「百年近く前の話だが、アンソンという提督《ていとく》がいたんだ」
サムは話好きだ。ぶっきら棒のようでいて、どこか人をひきこむ何とも言えない優しさがある。そして岩吉たち三人にわかりやすいようにゆっくりと話してくれる。
「その頃《ころ》の水兵たちと言ったら、みんな掻《か》き集められた者ばかりさ。老人だの、傷病兵《しようびようへい》だの、戦争で片足を取られた者だの、何せ、全く目の見えない者まで乗っていたというから、大変な海軍さ」
「それで戦争ができたんですか」
「できたんだろうよ。とにかく傷病兵を掻き集めるのは、この時に始まったわけじゃないんでな」
「それで他国の船を襲おうというのですか」
「そうさ。スペイン艦隊から金銀を奪おうってえ意気ごみさ。そのアンソン艦隊が、このホーン岬で大嵐に遭《あ》った。マストに登っていた水兵たちが、セイルもろとも吹き飛ばされる。山のような波が……」
と、サムは、逞《たくま》しい腕を高く上げ、その手を勢いよく前にふりおろして、
「……船に襲いかかる。手摺《てす》りがばりばり折れる」
「手摺りがですか」
音吉は脅《おび》えた。
「そうさ。折れっちまうのさ。人間も物も、甲板《かんぱん》にあったものは、海の中にさっと持っていかれた」
「そんな……」
音吉たち三人は顔を見合わせた。宝順丸の嵐の夜がありありと目に浮かぶ。あの時も大変な嵐だったが、艫櫓《ともやぐら》も積み荷も無事だった。第一あの嵐の中で、帆柱を切るという大仕事ができた。
(なるほど上には上があるものだ)
甲板《かんぱん》の上の水兵をさらって行くほどではなかったと、音吉は思った。と、サムが言った。
「と言うわけで、帆は破れて使いものにならん。と言って、帆を張り替える暇など、ない。帆の代わりに一体何を使ったと思う?」
岩吉は首をかしげた。音吉も久吉も、顔を見合わせて首をひねった。船の中に、帆の代わりになる何があるだろうか。考えてみたがわからない。
「わからない」
岩吉が答えた。近くにいた者たちがにやにやと笑った。サムが怒ったように言った。
「アンソンてえ野郎はひどい野郎さ。いつか話したブライって野郎より、もっと残酷な野郎だぜ。いいか、アンソンはな、水兵共を帆の代わりに使ったのよ」
「水兵を!? 帆の代わりに?」
「そうだよ。水兵たちを凍ったシュラウドにしがみつかせて、それを帆の代わりにしたのさ。風や波が情け容赦《ようしや》なく襲いかかる。今と同じ三月だ。雪まじりの風に吹きまくられる。アンソンてえ野郎はそんな男よ」
「凄《すご》いなあ、それじゃ人も吹き飛ばされたでしょう」
「それがふしぎなことに、吹き飛ばされたのは、たった一人だった。こりゃあイギリスじゃ有名な話さ。なあ親父」
音吉は、何十人もの水兵が、すさまじく吹き荒れる嵐の中で、シュラウドにしがみついている様子を思い浮かべて、心が震えた。
(けど……ふしぎやなあ)
音吉は胸の中に呟《つぶや》いた。
(見も知らぬわしらを、インデアンから買いとってわざわざ日本まで届けてくれる。そんな親切なエゲレスの人の中に、ブライやアンソンのような人がいる)
それが音吉にはひどく不思議だった。
帆の繕《つくろ》いがようやく終わろうとした頃《ころ》、船は再び大きく揺れはじめた。またしても、号笛《ごうてき》が艦内に鳴りひびいた。先程《さきほど》の嵐よりも、一段と激しい嵐だ。またもや縮帆しなければならない。水兵たちはよろけながら上甲板《じようかんぱん》に登っていく。聞いていたとおり、ホーン岬の嵐は、突如《とつじよ》として襲いかかり、突如として止む。そしてまた突如としてうなり始めるのだ。嵐の前には予兆《よちよう》があるものと、岩吉たちは思っていた。
海面に泡《あわ》が浮かび始めれば大風の兆《きざ》しと聞いた。天気が穏やかであっても、海が騒ぎ立てば、それもまた大風の近い証拠と聞いた。波が黒ぐろと見え、俄《にわか》に波立てば風が間近だと見て取れと聞いた。星の光の強い翌日は、決まって風が強いと聞いた。
だが、このホーン岬では、そんな知識は通用しない。突如として風が起こり、突如として風は落ちる。
水兵たちにつづいて、岩吉も立ち上がった。が、そのズックのズボンに素早く音吉の手が絡みついた。
「舵取《かじと》りさん! 行かんでくれ!」
久吉も飛びついてとめた。
「舵取りさん! わしらは日本人や。この船の水兵やないでな。無理はせんほうがええ」
言いながらも、三人はよろめいた。突き上げられた船が、大きく波底にすべって行くのだ。
岩吉はしばらく突っ立っていたが、どっかとあぐらをかいた。船は前後に左右にと、激しく揺れる。音吉も久吉も、岩吉にしっかりつかまったまま、激しい揺れに耐えていた。強い目まいがする。腹わたが掻《か》きまわされるような揺れだ。
「舵取りさん。まるで地獄の釜《かま》の中のようやな。海がぐらぐら煮え立っているようだわ」
久吉が音を上げた。音吉は声も出ない。
「久吉、これでもホーン岬は、凪《なぎ》のうちだそうだ」
「凪! 殺生《せつしよう》な凪や」
青ざめた顔を、久吉は岩吉に向けた。
「なるほどここは地の果てだ。いや海の果てだ」
岩吉の言葉に、音吉がようやく顔を上げて言った。
「舵取りさん、もしかしたら、海の水がどこぞ、地球の外に流れ出すんやないやろうか。海の果てなら、もう断崖絶壁とちがうか」
音吉は地球儀を見たことも忘れて言った。
翌朝、風は再び、不意に落ちた。全く無風となり、ただ只《ただ》波のうねりだけが大きかった。べた凪の時とちがって、潮に乗って船は東に流れていたが、真っ白な霧がイーグル号を包んでいた。もやもやとした綿の中に包まれたような、そんな濃い霧だ。時鐘《じしよう》が絶え間なく鳴らされ、空砲《くうほう》が撃たれた。いつどこに船が現れるかわからないのだ。座礁《ざしよう》を恐れて船は陸地を遠く離れて進路を取っている。霧に包まれると、船は更《さら》に慎重に進路を定める。絶えず船を指示する号笛《ごうてき》が聞こえる。
こんな中でも、水兵たちは幾らか眠ったようであった。イーグル号は依然として、霧の中を東へ東へと流されていた。
「舵取《かじと》りさん、日本はどっちにあるんやろ」
寝不足の目をこすりながら、久吉は呟《つぶや》く。
「ずいぶん遠くに来たもんだ。日本は遠い西北《にしきた》の方角にある筈《はず》や」
「西北なあ。日本より東に、国があるとは思わんかった」
音吉も言う。
「覚めぎわにな、音、俺、小野浦の夢みたわ」
久吉がにこっと笑った。見る夢は大抵《たいてい》小野浦と決まっている。
「それはよかったなあ。小野浦の何を見た?」
「八幡様や。うちの前の八幡様の境内《けいだい》でな、太鼓が鳴ってたわ」
「何や、それは空砲の音や」
「そうやな。けどなあ、ほんとの話、わしらは日本人やから、やっぱり日本の神さんに頼まんならんのかな。それとも、エゲレスの船に乗っているんやから、エゲレスの神さまにご挨拶《あいさつ》せんならんのかな。俺な、八幡様に手を合わせようとして、夢ん中でそんなこと考えていたんや」
「ふーん。俺と同じことを考えるんやな、久吉も。昨夜の嵐ん時な、俺やっぱり、心の中で、船玉《ふなだま》さまーって、叫んでいたわ。けどな、水兵たちの中には、十字を切っていた者もいるし、ジーザス・クライスト、ジーザス・クライストって、ぶつぶつ念じていた者もあるし、何や義理が悪いような気がしてな」
「そうやろ。この頃《ごろ》わしら、船のサンデー・チャーチにも出ないやろ。あれは、やっぱり、こっちの神さんの機嫌《きげん》を損ずるのと、ちがうかな」
「ほんとや。舵取《かじと》りさんはどう思う」
今日は三人共、擦り切れたロープをほどく作業だ。針を使うより楽だが、手の先が痛くなる。ふっと、フラッタリー岬でのロープ撚《よ》りを思い出す。太股《ふともも》の皮が擦り切れるほど、股《また》の上でロープを撚ったものだ。
「わしにもようわからん。ただな、こうして、いろいろな所を見て歩くと、世界は広いと思うで。だから、日本の考えだけが正しいとは思えんで」
「なるほどなあ」
「お天道《てんと》さんが一つやろ。神さまも一人やないかと、この頃時々思うわ」
古ロープをほどく岩吉の手の動きが、誰よりも早かった。
サムは話好きだ。ぶっきら棒のようでいて、どこか人をひきこむ何とも言えない優しさがある。そして岩吉たち三人にわかりやすいようにゆっくりと話してくれる。
「その頃《ころ》の水兵たちと言ったら、みんな掻《か》き集められた者ばかりさ。老人だの、傷病兵《しようびようへい》だの、戦争で片足を取られた者だの、何せ、全く目の見えない者まで乗っていたというから、大変な海軍さ」
「それで戦争ができたんですか」
「できたんだろうよ。とにかく傷病兵を掻き集めるのは、この時に始まったわけじゃないんでな」
「それで他国の船を襲おうというのですか」
「そうさ。スペイン艦隊から金銀を奪おうってえ意気ごみさ。そのアンソン艦隊が、このホーン岬で大嵐に遭《あ》った。マストに登っていた水兵たちが、セイルもろとも吹き飛ばされる。山のような波が……」
と、サムは、逞《たくま》しい腕を高く上げ、その手を勢いよく前にふりおろして、
「……船に襲いかかる。手摺《てす》りがばりばり折れる」
「手摺りがですか」
音吉は脅《おび》えた。
「そうさ。折れっちまうのさ。人間も物も、甲板《かんぱん》にあったものは、海の中にさっと持っていかれた」
「そんな……」
音吉たち三人は顔を見合わせた。宝順丸の嵐の夜がありありと目に浮かぶ。あの時も大変な嵐だったが、艫櫓《ともやぐら》も積み荷も無事だった。第一あの嵐の中で、帆柱を切るという大仕事ができた。
(なるほど上には上があるものだ)
甲板《かんぱん》の上の水兵をさらって行くほどではなかったと、音吉は思った。と、サムが言った。
「と言うわけで、帆は破れて使いものにならん。と言って、帆を張り替える暇など、ない。帆の代わりに一体何を使ったと思う?」
岩吉は首をかしげた。音吉も久吉も、顔を見合わせて首をひねった。船の中に、帆の代わりになる何があるだろうか。考えてみたがわからない。
「わからない」
岩吉が答えた。近くにいた者たちがにやにやと笑った。サムが怒ったように言った。
「アンソンてえ野郎はひどい野郎さ。いつか話したブライって野郎より、もっと残酷な野郎だぜ。いいか、アンソンはな、水兵共を帆の代わりに使ったのよ」
「水兵を!? 帆の代わりに?」
「そうだよ。水兵たちを凍ったシュラウドにしがみつかせて、それを帆の代わりにしたのさ。風や波が情け容赦《ようしや》なく襲いかかる。今と同じ三月だ。雪まじりの風に吹きまくられる。アンソンてえ野郎はそんな男よ」
「凄《すご》いなあ、それじゃ人も吹き飛ばされたでしょう」
「それがふしぎなことに、吹き飛ばされたのは、たった一人だった。こりゃあイギリスじゃ有名な話さ。なあ親父」
音吉は、何十人もの水兵が、すさまじく吹き荒れる嵐の中で、シュラウドにしがみついている様子を思い浮かべて、心が震えた。
(けど……ふしぎやなあ)
音吉は胸の中に呟《つぶや》いた。
(見も知らぬわしらを、インデアンから買いとってわざわざ日本まで届けてくれる。そんな親切なエゲレスの人の中に、ブライやアンソンのような人がいる)
それが音吉にはひどく不思議だった。
帆の繕《つくろ》いがようやく終わろうとした頃《ころ》、船は再び大きく揺れはじめた。またしても、号笛《ごうてき》が艦内に鳴りひびいた。先程《さきほど》の嵐よりも、一段と激しい嵐だ。またもや縮帆しなければならない。水兵たちはよろけながら上甲板《じようかんぱん》に登っていく。聞いていたとおり、ホーン岬の嵐は、突如《とつじよ》として襲いかかり、突如として止む。そしてまた突如としてうなり始めるのだ。嵐の前には予兆《よちよう》があるものと、岩吉たちは思っていた。
海面に泡《あわ》が浮かび始めれば大風の兆《きざ》しと聞いた。天気が穏やかであっても、海が騒ぎ立てば、それもまた大風の近い証拠と聞いた。波が黒ぐろと見え、俄《にわか》に波立てば風が間近だと見て取れと聞いた。星の光の強い翌日は、決まって風が強いと聞いた。
だが、このホーン岬では、そんな知識は通用しない。突如として風が起こり、突如として風は落ちる。
水兵たちにつづいて、岩吉も立ち上がった。が、そのズックのズボンに素早く音吉の手が絡みついた。
「舵取《かじと》りさん! 行かんでくれ!」
久吉も飛びついてとめた。
「舵取りさん! わしらは日本人や。この船の水兵やないでな。無理はせんほうがええ」
言いながらも、三人はよろめいた。突き上げられた船が、大きく波底にすべって行くのだ。
岩吉はしばらく突っ立っていたが、どっかとあぐらをかいた。船は前後に左右にと、激しく揺れる。音吉も久吉も、岩吉にしっかりつかまったまま、激しい揺れに耐えていた。強い目まいがする。腹わたが掻《か》きまわされるような揺れだ。
「舵取りさん。まるで地獄の釜《かま》の中のようやな。海がぐらぐら煮え立っているようだわ」
久吉が音を上げた。音吉は声も出ない。
「久吉、これでもホーン岬は、凪《なぎ》のうちだそうだ」
「凪! 殺生《せつしよう》な凪や」
青ざめた顔を、久吉は岩吉に向けた。
「なるほどここは地の果てだ。いや海の果てだ」
岩吉の言葉に、音吉がようやく顔を上げて言った。
「舵取りさん、もしかしたら、海の水がどこぞ、地球の外に流れ出すんやないやろうか。海の果てなら、もう断崖絶壁とちがうか」
音吉は地球儀を見たことも忘れて言った。
翌朝、風は再び、不意に落ちた。全く無風となり、ただ只《ただ》波のうねりだけが大きかった。べた凪の時とちがって、潮に乗って船は東に流れていたが、真っ白な霧がイーグル号を包んでいた。もやもやとした綿の中に包まれたような、そんな濃い霧だ。時鐘《じしよう》が絶え間なく鳴らされ、空砲《くうほう》が撃たれた。いつどこに船が現れるかわからないのだ。座礁《ざしよう》を恐れて船は陸地を遠く離れて進路を取っている。霧に包まれると、船は更《さら》に慎重に進路を定める。絶えず船を指示する号笛《ごうてき》が聞こえる。
こんな中でも、水兵たちは幾らか眠ったようであった。イーグル号は依然として、霧の中を東へ東へと流されていた。
「舵取《かじと》りさん、日本はどっちにあるんやろ」
寝不足の目をこすりながら、久吉は呟《つぶや》く。
「ずいぶん遠くに来たもんだ。日本は遠い西北《にしきた》の方角にある筈《はず》や」
「西北なあ。日本より東に、国があるとは思わんかった」
音吉も言う。
「覚めぎわにな、音、俺、小野浦の夢みたわ」
久吉がにこっと笑った。見る夢は大抵《たいてい》小野浦と決まっている。
「それはよかったなあ。小野浦の何を見た?」
「八幡様や。うちの前の八幡様の境内《けいだい》でな、太鼓が鳴ってたわ」
「何や、それは空砲の音や」
「そうやな。けどなあ、ほんとの話、わしらは日本人やから、やっぱり日本の神さんに頼まんならんのかな。それとも、エゲレスの船に乗っているんやから、エゲレスの神さまにご挨拶《あいさつ》せんならんのかな。俺な、八幡様に手を合わせようとして、夢ん中でそんなこと考えていたんや」
「ふーん。俺と同じことを考えるんやな、久吉も。昨夜の嵐ん時な、俺やっぱり、心の中で、船玉《ふなだま》さまーって、叫んでいたわ。けどな、水兵たちの中には、十字を切っていた者もいるし、ジーザス・クライスト、ジーザス・クライストって、ぶつぶつ念じていた者もあるし、何や義理が悪いような気がしてな」
「そうやろ。この頃《ごろ》わしら、船のサンデー・チャーチにも出ないやろ。あれは、やっぱり、こっちの神さんの機嫌《きげん》を損ずるのと、ちがうかな」
「ほんとや。舵取《かじと》りさんはどう思う」
今日は三人共、擦り切れたロープをほどく作業だ。針を使うより楽だが、手の先が痛くなる。ふっと、フラッタリー岬でのロープ撚《よ》りを思い出す。太股《ふともも》の皮が擦り切れるほど、股《また》の上でロープを撚ったものだ。
「わしにもようわからん。ただな、こうして、いろいろな所を見て歩くと、世界は広いと思うで。だから、日本の考えだけが正しいとは思えんで」
「なるほどなあ」
「お天道《てんと》さんが一つやろ。神さまも一人やないかと、この頃時々思うわ」
古ロープをほどく岩吉の手の動きが、誰よりも早かった。