけるでな」
「それはそうやけど、わしら水兵ではあらせんでな。凪《なぎ》の時ならともかく、嵐の時は、万一のことがあったら、かえって迷惑をかけるでな」
「…………」
「第一なあ、舵取りさん。落ちて死んだらどうするんや。命あってのもの種だでな」
音吉が岩吉の身を気づかって、熱心に言う。久吉が聞いていて笑った。
「音、舵取りさんに説教か」
「説教やあらせん。願いや。わしは今日のような時は、よう登らんで」
「それはほんとうやな。わしも舵取りさんの真似《まね》はできんわ。命が惜しいでな。ヤードにしがみついていても、真っ逆《さか》さまに海の中に落ちそうな気がするんや。海と空が、ぐるりとまわってな」
「ほんとや。久吉の言うとおりや。わしら客人だでな。無理することあらせんわ。あの凍ったばりばりのロープにさわるだけでも、頭のてっペんまで痛くなるわ」
「ほんとに寒い所やなあ、ここは。地球の上に、こんなに寒い所があったとは、知らんかったわ。何せ小野浦育ちだでなあ」
「小野浦はいい所や。薄氷ぐらい張ることもあるけどな。今頃《いまごろ》はもう桜の蕾《つぼみ》がふくらむ頃や」
「そやそや。フラッタリー岬でも、雪が降ったがな。けどこの海みたいに寒いことはあらせんかった」
二人の話を聞きながら、岩吉は素早く針を動かしていた。傍《かたわ》らで「親父」やサムや、他の水兵たちが古いロープをほぐしていた。擦り切れたロープを、新しく作り直すためだ。
「何の話をしている?」
サムが人なつっこく声をかけた。
「故里《くに》の話や」
久吉が答えた。
「故里の話か」
サムはちょっと黙った。が、
「静かな航海だあ。お前ら三人が乗ったんで、ホーン岬の嵐もお手柔らかになったという寸法か」
「へえー、これで静か?……」
音吉が驚いた。嵐の最中《さなか》に見た波を音吉は目に浮かべた。初め、そこに島があるのかと思った。が、それが波だと知った時の恐怖はたとえようもなかった。
(あんな波、見たことあらせん)
そう思った音吉に、サムがホーン岬の嵐の凄《すご》さを語り始めた。
「うん、これは凄《すご》い嵐だ。サムの言うとおりだ」
岩吉は、サムが幾度も言っていた言葉を思い浮かべた。
「ホーン岬の嵐にくらべりゃあ、ほかの嵐は嵐と言えないぜ。ホーン岬を一度も通ったことがなくて、船乗りなどとは言ってもらいたくないぜ」
岩吉はしかし、自分は北前船《きたまえぶね》に乗って、激しい嵐に遭《あ》ったことがあると、胸の中で思っていた。宝順丸を襲った嵐は、滅多にない嵐だと信じこんでいた。だが今、ぐんと海の底から突き上げてくる波の大きさは、かつて経験したことのない強い衝撃だった。しかし水兵たちは、
「こんな波は、ホーン岬じゃ凪《なぎ》のうちだ」
と、口々に言うのだ。
幾時間かが過ぎて、突如《とつじよ》海のうねりが静まった。途端に号笛《ごうてき》が艦内に響き渡った。全員|甲板《かんぱん》に集合の号笛だ。どんな仕事をしていようと、号笛には従わねばならない。ハッチを開けると同時に、冷たい空気がさっと艦内に入りこんできた。水兵たちは吾《われ》先にと甲板に飛び出す。それを追い立てるように、気合棒《きあいぼう》が鳴る。岩吉はその後につづいた。
上甲板に整列した水兵たちに、号笛が命令を告げた。
「総員配置につけ!」
嘘《うそ》のように風がおさまった甲板の上を、水兵たちは各自の持ち場に突進した。凍った甲板だ。みんなガニ股《また》で急ぐ。
「持ち場総点検!」
つづいて号笛《ごうてき》が鳴る。
「展帆《てんぱん》!」
岩吉が水兵たちと共に、シュラウドに取りついた。シュラウドもフットラインも、波しぶきを浴びて、がつがつに凍っている。氷をつかむような痛さだ。が、誰もが裸足で素手である。どれほども登らぬうちに、手足の感覚が失われた。風は落ちても、嵐の余波で波のうねりは相変わらず大きい。
岩吉は凍りついた帆桁《ヤード》に身をもたせて、何時間か前にたたんだ帆を展《ひら》く。帆も凍っていて、ばりばりと音を立てる。誰もが必死だ。命賭《いのちが》けだ。ようやく帆を展いて、帆足を帆桁に結びつけた岩吉は、ふっと下を見た。黒い海が、七、八丈下にうねっている。目のまわるような高さだ。その取りついているヤードが、船の揺らぎにつれて、大きく傾く。水平線が天を指す。思わず目をつむった眼裏《まなうら》に、絹の姿が浮かんで消えた。
岩吉は、再び凍りついたシュラウドを伝って、上甲板《じようかんぱん》に降り立った。降り立てたことが不思議なような気がした。誰一人、足をすべらせた者のないことが、奇蹟《きせき》のように思えるのだ。
中甲板に戻《もど》って岩吉は、再び帆の繕《つくろ》いを始めた。何に驚いてか、|※[#「奚+隹」、unicode96de]《にわとり》がけたたましく啼《な》いている。アカを汲《く》み上げるポンプの鎖の音が、頭上で絶え間なく聞こえる。
「舵取《かじと》りさん」
「何や」
一緒に帆繕いを始めた音吉が、岩吉の赤く凍えた手足を見て言った。
「舵取りさん、もうヤードに登ることは、やめたほうがいいで」
「うん。けどな、無駄飯《むだめし》食うてるようで、気がひけるでな」
「それはそうやけど、わしら水兵ではあらせんでな。凪《なぎ》の時ならともかく、嵐の時は、万一のことがあったら、かえって迷惑をかけるでな」
「…………」
「第一なあ、舵取りさん。落ちて死んだらどうするんや。命あってのもの種だでな」
音吉が岩吉の身を気づかって、熱心に言う。久吉が聞いていて笑った。
「音、舵取りさんに説教か」
「説教やあらせん。願いや。わしは今日のような時は、よう登らんで」
「それはほんとうやな。わしも舵取りさんの真似《まね》はできんわ。命が惜しいでな。ヤードにしがみついていても、真っ逆《さか》さまに海の中に落ちそうな気がするんや。海と空が、ぐるりとまわってな」
「ほんとや。久吉の言うとおりや。わしら客人だでな。無理することあらせんわ。あの凍ったばりばりのロープにさわるだけでも、頭のてっペんまで痛くなるわ」
「ほんとに寒い所やなあ、ここは。地球の上に、こんなに寒い所があったとは、知らんかったわ。何せ小野浦育ちだでなあ」
「小野浦はいい所や。薄氷ぐらい張ることもあるけどな。今頃《いまごろ》はもう桜の蕾《つぼみ》がふくらむ頃や」
「そやそや。フラッタリー岬でも、雪が降ったがな。けどこの海みたいに寒いことはあらせんかった」
二人の話を聞きながら、岩吉は素早く針を動かしていた。傍《かたわ》らで「親父」やサムや、他の水兵たちが古いロープをほぐしていた。擦り切れたロープを、新しく作り直すためだ。
「何の話をしている?」
サムが人なつっこく声をかけた。
「故里《くに》の話や」
久吉が答えた。
「故里の話か」
サムはちょっと黙った。が、
「静かな航海だあ。お前ら三人が乗ったんで、ホーン岬の嵐もお手柔らかになったという寸法か」
「へえー、これで静か?……」
音吉が驚いた。嵐の最中《さなか》に見た波を音吉は目に浮かべた。初め、そこに島があるのかと思った。が、それが波だと知った時の恐怖はたとえようもなかった。
(あんな波、見たことあらせん)
そう思った音吉に、サムがホーン岬の嵐の凄《すご》さを語り始めた。