「珍しい船旅やなあ。嵐らしい嵐に、一度も遭《あ》わんでな」
眠りに入るにはまだ早い。一人の船客の弾くバイオリンに耳を傾けながら、音吉は久吉にささやいた。
「ほんとやな。今までの航海のうちで、一番穏やかやな。誰ぞ心掛けのいい人が、この船に乗っとるのとちがうか」
嵐で有名なビスケイ湾の沖合もさほどのことはなかった。むろん、幾度か嵐がなかったわけではないが、腹わたのねじれるような嵐はなかった。ホーン岬の嵐をはじめ、宝順丸での嵐など、幾度か凄《すさ》まじい嵐に遭《あ》ってきた音吉たちにとって、この度《たび》の航海は確かに穏やかと言ってよかった。
「けどな、音。そんなこと言うてると、ケープタウン(喜望峰)が待ってるで、ケープタウンがな」
ケープタウンは、ホーン岬と同様、難所として知られたアフリカ大陸の南端である。
「けど、ホーン岬のようなことは、あらせんやろな」
「わからせんで。今まで穏やかだった分をケープタウンで帳消しにするつもりやないか、神さんは」
ナミーブ砂漠《さばく》の砂嵐が、黒煙のように空に立ち込める光景も見て、船は今ケープタウンに近づきつつあった。ロンドンを出て三か月になろうとしていた。
その夜、音吉は大きな黒雲が船の真上にとどまった夢を見た。それはナミーブ砂漠の上にひろがった黒い砂嵐が眼底に刻まれていたからかも知れない。あるいは、嵐が来ると久吉におどされたためかも知れない。
だが、翌々日、ケープタウンの空は春だというのに秋空のように澄み切っていた。テーブルマウンテンと人々の呼ぶ、テーブルの形をした岩山が、間近に見えた。つづく海岸には、ごつごつとした岩ばかりで、木がほとんどない。穏やかなケープタウンの海は、この世のものとも思えぬほどに美しかった。船員も船客も、声もなく海の色に見とれた。ここにだけ、全く別の海があるようであった。帆は気持ちよく和風《わふう》を受けて、するすると海をすべる。嵐を覚悟していた一同にとって無気味なほどに静かな海であった。
「ここがこんなに穏やかなことは、今まで一度もなかったことです」
船長の言葉に、
「きっと珍しい日本人が乗っているからですな」
と、人々は言った。
「伊勢湾のように静かやな。けど、やたらに広く見えるな」
音吉たちは言った。ケープタウンの海は、なぜか太平洋よりも広々として果ての果てまで見えるような思いがした。
こうして難所のケープタウンを、ゼネラル・パーマー号は事なく通過したのである。
眠りに入るにはまだ早い。一人の船客の弾くバイオリンに耳を傾けながら、音吉は久吉にささやいた。
「ほんとやな。今までの航海のうちで、一番穏やかやな。誰ぞ心掛けのいい人が、この船に乗っとるのとちがうか」
嵐で有名なビスケイ湾の沖合もさほどのことはなかった。むろん、幾度か嵐がなかったわけではないが、腹わたのねじれるような嵐はなかった。ホーン岬の嵐をはじめ、宝順丸での嵐など、幾度か凄《すさ》まじい嵐に遭《あ》ってきた音吉たちにとって、この度《たび》の航海は確かに穏やかと言ってよかった。
「けどな、音。そんなこと言うてると、ケープタウン(喜望峰)が待ってるで、ケープタウンがな」
ケープタウンは、ホーン岬と同様、難所として知られたアフリカ大陸の南端である。
「けど、ホーン岬のようなことは、あらせんやろな」
「わからせんで。今まで穏やかだった分をケープタウンで帳消しにするつもりやないか、神さんは」
ナミーブ砂漠《さばく》の砂嵐が、黒煙のように空に立ち込める光景も見て、船は今ケープタウンに近づきつつあった。ロンドンを出て三か月になろうとしていた。
その夜、音吉は大きな黒雲が船の真上にとどまった夢を見た。それはナミーブ砂漠の上にひろがった黒い砂嵐が眼底に刻まれていたからかも知れない。あるいは、嵐が来ると久吉におどされたためかも知れない。
だが、翌々日、ケープタウンの空は春だというのに秋空のように澄み切っていた。テーブルマウンテンと人々の呼ぶ、テーブルの形をした岩山が、間近に見えた。つづく海岸には、ごつごつとした岩ばかりで、木がほとんどない。穏やかなケープタウンの海は、この世のものとも思えぬほどに美しかった。船員も船客も、声もなく海の色に見とれた。ここにだけ、全く別の海があるようであった。帆は気持ちよく和風《わふう》を受けて、するすると海をすべる。嵐を覚悟していた一同にとって無気味なほどに静かな海であった。
「ここがこんなに穏やかなことは、今まで一度もなかったことです」
船長の言葉に、
「きっと珍しい日本人が乗っているからですな」
と、人々は言った。
「伊勢湾のように静かやな。けど、やたらに広く見えるな」
音吉たちは言った。ケープタウンの海は、なぜか太平洋よりも広々として果ての果てまで見えるような思いがした。
こうして難所のケープタウンを、ゼネラル・パーマー号は事なく通過したのである。
船は既《すで》に北上をつづけていた。そして船は、アフリカ大陸と大陸のようなマダガスカル島の間の、モザンビーク海峡を半月もかかって通りぬけた。印度洋《インドよう》にさしかかると気温は俄《にわか》に高くなった。
船は再び赤道に近づきつつあった。岩吉たちにとって、四度目の赤道通過が待っていた。
その日の午後、行く手に大きな入道雲の峰々《みねみね》が輝いていた。波がぎらぎらと太陽を照り返していた。人々は暑さから逃れようとして、船倉に入ったり、甲板《かんぱん》に出たり、落ち着きなく時を過ごしていた。
と、晴天に雷鳴がとどろいた。
「ありがたい、夕立ちが来るで」
音吉と久吉は顔を見合わせて喜んだ。雷鳴はくり返し空にとどろいた。押し迫って来る入道雲に稲妻の走るのが見えた。
ゼネラル・パーマー号の遥《はる》か前方に、二、三日前から白い帆影が見えていた。同じくマカオに行くのか、シンガポールに行くのか、あるいは印度《インド》に寄るのかと、相変わらず男たちは賭《か》けをしていた。その船はアフリカ東海岸から出たもののようであった。
「海賊船とちがうやろな」
船影さえ見れば、久吉は口癖のように言う。
不意に、マストの上で船員が大声を上げた。
「あれは何だ!?」
船員が再び叫んだ時、暑さに弱っていた船客たちも、はっとして行く手に目を据《す》えた。入道雲の下から黒雲が細長く水上に垂れていた。黒い雲は、ゆっくりと揺れ動きながら近づいてくる。
「何だ、あれは!?」
「珍しい雲じゃないか!」
「ぶらぶらと垂れ下がっている様子は、象の鼻そっくりだ」
人々が立ち騒いだ。雷鳴が一段と激しくなった。
突如《とつじよ》、誰かが叫んだ。
「竜巻《たつまき》だーっ!」
「竜巻ー!?」
人々は青ざめた。
「巻きこまれたら大変だぞうーっ!」
客の一人が叫んだ。
「進路を左に取れーっ!」
言う間もなく竜巻は異様な速さで近づいて来る。
と、前方を行く船にまともに黒雲の立ち向かうのが見えた。
「あーっ!」
誰もが叫んだ時、竜巻は巨大な水柱に変じた。人々は声もなかった。ある者は打ち伏し、ある者は呆然《ぼうぜん》と立ちすくみ、ある者は船縁にしがみつき、ある者はその場に倒れた。
水柱は何百メートルも突っ立ったかと思うと、一転して右手に走った。が、次の瞬間巨大な水柱は消えていた。
雷鳴はなおも激しくとどろいていた。魔のようなひと時であった。
つづいて、マストの上で大きな声がした。
「船が消えたぞーっ!」
誰もが、その言葉をすぐにはのみこむことができなかった。はっとして岩吉が目を前方に凝らした時、前方の帆影は全く姿を消していた。
「船が消えた」
呟《つぶや》く岩吉に、歯の根も合わぬ久吉が言った。
「き、消えた? 消えたって、どうしたんやろ」
「巻き上げられたんや」
「巻き上げられた!?」
「恐ろしい! 恐ろしい!」
久吉が叫ぶ。
「ほんとや。恐ろしいものを見たな。船が空に巻き上げられるなんてな」
岩吉が言い、
「嵐よりも恐ろしいものがあったんやな」
と、音吉も青ざめた。
「船の人、死んだんやな」
語る間も雷鳴はとどろき、いつの間にか頭上を無気味な雲が覆っていた。と思う間もなく、大粒の雨がぱらぱらと降りはじめた。人々は船倉に駈《か》けこんだ。船倉に入っても、人々は色を失っていた。
「ナンマンダ、ナンマンダ」
久吉が念仏をとなえた。
「船玉《ふなだま》さまーっ、お助け下さーい!」
音吉も叫ぶ。船倉に入ってかえって誰もが恐怖をつのらせた。多くの者が十字を切った。
波が高くなったのか、船が揺れはじめた。大きな揺れではなかったが、人々は今にも竜巻《たつまき》に吸いこまれるような恐怖にかられた。叫ぶ者、呻《うめ》く者、泣き出す者、様々だった。
やがて雨が止み、雷鳴が遠ざかった。船客たちは恐る恐る甲板《かんぱん》に顔を出した。既《すで》に青空が大きくのぞき、入道雲は遠く東に移っていた。
「おう! 魚やこれ!」
ぬれた甲板に久吉が屈《かが》みこんだ。その手に一尺ほどの魚がつかまれていた。人心地《ひとごこち》を取り戻《もど》した人々が、珍しげに久吉のまわりに集まった。その時、舷側《げんそく》に落ちていた大きな木片を岩吉も拾った。
(これは!)
明らかに船の一部と思われた。竜巻に吸い上げられた船の一部にちがいない。
(恐ろしいことだ)
再び岩吉は心の中に呟《つぶや》いた。引き裂かれたようなその木片は、甲板に張りつめてあった板でもあろうか。
岩吉はふと、この板切れで何かを作り、一生大事に持っていようと思った。この木片こそは、先程《さきほど》の竜巻にまき上げられて死んだ者たちの形見だと岩吉は思った。
(それにしても、一|里《り》程前を走っていた船がまき上げられ、この船が助かった)
なぜ前の船がまき上げられ、この船が助かったのか。岩吉にはそれがひどく厳粛《げんしゆく》な事実に思われた。木片を見つめる岩吉の目に深い畏《おそ》れの色があった。
船は再び赤道に近づきつつあった。岩吉たちにとって、四度目の赤道通過が待っていた。
その日の午後、行く手に大きな入道雲の峰々《みねみね》が輝いていた。波がぎらぎらと太陽を照り返していた。人々は暑さから逃れようとして、船倉に入ったり、甲板《かんぱん》に出たり、落ち着きなく時を過ごしていた。
と、晴天に雷鳴がとどろいた。
「ありがたい、夕立ちが来るで」
音吉と久吉は顔を見合わせて喜んだ。雷鳴はくり返し空にとどろいた。押し迫って来る入道雲に稲妻の走るのが見えた。
ゼネラル・パーマー号の遥《はる》か前方に、二、三日前から白い帆影が見えていた。同じくマカオに行くのか、シンガポールに行くのか、あるいは印度《インド》に寄るのかと、相変わらず男たちは賭《か》けをしていた。その船はアフリカ東海岸から出たもののようであった。
「海賊船とちがうやろな」
船影さえ見れば、久吉は口癖のように言う。
不意に、マストの上で船員が大声を上げた。
「あれは何だ!?」
船員が再び叫んだ時、暑さに弱っていた船客たちも、はっとして行く手に目を据《す》えた。入道雲の下から黒雲が細長く水上に垂れていた。黒い雲は、ゆっくりと揺れ動きながら近づいてくる。
「何だ、あれは!?」
「珍しい雲じゃないか!」
「ぶらぶらと垂れ下がっている様子は、象の鼻そっくりだ」
人々が立ち騒いだ。雷鳴が一段と激しくなった。
突如《とつじよ》、誰かが叫んだ。
「竜巻《たつまき》だーっ!」
「竜巻ー!?」
人々は青ざめた。
「巻きこまれたら大変だぞうーっ!」
客の一人が叫んだ。
「進路を左に取れーっ!」
言う間もなく竜巻は異様な速さで近づいて来る。
と、前方を行く船にまともに黒雲の立ち向かうのが見えた。
「あーっ!」
誰もが叫んだ時、竜巻は巨大な水柱に変じた。人々は声もなかった。ある者は打ち伏し、ある者は呆然《ぼうぜん》と立ちすくみ、ある者は船縁にしがみつき、ある者はその場に倒れた。
水柱は何百メートルも突っ立ったかと思うと、一転して右手に走った。が、次の瞬間巨大な水柱は消えていた。
雷鳴はなおも激しくとどろいていた。魔のようなひと時であった。
つづいて、マストの上で大きな声がした。
「船が消えたぞーっ!」
誰もが、その言葉をすぐにはのみこむことができなかった。はっとして岩吉が目を前方に凝らした時、前方の帆影は全く姿を消していた。
「船が消えた」
呟《つぶや》く岩吉に、歯の根も合わぬ久吉が言った。
「き、消えた? 消えたって、どうしたんやろ」
「巻き上げられたんや」
「巻き上げられた!?」
「恐ろしい! 恐ろしい!」
久吉が叫ぶ。
「ほんとや。恐ろしいものを見たな。船が空に巻き上げられるなんてな」
岩吉が言い、
「嵐よりも恐ろしいものがあったんやな」
と、音吉も青ざめた。
「船の人、死んだんやな」
語る間も雷鳴はとどろき、いつの間にか頭上を無気味な雲が覆っていた。と思う間もなく、大粒の雨がぱらぱらと降りはじめた。人々は船倉に駈《か》けこんだ。船倉に入っても、人々は色を失っていた。
「ナンマンダ、ナンマンダ」
久吉が念仏をとなえた。
「船玉《ふなだま》さまーっ、お助け下さーい!」
音吉も叫ぶ。船倉に入ってかえって誰もが恐怖をつのらせた。多くの者が十字を切った。
波が高くなったのか、船が揺れはじめた。大きな揺れではなかったが、人々は今にも竜巻《たつまき》に吸いこまれるような恐怖にかられた。叫ぶ者、呻《うめ》く者、泣き出す者、様々だった。
やがて雨が止み、雷鳴が遠ざかった。船客たちは恐る恐る甲板《かんぱん》に顔を出した。既《すで》に青空が大きくのぞき、入道雲は遠く東に移っていた。
「おう! 魚やこれ!」
ぬれた甲板に久吉が屈《かが》みこんだ。その手に一尺ほどの魚がつかまれていた。人心地《ひとごこち》を取り戻《もど》した人々が、珍しげに久吉のまわりに集まった。その時、舷側《げんそく》に落ちていた大きな木片を岩吉も拾った。
(これは!)
明らかに船の一部と思われた。竜巻に吸い上げられた船の一部にちがいない。
(恐ろしいことだ)
再び岩吉は心の中に呟《つぶや》いた。引き裂かれたようなその木片は、甲板に張りつめてあった板でもあろうか。
岩吉はふと、この板切れで何かを作り、一生大事に持っていようと思った。この木片こそは、先程《さきほど》の竜巻にまき上げられて死んだ者たちの形見だと岩吉は思った。
(それにしても、一|里《り》程前を走っていた船がまき上げられ、この船が助かった)
なぜ前の船がまき上げられ、この船が助かったのか。岩吉にはそれがひどく厳粛《げんしゆく》な事実に思われた。木片を見つめる岩吉の目に深い畏《おそ》れの色があった。