一
霧の都と聞いていたが、イーグル号がロンドンに着いた日は、とりわけ深い霧の日であった。あちこちで霧笛《むてき》が鳴った。岩吉たち三人には聞きなれない霧笛であった。イーグル号は時折空砲《ときおりくうほう》を鳴らしながら、テームズ河を遡《さかのぼ》った。視界は百メートルもなかった。すれちがう船が、時に霧の中に現れ、霧の中に消えた。
ロンドンに着く直前、岩吉たち三人は、驚くべきものを見た。
「何や!? 船から煙が出ている!」
久吉が指さした。霧の中に影絵のように見えるその大きな船は、もくもくと黒い煙を吐いていた。三人は舷側《げんそく》にはりつくようにしてその船を見た。
「帆、帆が、帆があらせんで!」
「あれがきっと話に聞いたスチームで動く船や!」
「おう! 木造りやないで。鍋《なべ》のように真っ黒や。鉄の船や」
驚く三人の前に、汽船はたちまちその全容を現した。
汽船の存在を、三人は既《すで》に聞いてはいた。が、目のあたり見るのは初めてであった。
「コール(石炭)を燃やして、船を動かすんやってな。早い船足や」
「エゲレスは、大した国やで」
初めて見る汽船は、三人には巨大な怪物のように思われた。汽船が霧の中に消えても、三人は呆然《ぼうぜん》と、船の消えて行った霧を見つめていた。ややしばらく、三人は口をきくのも忘れていた。幻を見た思いだった。
またしても、汽船が、霧笛《むてき》を鳴らして、イーグル号の傍《かたわ》らを過ぎて行った。この汽船には、帆も併用していた。
「うーむ」
三人は期せずして一斉《いつせい》にうなった。日本で見た一番大きな船は千石船《せんごくぶね》であった。帆柱が一本だけのあの千石船を、三人はこの世で一番大きな船だと思っていた。それだけに、イーグル号を見た時の驚きは大きかった。が、今、汽船を見たのだ。三人の驚きは更に強烈であった。黒い煙を吐きつづけながら進む船は、船とは思えなかった。
「度胆《どぎも》をぬかれたな、舵取《かじと》りさん」
音吉は吐息をついた。
「驚くのはまだ早いぜ、音。エゲレスにはな、陸の上をスチームで走っている車があるそうや」
「そうやってなあ。レールいうもんを二本敷いている上を、ポーッと大きな笛を鳴らして走るそうやな」
「そうや。一度に何百人もの人間を乗せ、積み荷を載せて走っているそうや」
「エゲレスって、進んだ国なのやなあ。日本で一番物を運べるのは千石船やけど、陸の上では馬車か牛車や。えらいちがいや」
久吉は少し口惜《くや》しそうに言った。
「その陸のトレインも、半刻に五十キロメートルも走るそうや」
「ふーん。大したもんや。ロンドンの町って、どんな所やろな。早う見たいわ」
「けど、舵取りさん……」
音吉が情けなさそうな声を出した。
「この河、段々臭くなるばかりや。何やろ、この臭い」
「ほんとや。わしもさっきから閉口しとるんや。日本にはこんな河、あらせんかったもな」
「あらせん、あらせん。河の水はきれいなものと、決まっているわな、な、舵取りさん」
テームズ河には、ロンドン市民百数十万人の垂れ流す糞尿《ふんによう》が、そのまま流されていて、六月にもなるとその悪臭が更《さら》にひどくなった。
「フォート・バンクーバーを出る時も霧で、ロンドンも霧やな」
久吉は幾度もそう言った。
船がテームズ河の船着き場に着くと、初めから予定されていた水兵たちの下船が始まった。イーグル号に残るのは、艦長と幾人かの士官、下士官、そして船体の整備に必要なだけの、僅《わず》かな水兵だけであった。いつ何時出動命令が出てもいいように、船は常に整備されていなければならなかったのである。
艦長の告別の辞が終わると、水兵たちは次々に船を降りて行った。サムと「親父」も、その中の一人であった。サムはその毛むくじゃらな手で、順々に三人の手を握りしめながら言った。
「悪く思うなよ。お前たちの国より、俺たちの国に、先に立ち寄ったことをな。しかしお前たちも、こうして必ず日本の地を踏めるだろうからな。神の守り、汝《なんじ》が身を離れざれだ」
「親父」も三人に言った。
「俺はな、日本という国がわかったよ。あんたたち三人に会ったお蔭《かげ》でよ。勤勉で、温和で、礼儀正しい人たちだ。国がちがっても、仲よくなれることを、あんたたちは教えてくれた。ありがとうよ」
音吉は、サムにも「親父」にも、もう決して会うことはあるまいと思って、涙をこらえて二人のうしろ姿を見送った。大勢の水兵の中に、二人の姿はすぐに紛れた。そしてその水兵たちの姿も、霧の中に消えて行った。
翌日は更《さら》に霧が深かった。出る船も入る船もない程《ほど》に深い霧であった。只《ただ》テームズ河の悪臭だけが、三人の鼻についた。
三人はロンドンから、然るべき船に乗り替え、日本に送り還《かえ》されることになっていた。その便船《びんせん》が見つかるまで、イーグル号にとめ置かれるということだった。
「とうとう、このイーグル号にもお別れか」
二日目の夜、岩吉はハンモックの中で言った。むせかえるような水兵たちの体臭も今はない。熱気もない。がらんとした中甲板《ちゆうかんぱん》に三人は寝たまま話し合っていた。
「ほんとやなあ、舵取《かじと》りさん。イーグル号に乗った時は、何やら心配やったなあ」
音吉は、八か月前を思い起こす。久吉も言った。
「そやそや、入れ墨の荒くれ男たちが大勢いて、言葉は荒いし、目つきはきついし、地獄の鬼のようにも見えたけど、それほどでもなかったな、舵取りさん」
「そうやな」
岩吉は、最初サムという男が何か仕出かしそうで不安だった。人望のある「親父」をまつり上げて、叛乱《はんらん》でも起こすのではないかと案じていた。が、それらしいこともなくて、航海はとにかく無事に終わった。岩吉は、イギリスの船といえども、軍艦である以上、所詮《しよせん》は武士たちの集まりだと思っていた。が、いささか様子がちがった。水兵たちは日本の足軽程《あしがるほど》の権威もなく、只気合棒《ただきあいぼう》に追いかけられ、いかなる命令にも、「アイ アイ サア」と絶対服従の姿勢をとっていた。士官以上と水兵たちとは、明らかに別世界には生きていたが、しかし日本人の三人には、時折晩餐《ときおりばんさん》をふるまい、親切に遇してくれた。とりわけ士官マッカーデーは、岩吉をアーチストとして尊敬し、友人扱いにしてくれた。そのマッカーデーが、まだこの船に残っているのは幸いだった。
「俺、サムが好きやった」
ぽつりと久吉が言った。
「親父さんもいい人やった」
小野浦にいた時でも、サムや「親父」ほどあたたかい人間には、そう会ってはいないような気がする。良参寺の和尚《おしよう》や、樋口源六ぐらいしか、心にふれた大人はいなかったような気がする。
(もう会えんのか)
音吉はハンモックの中で寝返りを打った。
「今度はどんな船やろな」
久吉は少し不安そうに言った。
「煙を吐く、あの真っ黒な船かも知れせんで、久」
珍しく岩吉が冗談めかして言った。どこかで犬の吠える声がした。
(ああ、陸のすぐ傍《そば》にいるんやな)
音吉はそう思って目をつぶった。
ロンドンに着く直前、岩吉たち三人は、驚くべきものを見た。
「何や!? 船から煙が出ている!」
久吉が指さした。霧の中に影絵のように見えるその大きな船は、もくもくと黒い煙を吐いていた。三人は舷側《げんそく》にはりつくようにしてその船を見た。
「帆、帆が、帆があらせんで!」
「あれがきっと話に聞いたスチームで動く船や!」
「おう! 木造りやないで。鍋《なべ》のように真っ黒や。鉄の船や」
驚く三人の前に、汽船はたちまちその全容を現した。
汽船の存在を、三人は既《すで》に聞いてはいた。が、目のあたり見るのは初めてであった。
「コール(石炭)を燃やして、船を動かすんやってな。早い船足や」
「エゲレスは、大した国やで」
初めて見る汽船は、三人には巨大な怪物のように思われた。汽船が霧の中に消えても、三人は呆然《ぼうぜん》と、船の消えて行った霧を見つめていた。ややしばらく、三人は口をきくのも忘れていた。幻を見た思いだった。
またしても、汽船が、霧笛《むてき》を鳴らして、イーグル号の傍《かたわ》らを過ぎて行った。この汽船には、帆も併用していた。
「うーむ」
三人は期せずして一斉《いつせい》にうなった。日本で見た一番大きな船は千石船《せんごくぶね》であった。帆柱が一本だけのあの千石船を、三人はこの世で一番大きな船だと思っていた。それだけに、イーグル号を見た時の驚きは大きかった。が、今、汽船を見たのだ。三人の驚きは更に強烈であった。黒い煙を吐きつづけながら進む船は、船とは思えなかった。
「度胆《どぎも》をぬかれたな、舵取《かじと》りさん」
音吉は吐息をついた。
「驚くのはまだ早いぜ、音。エゲレスにはな、陸の上をスチームで走っている車があるそうや」
「そうやってなあ。レールいうもんを二本敷いている上を、ポーッと大きな笛を鳴らして走るそうやな」
「そうや。一度に何百人もの人間を乗せ、積み荷を載せて走っているそうや」
「エゲレスって、進んだ国なのやなあ。日本で一番物を運べるのは千石船やけど、陸の上では馬車か牛車や。えらいちがいや」
久吉は少し口惜《くや》しそうに言った。
「その陸のトレインも、半刻に五十キロメートルも走るそうや」
「ふーん。大したもんや。ロンドンの町って、どんな所やろな。早う見たいわ」
「けど、舵取りさん……」
音吉が情けなさそうな声を出した。
「この河、段々臭くなるばかりや。何やろ、この臭い」
「ほんとや。わしもさっきから閉口しとるんや。日本にはこんな河、あらせんかったもな」
「あらせん、あらせん。河の水はきれいなものと、決まっているわな、な、舵取りさん」
テームズ河には、ロンドン市民百数十万人の垂れ流す糞尿《ふんによう》が、そのまま流されていて、六月にもなるとその悪臭が更《さら》にひどくなった。
「フォート・バンクーバーを出る時も霧で、ロンドンも霧やな」
久吉は幾度もそう言った。
船がテームズ河の船着き場に着くと、初めから予定されていた水兵たちの下船が始まった。イーグル号に残るのは、艦長と幾人かの士官、下士官、そして船体の整備に必要なだけの、僅《わず》かな水兵だけであった。いつ何時出動命令が出てもいいように、船は常に整備されていなければならなかったのである。
艦長の告別の辞が終わると、水兵たちは次々に船を降りて行った。サムと「親父」も、その中の一人であった。サムはその毛むくじゃらな手で、順々に三人の手を握りしめながら言った。
「悪く思うなよ。お前たちの国より、俺たちの国に、先に立ち寄ったことをな。しかしお前たちも、こうして必ず日本の地を踏めるだろうからな。神の守り、汝《なんじ》が身を離れざれだ」
「親父」も三人に言った。
「俺はな、日本という国がわかったよ。あんたたち三人に会ったお蔭《かげ》でよ。勤勉で、温和で、礼儀正しい人たちだ。国がちがっても、仲よくなれることを、あんたたちは教えてくれた。ありがとうよ」
音吉は、サムにも「親父」にも、もう決して会うことはあるまいと思って、涙をこらえて二人のうしろ姿を見送った。大勢の水兵の中に、二人の姿はすぐに紛れた。そしてその水兵たちの姿も、霧の中に消えて行った。
翌日は更《さら》に霧が深かった。出る船も入る船もない程《ほど》に深い霧であった。只《ただ》テームズ河の悪臭だけが、三人の鼻についた。
三人はロンドンから、然るべき船に乗り替え、日本に送り還《かえ》されることになっていた。その便船《びんせん》が見つかるまで、イーグル号にとめ置かれるということだった。
「とうとう、このイーグル号にもお別れか」
二日目の夜、岩吉はハンモックの中で言った。むせかえるような水兵たちの体臭も今はない。熱気もない。がらんとした中甲板《ちゆうかんぱん》に三人は寝たまま話し合っていた。
「ほんとやなあ、舵取《かじと》りさん。イーグル号に乗った時は、何やら心配やったなあ」
音吉は、八か月前を思い起こす。久吉も言った。
「そやそや、入れ墨の荒くれ男たちが大勢いて、言葉は荒いし、目つきはきついし、地獄の鬼のようにも見えたけど、それほどでもなかったな、舵取りさん」
「そうやな」
岩吉は、最初サムという男が何か仕出かしそうで不安だった。人望のある「親父」をまつり上げて、叛乱《はんらん》でも起こすのではないかと案じていた。が、それらしいこともなくて、航海はとにかく無事に終わった。岩吉は、イギリスの船といえども、軍艦である以上、所詮《しよせん》は武士たちの集まりだと思っていた。が、いささか様子がちがった。水兵たちは日本の足軽程《あしがるほど》の権威もなく、只気合棒《ただきあいぼう》に追いかけられ、いかなる命令にも、「アイ アイ サア」と絶対服従の姿勢をとっていた。士官以上と水兵たちとは、明らかに別世界には生きていたが、しかし日本人の三人には、時折晩餐《ときおりばんさん》をふるまい、親切に遇してくれた。とりわけ士官マッカーデーは、岩吉をアーチストとして尊敬し、友人扱いにしてくれた。そのマッカーデーが、まだこの船に残っているのは幸いだった。
「俺、サムが好きやった」
ぽつりと久吉が言った。
「親父さんもいい人やった」
小野浦にいた時でも、サムや「親父」ほどあたたかい人間には、そう会ってはいないような気がする。良参寺の和尚《おしよう》や、樋口源六ぐらいしか、心にふれた大人はいなかったような気がする。
(もう会えんのか)
音吉はハンモックの中で寝返りを打った。
「今度はどんな船やろな」
久吉は少し不安そうに言った。
「煙を吐く、あの真っ黒な船かも知れせんで、久」
珍しく岩吉が冗談めかして言った。どこかで犬の吠える声がした。
(ああ、陸のすぐ傍《そば》にいるんやな)
音吉はそう思って目をつぶった。