岩吉たちを乗せた馬車は、ロンドン警視庁のすぐ傍《そば》の、ウエストミンスター・ブリッジ(橋)を渡って、テームズ河の対岸を通り、つづいてその上流のランバス・ブリッジを渡って右に折れ、ウエストミンスター寺院の前に出た。
士官マッカーデーと共に寺院の前に降り立った三人は、声にならぬ声を発して、青空を突き刺すように立っている四つの尖塔《せんとう》を見上げた。やや経《た》ってから、音吉が言った。
「ミスター・マッカーデー、何と大きな、立派な建物でしょう」
「見事でしょう、この建物は」
マッカーデーは満足そうにうなずいた。ウエストミンスター寺院は、巨大な四角の塔を両袖《りようそで》に持つ、荘厳《そうごん》なゴシック建築であった。
「高い塔やなあ! 一体何丈あるやろ、舵取りさん」
「うん、十四、五丈はあるやろな」
白いちぎれ雲が、ゆっくりと流れて来た。その雲の下に、塔が俄《にわか》にせり出すかのように見えた。久吉が思わず一歩退き、
「十四、五丈か、のしかかってくるみたいやな」
と、吐息をついた。
「ほんとやなあ。これも、みな石やなあ。釘《くぎ》を使ってせんのやなあ、久吉」
「そうや、音。日本の寺や城も、釘を使わんで、木を組み合わせるいうけどな、これは石だけやからな。一体どうやって造ったんやろ。何年かかったんやろ。なあ舵取《かじと》りさん」
うなずいて岩吉がマッカーデーに尋ねた。
「何年かかってできたんですか」
「そうだね……」
マッカーデーは、その長いまつ毛を上げて寺院を眺《なが》めながら、
「それがねえ、何年と、はっきりは言えないんだよ……」
「?……」
三人は怪訝《けげん》な顔をした。
「ここに一番先に僧院を建てたのは、ざんげ王という綽名《あだな》の王さまだった。一〇六五年|頃《ごろ》と聞いているがね。信仰が厚いのでざんげ王という綽名があったわけだが、しかしこの形に持ってきたのは、ヘンリー三世でね。ざんげ王の時から二百年は経っている」
「二百年!?」
「二百年で驚くかね。実はね、それから更《さら》に五百年後に、西側の塔が完成されたんだよ」
「じゃあ、初めから数えて七百年!?」
「そうだ。しかし、まだこの後誰かが手を加えるかどうか、それはわからないがねえ」
岩吉はじっと塔を見上げた。四角い塔の上には、更にそれぞれ二つずつの尖塔《せんとう》が立てられている。岩吉はその塔を建てた男たちの姿を思った。
(命がけの仕事だ)
幾人の職人が、この建築で命を失ったことかと、屋根瓦《やねがわら》職人の経験を持つ岩吉は思いやった。驚いている三人を、マッカーデーは中に誘った。
一歩堂の中に入った三人は、思わず声を上げた。吹き抜けの高い高い天井だ。その高さだけでも驚くのに、内部もまた悉《ことごと》く見事な石造りであった。二抱えもありそうな何本もの太い柱が、堂の左右に並んでいる。その円柱がすべて石を重ねて造った美しい柱だ。天井には撓《たわ》めたような石が組み合わされて美しいアーチをつくり、そのアーチが幾組にも組を成して天井を支えている。狭い谷底から見上げるような天井だ。石を自由自在に使っての壮麗な建築に、三人は只呆然《ただぼうぜん》とした。
岩吉たちは生まれて初めて、たった今ロンドンの建物の中に入ったのだ。その建物が、ウエストミンスター寺院であったことが、三人の驚きを大きくした。
「何やろ!? あの色ガラス」
青、赤、黄、緑、様々な色どりのステンド・グラスを久吉は指さした。両手を頭の上で合わせた人たちが描かれている。十字架にかかった男の姿もある。美しい花や鳥もある。それらがみな澄んだ色で描かれているのだ。
「あれがステンド・グラスだよ」
「ステンド・グラス?」
三人はおうむ返しに呟《つぶや》いた。
「そうだよ。千年も前からあるものだ」
「千年も前から!?」
「あれはね、ガラスに絵を描いたものではない。色のついたガラスを組み合わせて、人や花の形を作ったものだよ」
「へえー。描いたんではないんですか。偉いことをするなあ異人さんは。なあ舵取《かじと》りさん」
音吉は途中から日本語で言った。
「この建築様式は、ゴシック建築と言ってね。ゴシック建築にはステンド・グラスがつきものなのだよ」
「いったい、どうやってあのガラスをはめこむんやろ」
三人はややしばらく、首の痛くなるほど窓を見上げていた。
前方中央には、大きな金色の祭壇があった。祭壇には金属の十字架が置かれ、その両側に、背に羽を持つ天使や、聖人たちの像が安置されてあった。祭壇の上部は、何の金属か金色のすかし彫りで枠《わく》どられ、それが三人には黄金に見えた。祭壇両側の石柱に、それぞれ美しい女の像が飾られ、その女たちは大きな十字架を胸に抱えていた。
(ジーザス・クライストのチャーチやな)
建物への驚きがややおさまると、音吉はそう思った。と、同じことを久吉が言った。
「キリシタンのお寺やな、舵取りさん」
「うん、あちこちに十字があるわな」
「エゲレスでは、キリシタンを大事にしてるんやな。こんな立派なチャーチを建てて」
それには答えず、
「七百年もかかって建てた寺か」
と、岩吉が再び天井を仰いだ。鎖で吊《つ》るされた見事なシャンデリアに、何本もの太いローソクが立てられていた。
「日本のお上《かみ》に、このチャーチを見せたら、何と言うやろ。ここを見ても、キリシタンはやはり邪宗と言うやろか」
久吉が珍しく大人びた語調で言うと、音吉が答えた。
「どうやろうな。とにかくぶったまげるわ。久吉、何や、このチャーチの中に入ったら、心がしーんとするで。じっとここにいれば、いるほど、心がきれいになるような気がするで。キリシタンと聞く度《たび》に、只《ただ》恐ろしかったけど、どうしたんやろ。今日はどこかちがうわ」
「音吉、何と言ったかね?」
マッカーデーが笑顔を向けた。
「いえ、別に」
音吉はあわてて答えた。
「ここではね。国王や女王の戴冠式《たいかんしき》が行われるのだよ」
「戴冠式?」
三人には初めての言葉であった。
「王になった時、冠をいただく。つまり即位式だね。これは由緒《ゆいしよ》ある寺院《アベイ》でね。むろん王も王妃も、死ねばここに葬られる」
「…………」
「イギリス人はね、この寺院に葬られることを、最大の栄誉としているんだよ。政治家、学者、文学者、そうだ! 有名なシェクスピアもここに葬られている筈《はず》だ」
「シェクスピア?」
三人は顔を見合わせた。
「ああ、君たちは知らなかったか。彼も日本までは名がひびいていなかったとみえる」
マッカーデーは冗談を言い、
「彼はね、もう二百年以上も前に死んだ詩人でね、且《か》つ劇作家であり俳優でもあった。彼は三十七の戯曲を書いた。ハムレット、ベニスの商人、そしてマクベス。ああぼくは、彼と同じ国に生まれただけでも幸せだ」
三人は呆気《あつけ》にとられた。わからない単語が次々とマッカーデーの口から飛び出したからだ。
「岩吉、ぼくは思うけどね。君がもしイギリス人だったら、ここに葬られるかも知れないよ。君は実に絵がうまい。ユニークな絵だ。君は立派な芸術家だ」
マッカーデーは真顔で岩吉をほめた。
士官マッカーデーと共に寺院の前に降り立った三人は、声にならぬ声を発して、青空を突き刺すように立っている四つの尖塔《せんとう》を見上げた。やや経《た》ってから、音吉が言った。
「ミスター・マッカーデー、何と大きな、立派な建物でしょう」
「見事でしょう、この建物は」
マッカーデーは満足そうにうなずいた。ウエストミンスター寺院は、巨大な四角の塔を両袖《りようそで》に持つ、荘厳《そうごん》なゴシック建築であった。
「高い塔やなあ! 一体何丈あるやろ、舵取りさん」
「うん、十四、五丈はあるやろな」
白いちぎれ雲が、ゆっくりと流れて来た。その雲の下に、塔が俄《にわか》にせり出すかのように見えた。久吉が思わず一歩退き、
「十四、五丈か、のしかかってくるみたいやな」
と、吐息をついた。
「ほんとやなあ。これも、みな石やなあ。釘《くぎ》を使ってせんのやなあ、久吉」
「そうや、音。日本の寺や城も、釘を使わんで、木を組み合わせるいうけどな、これは石だけやからな。一体どうやって造ったんやろ。何年かかったんやろ。なあ舵取《かじと》りさん」
うなずいて岩吉がマッカーデーに尋ねた。
「何年かかってできたんですか」
「そうだね……」
マッカーデーは、その長いまつ毛を上げて寺院を眺《なが》めながら、
「それがねえ、何年と、はっきりは言えないんだよ……」
「?……」
三人は怪訝《けげん》な顔をした。
「ここに一番先に僧院を建てたのは、ざんげ王という綽名《あだな》の王さまだった。一〇六五年|頃《ごろ》と聞いているがね。信仰が厚いのでざんげ王という綽名があったわけだが、しかしこの形に持ってきたのは、ヘンリー三世でね。ざんげ王の時から二百年は経っている」
「二百年!?」
「二百年で驚くかね。実はね、それから更《さら》に五百年後に、西側の塔が完成されたんだよ」
「じゃあ、初めから数えて七百年!?」
「そうだ。しかし、まだこの後誰かが手を加えるかどうか、それはわからないがねえ」
岩吉はじっと塔を見上げた。四角い塔の上には、更にそれぞれ二つずつの尖塔《せんとう》が立てられている。岩吉はその塔を建てた男たちの姿を思った。
(命がけの仕事だ)
幾人の職人が、この建築で命を失ったことかと、屋根瓦《やねがわら》職人の経験を持つ岩吉は思いやった。驚いている三人を、マッカーデーは中に誘った。
一歩堂の中に入った三人は、思わず声を上げた。吹き抜けの高い高い天井だ。その高さだけでも驚くのに、内部もまた悉《ことごと》く見事な石造りであった。二抱えもありそうな何本もの太い柱が、堂の左右に並んでいる。その円柱がすべて石を重ねて造った美しい柱だ。天井には撓《たわ》めたような石が組み合わされて美しいアーチをつくり、そのアーチが幾組にも組を成して天井を支えている。狭い谷底から見上げるような天井だ。石を自由自在に使っての壮麗な建築に、三人は只呆然《ただぼうぜん》とした。
岩吉たちは生まれて初めて、たった今ロンドンの建物の中に入ったのだ。その建物が、ウエストミンスター寺院であったことが、三人の驚きを大きくした。
「何やろ!? あの色ガラス」
青、赤、黄、緑、様々な色どりのステンド・グラスを久吉は指さした。両手を頭の上で合わせた人たちが描かれている。十字架にかかった男の姿もある。美しい花や鳥もある。それらがみな澄んだ色で描かれているのだ。
「あれがステンド・グラスだよ」
「ステンド・グラス?」
三人はおうむ返しに呟《つぶや》いた。
「そうだよ。千年も前からあるものだ」
「千年も前から!?」
「あれはね、ガラスに絵を描いたものではない。色のついたガラスを組み合わせて、人や花の形を作ったものだよ」
「へえー。描いたんではないんですか。偉いことをするなあ異人さんは。なあ舵取《かじと》りさん」
音吉は途中から日本語で言った。
「この建築様式は、ゴシック建築と言ってね。ゴシック建築にはステンド・グラスがつきものなのだよ」
「いったい、どうやってあのガラスをはめこむんやろ」
三人はややしばらく、首の痛くなるほど窓を見上げていた。
前方中央には、大きな金色の祭壇があった。祭壇には金属の十字架が置かれ、その両側に、背に羽を持つ天使や、聖人たちの像が安置されてあった。祭壇の上部は、何の金属か金色のすかし彫りで枠《わく》どられ、それが三人には黄金に見えた。祭壇両側の石柱に、それぞれ美しい女の像が飾られ、その女たちは大きな十字架を胸に抱えていた。
(ジーザス・クライストのチャーチやな)
建物への驚きがややおさまると、音吉はそう思った。と、同じことを久吉が言った。
「キリシタンのお寺やな、舵取りさん」
「うん、あちこちに十字があるわな」
「エゲレスでは、キリシタンを大事にしてるんやな。こんな立派なチャーチを建てて」
それには答えず、
「七百年もかかって建てた寺か」
と、岩吉が再び天井を仰いだ。鎖で吊《つ》るされた見事なシャンデリアに、何本もの太いローソクが立てられていた。
「日本のお上《かみ》に、このチャーチを見せたら、何と言うやろ。ここを見ても、キリシタンはやはり邪宗と言うやろか」
久吉が珍しく大人びた語調で言うと、音吉が答えた。
「どうやろうな。とにかくぶったまげるわ。久吉、何や、このチャーチの中に入ったら、心がしーんとするで。じっとここにいれば、いるほど、心がきれいになるような気がするで。キリシタンと聞く度《たび》に、只《ただ》恐ろしかったけど、どうしたんやろ。今日はどこかちがうわ」
「音吉、何と言ったかね?」
マッカーデーが笑顔を向けた。
「いえ、別に」
音吉はあわてて答えた。
「ここではね。国王や女王の戴冠式《たいかんしき》が行われるのだよ」
「戴冠式?」
三人には初めての言葉であった。
「王になった時、冠をいただく。つまり即位式だね。これは由緒《ゆいしよ》ある寺院《アベイ》でね。むろん王も王妃も、死ねばここに葬られる」
「…………」
「イギリス人はね、この寺院に葬られることを、最大の栄誉としているんだよ。政治家、学者、文学者、そうだ! 有名なシェクスピアもここに葬られている筈《はず》だ」
「シェクスピア?」
三人は顔を見合わせた。
「ああ、君たちは知らなかったか。彼も日本までは名がひびいていなかったとみえる」
マッカーデーは冗談を言い、
「彼はね、もう二百年以上も前に死んだ詩人でね、且《か》つ劇作家であり俳優でもあった。彼は三十七の戯曲を書いた。ハムレット、ベニスの商人、そしてマクベス。ああぼくは、彼と同じ国に生まれただけでも幸せだ」
三人は呆気《あつけ》にとられた。わからない単語が次々とマッカーデーの口から飛び出したからだ。
「岩吉、ぼくは思うけどね。君がもしイギリス人だったら、ここに葬られるかも知れないよ。君は実に絵がうまい。ユニークな絵だ。君は立派な芸術家だ」
マッカーデーは真顔で岩吉をほめた。