遅い夕食をすませた後、岩吉たち三人は、他の客たちと同様に、薄暗い船倉の床にごろ寝をしていた。船員の中で船室を持っているのは、船長と航海士だけだ。平《ひら》水夫たちも岩吉たち同様毛布を着てごろ寝をしている。イーグル号とちがって、商船であるゼネラル・パーマー号は船倉が広い。そしてその天井が高い。より多くの荷を積みこむのが至上の使命だからだ。したがってこのゼネラル・パーマー号にも、上等な客室などはなかった。いや、そればかりか、商船に便乗させてもらうだけでも大変な苦労をしなければならない。船主に贈り物をし、船長に金品を贈り、様々な手を尽くして、ようやく乗船の許可が出る。
だが、この東インド会社の持ち船ゼネラル・パーマー号の場合、それでもまだ扱いがよかった。客種がよかったからでもある。政府から派遣される貴族、ロンドンでも名うての豪商、そしてまた東インド会社から転任を命じられた高級社員とその家族、これらが主な客であったからだ。
これがアメリカ行きの貨物船だとこうはいかない。横になる場所さえろくに与えられぬ客が、ざらにあった。
「ニャーオ」
猫の声がどこかでした。誰かが口笛を吹いた。乗船第一日で、誰も気持ちが昂《たかぶ》っている。あちこちでひそひそ語り合う声がする。
「猫がいるとええわな。鼠《ねずみ》を獲ってくれるでな」
音吉が久吉にささやいた。
「うん。猫の声って、何や女みたいやな」
「久吉、何や、今日はすぐに話が女のほうにいくんやな」
「当たり前や。この船の中に、女が二人もいるだでな」
久吉が寝返りを打った。
「それよりなあ久吉、やっぱりイーグル号とはこの船はちがうわなあ。船の様子がずいぶんちがうわ。さっきの晩飯にしてもな」
広い船倉に、わずか二つ程《ほど》しか灯は点《とも》していない。その灯を見つめながら、音吉は先刻の夕食の様子を思って言った。
「そやな、コーヒーを飲んでいるのもいたし、ワインを飲んでいるのもいたしな」
「水主《かこ》は相変わらず固いブレッドと塩肉やけどな。それでも今日は野菜があったわな」
三人はそれでも、今朝サムたちがくれた柔らかいパンを食うことができた。
「うん、今日船出したばかりだでな。けど野菜の出るのも、二、三日でないか」
「けど、イーグル号より、羊や豚や※[#「奚+隹」、unicode96de]が多いわな。おまけに牛まで積んどるわ」
「人数が少ないのにな」
「金持ち客が多いということや、きっと」
「そうや。けど中には貧乏人もいるやろな」
「俺たちも貧乏人や。金などあらせん」
「船ん中で金は無用や」
傍らで岩吉の寝息が聞こえた。
「それもそうやな。何を買うわけでもあらせんしな。食い物はみんなハドソン湾カンパニーが用意してくれたでな」
客船では、食糧は自分持ちなのだ。水さえ自分持ちの船があると聞く。夕食の卵を持参した客は、自分でフライパンで焼いていた。
上甲板《じようかんぱん》の小さな調理場で、客が順を待っている様子も見た。音吉は、ビン詰めをあけて何か食っていた若い男の尖《とが》った鼻を思い浮かべながら、
「千石船《せんごくぶね》はよかったなあ、久吉」
「そうやなあ。親方も、岡廻《おかまわ》りも、わしら炊《かしき》と同じ物を食うていたわな」
「ほんとや。船長《キヤプテン》だけ肉を食うたり、ふかふかのブレッドを食うたりというのと、ちがうでな」
「やっぱり人の数が少なかったからや。だからおんなじ物を食えたんや」
「それはそうやな」
音吉が言った時、眠っていた岩吉の寝息がぴたりととまって、
「今、何刻頃《なんどきごろ》や、音」
と、顔を向けた。
「まだ、テン オクロック(十時)にならんわ」
「まだそんな時刻か。ぐっすり眠ったと思うたがな」
岩吉は腹這《はらば》いになって、
「テン オクロックか。四つやな、日本で言えば」
「そうやな。けど舵取《かじと》りさんよう眠れるな。わしら目が冴《さ》えて、よう眠れせんわ。何やハンモックのほうが眠れるような気がしてな。な、音」
「そうや。久吉のいうとおりや。板の上はごつごつして、体が痛いでな」
「お前らハンモックに寝た時は、寝れせん言うたがな」
「うん、何でも、馴《な》れてくるもんやな、舵取りさん」
「いつ頃《ごろ》着くんやろ、マカオとやらに」
「わからせん、明日のことは」
やや投げやりに岩吉が答えた。真実、岩吉はそう思っている。あの熱田の港を出た時、江戸までの一航海で帰宅するつもりであった。それがもう、正月を三度も過ごしたのだ。幾ら自分がどうしようとしても、事は自分の思いどおりにはならないのだ。思いもかけぬアメリカにまで渡り、聞いたこともないホーン岬の嵐にも遭《あ》った。目くるめくような暑い赤道も通った。そしてイギリスという国の土も踏んだ。日本を出る時は、こんな大廻《おおまわ》りをして帰ることになろうとは、夢にも思わぬことであった。
(戦船《いくさぶね》にも乗った。今度はこの船に乗った)
そしてこの船が、どんな運命を辿《たど》ってマカオに着くのか、あるいは着かぬのか、岩吉にもわからない。イーグル号での最後の夜、岩吉はマッカーデーとワインを酌《く》みかわしながら、地球儀を見せてもらった。マクラフリン博士にも、イーグル号の艦長にも見せてもらった地球儀だったが、マッカーデーの血色のいい指先が辿る自分たちの来た道、行く道を、幾度も幾度も、岩吉もまた辿ってみた。まさしく世界を一周する旅なのだ。海賊船のことも、岩吉はマッカーデーに聞いた。商船がよく狙《ねら》われるとマッカーデーは言っていた。
「明日のことはわからせんか。ほんとうやなあ舵取《かじと》りさん」
音吉がしみじみと言った。思いは音吉にしても久吉にしても同じなのだ。
「昨夜舵取りさんが言うたけど、ほんとに海賊船は出るんかな」
「運がよければ、襲われんやろ」
突き放したような言い方だった。
「運がよければか。この船にもたくさんの大砲があるのは、その備えのためやろうしなあ。嵐もいややけど、海賊もいややなあ、なあ音」
「いやや言うても仕方あらせん。けどなあ、考えてみたら、わしらはまだまだ運がいいんやで」
「運がいい? 何が運がいいんや、音」
「そうやないか、久吉。熱田を出た時は十四人やった。それが十一人死んだ。そしてわしら三人だけが、こうして生き残ったでな」
岩吉が大きくうなずいて、
「久吉、音の言うとおりや。あの宝順丸の中で死んでも、誰にも文句は言えせん。フラッタリー岬から助け出されなかったとしても、仕方あらせん。考えてみりゃあ、運が悪いようだが、ええとも言えるで」
「言われてみればそうやな、舵取りさん。ま、ここまで助かった命や。無事日本に着くやろ」
「まあ、明日のことは知らんが……」
今しがた言った言葉を、岩吉はくり返した。
「そうや、明日のことは知れせんけど、悪い明日ばかりが待っているわけはない。いい明日かて待ってるかも知れせんで」
久吉は楽天的に言って、裾《すそ》にあった毛布を腹まで引き上げた。
だが、この東インド会社の持ち船ゼネラル・パーマー号の場合、それでもまだ扱いがよかった。客種がよかったからでもある。政府から派遣される貴族、ロンドンでも名うての豪商、そしてまた東インド会社から転任を命じられた高級社員とその家族、これらが主な客であったからだ。
これがアメリカ行きの貨物船だとこうはいかない。横になる場所さえろくに与えられぬ客が、ざらにあった。
「ニャーオ」
猫の声がどこかでした。誰かが口笛を吹いた。乗船第一日で、誰も気持ちが昂《たかぶ》っている。あちこちでひそひそ語り合う声がする。
「猫がいるとええわな。鼠《ねずみ》を獲ってくれるでな」
音吉が久吉にささやいた。
「うん。猫の声って、何や女みたいやな」
「久吉、何や、今日はすぐに話が女のほうにいくんやな」
「当たり前や。この船の中に、女が二人もいるだでな」
久吉が寝返りを打った。
「それよりなあ久吉、やっぱりイーグル号とはこの船はちがうわなあ。船の様子がずいぶんちがうわ。さっきの晩飯にしてもな」
広い船倉に、わずか二つ程《ほど》しか灯は点《とも》していない。その灯を見つめながら、音吉は先刻の夕食の様子を思って言った。
「そやな、コーヒーを飲んでいるのもいたし、ワインを飲んでいるのもいたしな」
「水主《かこ》は相変わらず固いブレッドと塩肉やけどな。それでも今日は野菜があったわな」
三人はそれでも、今朝サムたちがくれた柔らかいパンを食うことができた。
「うん、今日船出したばかりだでな。けど野菜の出るのも、二、三日でないか」
「けど、イーグル号より、羊や豚や※[#「奚+隹」、unicode96de]が多いわな。おまけに牛まで積んどるわ」
「人数が少ないのにな」
「金持ち客が多いということや、きっと」
「そうや。けど中には貧乏人もいるやろな」
「俺たちも貧乏人や。金などあらせん」
「船ん中で金は無用や」
傍らで岩吉の寝息が聞こえた。
「それもそうやな。何を買うわけでもあらせんしな。食い物はみんなハドソン湾カンパニーが用意してくれたでな」
客船では、食糧は自分持ちなのだ。水さえ自分持ちの船があると聞く。夕食の卵を持参した客は、自分でフライパンで焼いていた。
上甲板《じようかんぱん》の小さな調理場で、客が順を待っている様子も見た。音吉は、ビン詰めをあけて何か食っていた若い男の尖《とが》った鼻を思い浮かべながら、
「千石船《せんごくぶね》はよかったなあ、久吉」
「そうやなあ。親方も、岡廻《おかまわ》りも、わしら炊《かしき》と同じ物を食うていたわな」
「ほんとや。船長《キヤプテン》だけ肉を食うたり、ふかふかのブレッドを食うたりというのと、ちがうでな」
「やっぱり人の数が少なかったからや。だからおんなじ物を食えたんや」
「それはそうやな」
音吉が言った時、眠っていた岩吉の寝息がぴたりととまって、
「今、何刻頃《なんどきごろ》や、音」
と、顔を向けた。
「まだ、テン オクロック(十時)にならんわ」
「まだそんな時刻か。ぐっすり眠ったと思うたがな」
岩吉は腹這《はらば》いになって、
「テン オクロックか。四つやな、日本で言えば」
「そうやな。けど舵取《かじと》りさんよう眠れるな。わしら目が冴《さ》えて、よう眠れせんわ。何やハンモックのほうが眠れるような気がしてな。な、音」
「そうや。久吉のいうとおりや。板の上はごつごつして、体が痛いでな」
「お前らハンモックに寝た時は、寝れせん言うたがな」
「うん、何でも、馴《な》れてくるもんやな、舵取りさん」
「いつ頃《ごろ》着くんやろ、マカオとやらに」
「わからせん、明日のことは」
やや投げやりに岩吉が答えた。真実、岩吉はそう思っている。あの熱田の港を出た時、江戸までの一航海で帰宅するつもりであった。それがもう、正月を三度も過ごしたのだ。幾ら自分がどうしようとしても、事は自分の思いどおりにはならないのだ。思いもかけぬアメリカにまで渡り、聞いたこともないホーン岬の嵐にも遭《あ》った。目くるめくような暑い赤道も通った。そしてイギリスという国の土も踏んだ。日本を出る時は、こんな大廻《おおまわ》りをして帰ることになろうとは、夢にも思わぬことであった。
(戦船《いくさぶね》にも乗った。今度はこの船に乗った)
そしてこの船が、どんな運命を辿《たど》ってマカオに着くのか、あるいは着かぬのか、岩吉にもわからない。イーグル号での最後の夜、岩吉はマッカーデーとワインを酌《く》みかわしながら、地球儀を見せてもらった。マクラフリン博士にも、イーグル号の艦長にも見せてもらった地球儀だったが、マッカーデーの血色のいい指先が辿る自分たちの来た道、行く道を、幾度も幾度も、岩吉もまた辿ってみた。まさしく世界を一周する旅なのだ。海賊船のことも、岩吉はマッカーデーに聞いた。商船がよく狙《ねら》われるとマッカーデーは言っていた。
「明日のことはわからせんか。ほんとうやなあ舵取《かじと》りさん」
音吉がしみじみと言った。思いは音吉にしても久吉にしても同じなのだ。
「昨夜舵取りさんが言うたけど、ほんとに海賊船は出るんかな」
「運がよければ、襲われんやろ」
突き放したような言い方だった。
「運がよければか。この船にもたくさんの大砲があるのは、その備えのためやろうしなあ。嵐もいややけど、海賊もいややなあ、なあ音」
「いやや言うても仕方あらせん。けどなあ、考えてみたら、わしらはまだまだ運がいいんやで」
「運がいい? 何が運がいいんや、音」
「そうやないか、久吉。熱田を出た時は十四人やった。それが十一人死んだ。そしてわしら三人だけが、こうして生き残ったでな」
岩吉が大きくうなずいて、
「久吉、音の言うとおりや。あの宝順丸の中で死んでも、誰にも文句は言えせん。フラッタリー岬から助け出されなかったとしても、仕方あらせん。考えてみりゃあ、運が悪いようだが、ええとも言えるで」
「言われてみればそうやな、舵取りさん。ま、ここまで助かった命や。無事日本に着くやろ」
「まあ、明日のことは知らんが……」
今しがた言った言葉を、岩吉はくり返した。
「そうや、明日のことは知れせんけど、悪い明日ばかりが待っているわけはない。いい明日かて待ってるかも知れせんで」
久吉は楽天的に言って、裾《すそ》にあった毛布を腹まで引き上げた。