「舵取《かじと》りさんも、音もわかりやすいというけどな、俺にはようわからせんかった」
「どうしてや。パーソンはわしらにわかるように、やさしい言葉をつこうてくれたやないか。な、舵取りさん」
「音、久はな、あの若い女や、船長《キヤプテン》のご新造の顔ばかり、ちらりちらり見ていたんや。わかる筈《はず》あらせん」
「何や舵取りさん、知っていたんか」
久吉が頭を掻《か》いた。
「ま、きょろきょろしてたのは、久吉一人ではないでな。仕方あらせんがな」
岩吉の言葉のとおりだった。上甲板《じようかんぱん》の船尾に向かって、乗客と船員たちは礼拝を守った。が、中にはいびきをかいて寝ていた者もあるし、船縁に寄りかかって遠くに見えるポルトガルの陸地を眺《なが》めていた者もある。イーグル号のように、整然と並んで話を聞くのではない。居眠りをしても、よそ見をしても、咎《とが》める者はなかった。
「けど、あの若い女、何や日本人に似ているのとちがうか。色は白いけど、髪は黒いで。じっと見つめていたら、すぐ赤くなったで」
「そりゃあ、赤くもなるわ。いつまでもじっと傍《そば》で見つめていられてはな」
岩吉が笑った。久吉は気にもとめずに、
「舵取《かじと》りさん。あの女、ご新造やろか、娘やろか」
「ご新造やろ。たとえ娘やったとしても、久には関係ないことや」
二人の話を聞いていた音吉が、真顔で言った。
「な、舵取りさん。パーソンは確か、金持ちも貧乏人も、貴族も平民も、どこの国の王さまも、みんな罪があると言うたわな。あれはわしの聞きちがいやろか」
「いや、ようはわからんが、わしにもそう聞こえた」
「何やって、帝《みかど》も貧しいものも、罪があるってえ? 何のことや、それ」
「パーソンがそう言うたんや、久吉」
「じゃ、俺にも罪があるというんか。俺、人のものを盗んだことも、人を殺《あや》めたこともあらせんで」
久吉は不満げな顔をした。その久吉に音吉が、
「そりゃあ当たり前や。パーソンの言う罪は、そんなことではないやろ。そら、イーグル号の艦長も言うてたやないか。自分のことばかり考えているのが罪やって」
「自分のことを考えん奴《やつ》が、どこにいるかいな」
「それそれ、それが罪やそうや」
「なあるほどな。自分のことばかり考えるのは、手前勝手ということだでな。手前勝手でない者は先《ま》ずあらせん。金持ちも貧乏人もないわな」
「それはそうと……なあ舵取《かじと》りさん」
音吉は、日がかげって少し色の変わってきた海を眺《なが》めながら、
「この船には、貴族も金持ちもいるのに、あのパーソン、ようはっきり言うたわな」
「うん。わしもそう思うた。見てたら、貴族が大きくうなずいて聞いておったな」
「へえー。大きくうなずいて?」
久吉は自分でも大きくうなずいて見せながら、
「だけどなあ、舵取りさん。もしここにエゲレスの帝《みかど》がいたら、帝はえらい怒ったやろな」
「さあ、どうやろな。わしにもわからんな」
「あのな、久吉。やっぱり帝も怒らんのとちがうか。キリシタンの教えって、ちょっと変わっとるでな。フォート・バンクーバーにいた時からの聞きかじりやけど、だれも人間はみな同じやと言うわ。キリシタンの教えって、元々そうと決まってるんやないか。だから帝やって怒らんのやろ。怒るんやったらとうにキリシタンは禁制や。禁制にならんとこをみると、怒らんのやろ」
音吉が考え深げに言った。不意に掌帆長《しようはんちよう》の声が甲板《かんぱん》にひびき渡った。一部縮帆を命ずる声である。
何人かの船員が、ばらばらと動索に近づいた。風の向きが少し変わったのだ。見なれた光景であった。上甲板には、先程《さきほど》まで説教を聞いていた船客たちが、すわったり、立ったり、歩いたり、思い思いの時を過ごしていた。その中に、船長夫人のルイスの姿と共に、東インド会社の支店に転勤して行く社員の妻エミー・ハワードのつつましい姿もあった。
「じゃ、音。つまり日本のお上《かみ》は怒るいうことやな」
「まあ、そうやな。日本のお上はな、することがまちごうとるなどと言われたら、たちまち腹を立てて、牢《ろう》にぶちこむんや」
「第一、わしらは、お上にまちがいはないと思うとるしな」
「そうや。よその国のお上はどうか知れせんけど、日本のお上はまちがいあらせんと思うてきたでな」
「そやそや。第一わしは、金持ちとわしら貧乏人は同じ人間とは思えん。お上とわしら船子《ふなこ》とは、同じ人間やなどと思えん」
「思えん、思えん。第一、住んでる家からちがう。着とる物からちがう」
「歩き方もちがう。言葉もちがう。食う物からしてちがう。お上や金持ちと、わしらとは一緒にはならんわな」
久吉と音吉はうなずき合った。
「やっぱりジーザス・クライストは、日本の事情がわからんのや。こっちの神さんは、日本のお上がどんなに恐ろしいのか、わからんのや」
「ほんとや。何せキリシタンを信じたら一族|縛《しば》り首だでな」
「だから、音、わしのように説教なぞ聞かんで、女子《おなご》の顔をきょろきょろ見てるほうが、安心やで」
「女子はともかくな、久吉の言うとおりや。わしも今度からは、説教を聞く時、心の中で般若経《はんにやきよう》でもとなえていることにしよう」
「それがええで。みんなが一人残らずワーシップに出るのに、わしらだけ知らんふりして、下で寝ころんでいるわけにもいかんでな」
「そうや。何せ、人さまに金を出してもろうて、旅をしてる身だでな。手前勝手なこともできせんわ。な、舵取《かじと》りさん」
黙って二人の話を聞いていた岩吉が、
「勝手にするがええ。けどな、音、久。わしはな、パーソンのさっき言うたことはほんとやと思うで。金持ちやって貧乏人やって、それはうわべがちがうだけや。裸にしてみい。みんな同じ人間や」
「そ、そんな、舵取りさん……」
「金持ちの家に生まれたのと、貧乏人に生まれたのとのちがいや。侍《さむらい》の家に生まれたのと、船子《ふなこ》の家に生まれたのとのちがいや。只それだけや」
「そんな! か、舵取りさん、舵取りさんはキリシタンになったのか」
「ならん!」
きっぱりと岩吉は答えて、
「けどなあ、人間にちがいがないということだけは大賛成や。エゲレス人だって、日本人だって、考えてみりゃあ人間であることには変わりはない。全くちがう人間のような気がしたが、それはまちがいや」
再び牛の啼《な》く声がした。と、呼応するように羊が啼き、豚が啼いた。
「そうかなあ。志摩守《しまのかみ》と、わしとおなじ人間かなあ」
久吉が首をひねった。千賀《せんが》志摩守は小野浦一帯の船方を統御《とうぎよ》し、師崎の領主でもあった。
「ちょっとちがうようやな」
音吉が言った。
「そうやろ、わしもそう思うわ」
「けどな。久、音。罪があるということでは、みんな同じやそうや」
「まあ、意地の悪いお役人や金持ちは確かに多いけどなあ。けど、こんなことお上《かみ》に聞こえたら、大変だでなあ。やっぱりキリシタンは桑原《くわばら》や」
久吉が首をすくめた。かげっていた日が、また雲間から出て、海の色が明るくなった。マストの上で何か叫ぶ船員の声が、のどかにひびいた。
「どうしてや。パーソンはわしらにわかるように、やさしい言葉をつこうてくれたやないか。な、舵取りさん」
「音、久はな、あの若い女や、船長《キヤプテン》のご新造の顔ばかり、ちらりちらり見ていたんや。わかる筈《はず》あらせん」
「何や舵取りさん、知っていたんか」
久吉が頭を掻《か》いた。
「ま、きょろきょろしてたのは、久吉一人ではないでな。仕方あらせんがな」
岩吉の言葉のとおりだった。上甲板《じようかんぱん》の船尾に向かって、乗客と船員たちは礼拝を守った。が、中にはいびきをかいて寝ていた者もあるし、船縁に寄りかかって遠くに見えるポルトガルの陸地を眺《なが》めていた者もある。イーグル号のように、整然と並んで話を聞くのではない。居眠りをしても、よそ見をしても、咎《とが》める者はなかった。
「けど、あの若い女、何や日本人に似ているのとちがうか。色は白いけど、髪は黒いで。じっと見つめていたら、すぐ赤くなったで」
「そりゃあ、赤くもなるわ。いつまでもじっと傍《そば》で見つめていられてはな」
岩吉が笑った。久吉は気にもとめずに、
「舵取《かじと》りさん。あの女、ご新造やろか、娘やろか」
「ご新造やろ。たとえ娘やったとしても、久には関係ないことや」
二人の話を聞いていた音吉が、真顔で言った。
「な、舵取りさん。パーソンは確か、金持ちも貧乏人も、貴族も平民も、どこの国の王さまも、みんな罪があると言うたわな。あれはわしの聞きちがいやろか」
「いや、ようはわからんが、わしにもそう聞こえた」
「何やって、帝《みかど》も貧しいものも、罪があるってえ? 何のことや、それ」
「パーソンがそう言うたんや、久吉」
「じゃ、俺にも罪があるというんか。俺、人のものを盗んだことも、人を殺《あや》めたこともあらせんで」
久吉は不満げな顔をした。その久吉に音吉が、
「そりゃあ当たり前や。パーソンの言う罪は、そんなことではないやろ。そら、イーグル号の艦長も言うてたやないか。自分のことばかり考えているのが罪やって」
「自分のことを考えん奴《やつ》が、どこにいるかいな」
「それそれ、それが罪やそうや」
「なあるほどな。自分のことばかり考えるのは、手前勝手ということだでな。手前勝手でない者は先《ま》ずあらせん。金持ちも貧乏人もないわな」
「それはそうと……なあ舵取《かじと》りさん」
音吉は、日がかげって少し色の変わってきた海を眺《なが》めながら、
「この船には、貴族も金持ちもいるのに、あのパーソン、ようはっきり言うたわな」
「うん。わしもそう思うた。見てたら、貴族が大きくうなずいて聞いておったな」
「へえー。大きくうなずいて?」
久吉は自分でも大きくうなずいて見せながら、
「だけどなあ、舵取りさん。もしここにエゲレスの帝《みかど》がいたら、帝はえらい怒ったやろな」
「さあ、どうやろな。わしにもわからんな」
「あのな、久吉。やっぱり帝も怒らんのとちがうか。キリシタンの教えって、ちょっと変わっとるでな。フォート・バンクーバーにいた時からの聞きかじりやけど、だれも人間はみな同じやと言うわ。キリシタンの教えって、元々そうと決まってるんやないか。だから帝やって怒らんのやろ。怒るんやったらとうにキリシタンは禁制や。禁制にならんとこをみると、怒らんのやろ」
音吉が考え深げに言った。不意に掌帆長《しようはんちよう》の声が甲板《かんぱん》にひびき渡った。一部縮帆を命ずる声である。
何人かの船員が、ばらばらと動索に近づいた。風の向きが少し変わったのだ。見なれた光景であった。上甲板には、先程《さきほど》まで説教を聞いていた船客たちが、すわったり、立ったり、歩いたり、思い思いの時を過ごしていた。その中に、船長夫人のルイスの姿と共に、東インド会社の支店に転勤して行く社員の妻エミー・ハワードのつつましい姿もあった。
「じゃ、音。つまり日本のお上《かみ》は怒るいうことやな」
「まあ、そうやな。日本のお上はな、することがまちごうとるなどと言われたら、たちまち腹を立てて、牢《ろう》にぶちこむんや」
「第一、わしらは、お上にまちがいはないと思うとるしな」
「そうや。よその国のお上はどうか知れせんけど、日本のお上はまちがいあらせんと思うてきたでな」
「そやそや。第一わしは、金持ちとわしら貧乏人は同じ人間とは思えん。お上とわしら船子《ふなこ》とは、同じ人間やなどと思えん」
「思えん、思えん。第一、住んでる家からちがう。着とる物からちがう」
「歩き方もちがう。言葉もちがう。食う物からしてちがう。お上や金持ちと、わしらとは一緒にはならんわな」
久吉と音吉はうなずき合った。
「やっぱりジーザス・クライストは、日本の事情がわからんのや。こっちの神さんは、日本のお上がどんなに恐ろしいのか、わからんのや」
「ほんとや。何せキリシタンを信じたら一族|縛《しば》り首だでな」
「だから、音、わしのように説教なぞ聞かんで、女子《おなご》の顔をきょろきょろ見てるほうが、安心やで」
「女子はともかくな、久吉の言うとおりや。わしも今度からは、説教を聞く時、心の中で般若経《はんにやきよう》でもとなえていることにしよう」
「それがええで。みんなが一人残らずワーシップに出るのに、わしらだけ知らんふりして、下で寝ころんでいるわけにもいかんでな」
「そうや。何せ、人さまに金を出してもろうて、旅をしてる身だでな。手前勝手なこともできせんわ。な、舵取《かじと》りさん」
黙って二人の話を聞いていた岩吉が、
「勝手にするがええ。けどな、音、久。わしはな、パーソンのさっき言うたことはほんとやと思うで。金持ちやって貧乏人やって、それはうわべがちがうだけや。裸にしてみい。みんな同じ人間や」
「そ、そんな、舵取りさん……」
「金持ちの家に生まれたのと、貧乏人に生まれたのとのちがいや。侍《さむらい》の家に生まれたのと、船子《ふなこ》の家に生まれたのとのちがいや。只それだけや」
「そんな! か、舵取りさん、舵取りさんはキリシタンになったのか」
「ならん!」
きっぱりと岩吉は答えて、
「けどなあ、人間にちがいがないということだけは大賛成や。エゲレス人だって、日本人だって、考えてみりゃあ人間であることには変わりはない。全くちがう人間のような気がしたが、それはまちがいや」
再び牛の啼《な》く声がした。と、呼応するように羊が啼き、豚が啼いた。
「そうかなあ。志摩守《しまのかみ》と、わしとおなじ人間かなあ」
久吉が首をひねった。千賀《せんが》志摩守は小野浦一帯の船方を統御《とうぎよ》し、師崎の領主でもあった。
「ちょっとちがうようやな」
音吉が言った。
「そうやろ、わしもそう思うわ」
「けどな。久、音。罪があるということでは、みんな同じやそうや」
「まあ、意地の悪いお役人や金持ちは確かに多いけどなあ。けど、こんなことお上《かみ》に聞こえたら、大変だでなあ。やっぱりキリシタンは桑原《くわばら》や」
久吉が首をすくめた。かげっていた日が、また雲間から出て、海の色が明るくなった。マストの上で何か叫ぶ船員の声が、のどかにひびいた。