「これで今日の礼拝を終わります」
牧師がそう言った時、上甲板《じようかんぱん》に牛の眠そうな声が聞こえた。船員も船客も、何となく顔を見合わせて笑った。牧師もにやりと笑った。と、安心したようにもう一度笑い声が起きた。
「牛も礼拝をしていたらしい」
誰かが大声で言った。和《なご》やかな雰囲気だった。が、音吉と久吉は浮かぬ顔で岩吉を見た。船が静かに左右に揺れている。
船の左手に、遠くポルトガルの陸地が見える。ゼネラル・パーマー号はポルトガルのサンビセンテ岬の沖合を、時速八ノットの速度で過ぎようとしていた。追い風を帆に一杯に受けて、快く船は走る。ロンドンを出て、今日は初めての日曜日であった。
「舵取《かじと》りさん。まさか、この船にもキリシタンのワーシップ(礼拝)があるとは知らんかったなあ」
今、シュラウド(綱梯子《つなばしご》)を巧みに登って行く船員の長い足を見上げながら、久吉がぼやいた。
「ほんとやな。イーグル号だけやと思ったが、大きなまちがいだったな」
岩吉も苦笑した。音吉が言った。
「こうなったら何やな、日本に帰るまでは、キリシタンから逃れられんと覚悟しなければならんやろな」
「まあ、そうや、音。なんぼワーシップに出とうないと思うても、何やみんなに悪いし……」
久吉が答えた。
「日本に帰って、黙っていれば、わからんことやしな。第一、お上《かみ》やって、船の中にまでパーソンがいて、お勤めしてるなんぞとは、思いもせんやろしな」
岩吉は音吉たち二人の話を聞いていたが、
「しかし何や、さすが本職や。イーグル号の船長《キヤプテン》の話よりわかりやすかったわな」
岩吉は今聞いた説教を思いながら言った。牧師は言ったのだ。
「昔、ある女がいました。その女は男の心をそそるような、顔と体を持っていました。この女が姦淫《かんいん》の場をみつけられたのです。イスラエルの掟《おきて》では、姦淫をした者は、石で打ち殺されなければなりませんでした」
そう言って、牧師は人々の顔を見まわした。岩吉の胸にふっと絹の顔が浮かんだ。そして、あの銀次の眉《まゆ》の秀《ひい》でた顔を思った。
「人々は、この女をその家から引きずり出して、ジーザス《イエス》のもとにつれてきました。そしてジーザスに言いました。
『この女を石で殺そうか。あんたはどう思う。何しろモーセは、こういう女は石で打ち殺せと言っているのだがね』」
ここで再び牧師は言葉を切った。岩吉はその相手の男はどうなったのかと思った。なぜ女だけが引きずり出されたのか。不意に怒りを感じた。日本では「姦夫姦婦は重ねて四つに切る」という仕置きがある。不公平だと思った。
(男は逃げやがったな)
岩吉は銀次の逃げていくうしろ姿を見たような、いやな心地《ここち》がした。
と、牧師は言葉をついで、
「皆さん、この男共は、ジーザスを試そうとして、こんな難題を吹きかけたのです。なぜなら、石で打ち殺せというのは、モーセが定めたユダヤの掟《おきて》です。これはユダヤ人として絶対守らなければなりません。何しろ、ユダヤ人にとっては、掟を守ることが何よりも大事なのです。たとえば、安息日には女が食事の仕度《したく》をすることも、許されません。歩く距離も何歩までと決められているほどのきびしさです。だから、安息日にユダヤのある町が攻められた時、戦わずに亡びた例さえあるのです。ユダヤ人にとっては、戦うことよりも、神の掟を守ることが大切でした。そんな国のことですから、ジーザスの時代もまた、掟を守ることが至上命令でした。皆さんなら、ここで何と答えますか、女をゆるすと言いますか、殺すと言いますか」
岩吉は心の中で叫んだ。
(野郎を殺すべきだ!)
牧師の話がつづいた。
「男共は息をのんでジーザスの答えを待っていました。もし、掟のとおり、女を石で打ち殺せと答えるなら『ではジーザスよ、あんたが日頃《ひごろ》人の罪を許せと言ってることはどうなるんだ。あんたは言ったろう。人の罪は七度ではなく、その七十倍、つまり四百九十回許さねばならんと言った。要するに無限に許せと言うことだろう。そのあんたの教えはどうなるのだ』と、難癖をつけるつもりでした。もしイエスが、女を許しなさいと言えば、『みんな聞いたか。このジーザスという奴《やつ》は、神聖な掟をふみにじる男だ』と、みんなを煽動《せんどう》しようと思っていたのです。どう答えても、ジーザスを訴えることができると、ちゃんと計算して、男共はやってきたのです。あなたたちがイエスなら、どうしますか」
ゆっくりとした語調は、明らかに岩吉たち三人を心に置いてのようであった。この牧師もまた、他の国々にキリストの愛を伝えることを大いなる喜びとしている一人であった。商船や客船には、こうした牧師たちが必ずといってもよいほど、私費で乗りこんでいた。長い航海の中で、争いもあれば、病人が出ることもある。暴風に遭《あ》うこともあれば、海賊船に襲われることもある。そうした時に人々にとって大きな力となるのは、牧師の祈りであり、励まし慰めの言葉であった。
この牧師フェニホフは、資産家の長男に生まれたが、その事業を受けつぐより、神の言葉を宣べ伝えて一生を送ることに使命を感じた人物であった。
フェニホフ牧師の視線が、岩吉に向けられた。岩吉はその視線をしっかりと受けとめた。
(女をゆるしても、殺しても、この男共はジーザスをゆるさない。じゃ、いったいどうしたらよいのか……)
岩吉がそう思った時、牧師は言った。
「困りましたねえ。男共はジーザスをわなに陥れようとして、やってきたのです。しかしジーザスは、彼らの心を見透《みすか》していました。ジーザスは不思議な方です。相手がどんな気持ちで自分にものを言っているのか、すべて見ぬいていた人でした。それは聖書を読めばわかります。この時、ジーザスは、何も答えずに、身を屈《かが》めて、地面に指で何かを書いていたのです。絵を描いていたか、字を書いていたか、それはわかりません。その時、ジーザスがどんな気持ちであったか、それも私たち人間にはわかりません。男共は、ジーザスが答えられないと甘くみたのでしょう。ますます居丈高《いたけだか》になって返答を迫りました。ジーザスは静かに身を起こして、彼らに言われました。これがかの有名な言葉です。『汝《なんじ》らのうち罪なき者|先《ま》ず石を投げ打て』」
聴衆は牧師の言葉に大きくうなずいた。「『汝らのうち罪なき者先ず石を投げ打て』ジーザスはこう言うと、また身を屈めて、地面にものを書きつづけられたのです。もしこの場にあなたがいたとしたら、どうしますか。この女に石を投げ打ちますか。罪のない者が石を投げなさいと言ったのです。男共はこそこそと一人去り、二人去り、みんな行ってしまいました。罪のない者は一人もありません」
牧師の声が不意にきびしくなった。
「人間である限り、すべて罪人です。罪のない者はありません。この私はむろんのこと、金持ちも貧しい者も、貴族も平民も、皇帝も、すべて罪人です。どこの国の民もどこの国の王も、人間である限りすべて罪人です。誰も石を投げ打つ資格はありません。ジーザスはこの男共にだけこう言われたのではありません。世界のすべての人に言われたのです。即《すなわ》ち、あなたがた一人一人にも言われたのです」
牧師の語調に権威があった。
今、その説教を思い返しながら、岩吉の胸にまたしても銀次の顔が浮かんだ。
(大変な教えやな。信じないほうが楽かも知れせん)
そうは思ったが、地面に何かを書きつづけていたというイエスの姿が、岩吉には驚嘆《きようたん》すべき存在に思われた。
その牧師の話を思い返しながら、岩吉は再び言った。
「さすが本職。ええ話やった」
「うん、わかりやすい、ええ話やったな」
音吉もしみじみと答えて言った。
牧師がそう言った時、上甲板《じようかんぱん》に牛の眠そうな声が聞こえた。船員も船客も、何となく顔を見合わせて笑った。牧師もにやりと笑った。と、安心したようにもう一度笑い声が起きた。
「牛も礼拝をしていたらしい」
誰かが大声で言った。和《なご》やかな雰囲気だった。が、音吉と久吉は浮かぬ顔で岩吉を見た。船が静かに左右に揺れている。
船の左手に、遠くポルトガルの陸地が見える。ゼネラル・パーマー号はポルトガルのサンビセンテ岬の沖合を、時速八ノットの速度で過ぎようとしていた。追い風を帆に一杯に受けて、快く船は走る。ロンドンを出て、今日は初めての日曜日であった。
「舵取《かじと》りさん。まさか、この船にもキリシタンのワーシップ(礼拝)があるとは知らんかったなあ」
今、シュラウド(綱梯子《つなばしご》)を巧みに登って行く船員の長い足を見上げながら、久吉がぼやいた。
「ほんとやな。イーグル号だけやと思ったが、大きなまちがいだったな」
岩吉も苦笑した。音吉が言った。
「こうなったら何やな、日本に帰るまでは、キリシタンから逃れられんと覚悟しなければならんやろな」
「まあ、そうや、音。なんぼワーシップに出とうないと思うても、何やみんなに悪いし……」
久吉が答えた。
「日本に帰って、黙っていれば、わからんことやしな。第一、お上《かみ》やって、船の中にまでパーソンがいて、お勤めしてるなんぞとは、思いもせんやろしな」
岩吉は音吉たち二人の話を聞いていたが、
「しかし何や、さすが本職や。イーグル号の船長《キヤプテン》の話よりわかりやすかったわな」
岩吉は今聞いた説教を思いながら言った。牧師は言ったのだ。
「昔、ある女がいました。その女は男の心をそそるような、顔と体を持っていました。この女が姦淫《かんいん》の場をみつけられたのです。イスラエルの掟《おきて》では、姦淫をした者は、石で打ち殺されなければなりませんでした」
そう言って、牧師は人々の顔を見まわした。岩吉の胸にふっと絹の顔が浮かんだ。そして、あの銀次の眉《まゆ》の秀《ひい》でた顔を思った。
「人々は、この女をその家から引きずり出して、ジーザス《イエス》のもとにつれてきました。そしてジーザスに言いました。
『この女を石で殺そうか。あんたはどう思う。何しろモーセは、こういう女は石で打ち殺せと言っているのだがね』」
ここで再び牧師は言葉を切った。岩吉はその相手の男はどうなったのかと思った。なぜ女だけが引きずり出されたのか。不意に怒りを感じた。日本では「姦夫姦婦は重ねて四つに切る」という仕置きがある。不公平だと思った。
(男は逃げやがったな)
岩吉は銀次の逃げていくうしろ姿を見たような、いやな心地《ここち》がした。
と、牧師は言葉をついで、
「皆さん、この男共は、ジーザスを試そうとして、こんな難題を吹きかけたのです。なぜなら、石で打ち殺せというのは、モーセが定めたユダヤの掟《おきて》です。これはユダヤ人として絶対守らなければなりません。何しろ、ユダヤ人にとっては、掟を守ることが何よりも大事なのです。たとえば、安息日には女が食事の仕度《したく》をすることも、許されません。歩く距離も何歩までと決められているほどのきびしさです。だから、安息日にユダヤのある町が攻められた時、戦わずに亡びた例さえあるのです。ユダヤ人にとっては、戦うことよりも、神の掟を守ることが大切でした。そんな国のことですから、ジーザスの時代もまた、掟を守ることが至上命令でした。皆さんなら、ここで何と答えますか、女をゆるすと言いますか、殺すと言いますか」
岩吉は心の中で叫んだ。
(野郎を殺すべきだ!)
牧師の話がつづいた。
「男共は息をのんでジーザスの答えを待っていました。もし、掟のとおり、女を石で打ち殺せと答えるなら『ではジーザスよ、あんたが日頃《ひごろ》人の罪を許せと言ってることはどうなるんだ。あんたは言ったろう。人の罪は七度ではなく、その七十倍、つまり四百九十回許さねばならんと言った。要するに無限に許せと言うことだろう。そのあんたの教えはどうなるのだ』と、難癖をつけるつもりでした。もしイエスが、女を許しなさいと言えば、『みんな聞いたか。このジーザスという奴《やつ》は、神聖な掟をふみにじる男だ』と、みんなを煽動《せんどう》しようと思っていたのです。どう答えても、ジーザスを訴えることができると、ちゃんと計算して、男共はやってきたのです。あなたたちがイエスなら、どうしますか」
ゆっくりとした語調は、明らかに岩吉たち三人を心に置いてのようであった。この牧師もまた、他の国々にキリストの愛を伝えることを大いなる喜びとしている一人であった。商船や客船には、こうした牧師たちが必ずといってもよいほど、私費で乗りこんでいた。長い航海の中で、争いもあれば、病人が出ることもある。暴風に遭《あ》うこともあれば、海賊船に襲われることもある。そうした時に人々にとって大きな力となるのは、牧師の祈りであり、励まし慰めの言葉であった。
この牧師フェニホフは、資産家の長男に生まれたが、その事業を受けつぐより、神の言葉を宣べ伝えて一生を送ることに使命を感じた人物であった。
フェニホフ牧師の視線が、岩吉に向けられた。岩吉はその視線をしっかりと受けとめた。
(女をゆるしても、殺しても、この男共はジーザスをゆるさない。じゃ、いったいどうしたらよいのか……)
岩吉がそう思った時、牧師は言った。
「困りましたねえ。男共はジーザスをわなに陥れようとして、やってきたのです。しかしジーザスは、彼らの心を見透《みすか》していました。ジーザスは不思議な方です。相手がどんな気持ちで自分にものを言っているのか、すべて見ぬいていた人でした。それは聖書を読めばわかります。この時、ジーザスは、何も答えずに、身を屈《かが》めて、地面に指で何かを書いていたのです。絵を描いていたか、字を書いていたか、それはわかりません。その時、ジーザスがどんな気持ちであったか、それも私たち人間にはわかりません。男共は、ジーザスが答えられないと甘くみたのでしょう。ますます居丈高《いたけだか》になって返答を迫りました。ジーザスは静かに身を起こして、彼らに言われました。これがかの有名な言葉です。『汝《なんじ》らのうち罪なき者|先《ま》ず石を投げ打て』」
聴衆は牧師の言葉に大きくうなずいた。「『汝らのうち罪なき者先ず石を投げ打て』ジーザスはこう言うと、また身を屈めて、地面にものを書きつづけられたのです。もしこの場にあなたがいたとしたら、どうしますか。この女に石を投げ打ちますか。罪のない者が石を投げなさいと言ったのです。男共はこそこそと一人去り、二人去り、みんな行ってしまいました。罪のない者は一人もありません」
牧師の声が不意にきびしくなった。
「人間である限り、すべて罪人です。罪のない者はありません。この私はむろんのこと、金持ちも貧しい者も、貴族も平民も、皇帝も、すべて罪人です。どこの国の民もどこの国の王も、人間である限りすべて罪人です。誰も石を投げ打つ資格はありません。ジーザスはこの男共にだけこう言われたのではありません。世界のすべての人に言われたのです。即《すなわ》ち、あなたがた一人一人にも言われたのです」
牧師の語調に権威があった。
今、その説教を思い返しながら、岩吉の胸にまたしても銀次の顔が浮かんだ。
(大変な教えやな。信じないほうが楽かも知れせん)
そうは思ったが、地面に何かを書きつづけていたというイエスの姿が、岩吉には驚嘆《きようたん》すべき存在に思われた。
その牧師の話を思い返しながら、岩吉は再び言った。
「さすが本職。ええ話やった」
「うん、わかりやすい、ええ話やったな」
音吉もしみじみと答えて言った。