一
「早いもんやな、マカオに来てひと月過ぎたわ」
久吉が雑巾《ぞうきん》を絞りながら、しみじみと言った。今朝《けさ》もまた快晴だ。毎朝、食事前に、三人は家の中を隅《すみ》から隅まできれいに掃除《そうじ》する。窓も三日目|毎《ごと》に磨く。「日本人のきれい好きを示してやらんとな」と言い、三人は日々清潔|整頓《せいとん》に励む。「只《ただ》で住まわせてもろうているんやからな」と音吉も口癖に言うのだ。今も三人は、板の間を懸命に拭いていた。それでもイーグル号の甲板《かんばん》掃除よりは楽だ。家は船のようには揺れない。気合棒《きあいぼう》をふりまわす男もいない。
「ほんとにな。一か月あっという間に過ぎたわな。まだまだ日本には帰れせんのかな」
音吉は両手で力一杯に雑巾を押しながら呟く。音吉の掃除の仕方は、琴の父樋口源六に幾度もほめられたものだ。
「帰れる時には帰れる」
柱を拭いていた岩吉が、たしなめるように言った。
「帰れる時は帰れるか。舵取《かじと》りさんの言うとおりや、音」
「したら、帰れん時は帰れんということやな」
「ま、そうや。けど、帰れんことはないやろ。目と鼻の先だでな、日本は」
「そうやな、帰れるわな」
音吉は自分に言い聞かすように言って腰を上げた。
「故里《くに》を出て、四度目の正月や。わしが十九、音が十八か。嫁さんもらいたい齢《とし》になったわな、音。舵取りさんは、三十二やな、舵取りさんの坊も大きゅうなったろな」
岩吉は答えない。
「けど、こっちの正月は驚いたな。いきなり、バリバリバリ、バン! と、凄《すご》い音を立ててな」
久吉はすぐ近所で、爆竹《ばくちく》が鳴ったことを思い出して言った。とその時、玄関のほうで声がした。
「おはようございます」
日本語であった。三人は思わず顔を合わせた。
「日本語や! 舵取りさん!」
音吉が驚く間もなく、ギュツラフが部屋に入ってきた。三人は呆《あ》っ気《け》に取られた。ギュツラフが日本語で話すのを三人は聞いたことがなかった。驚いて突っ立っている三人に、ギュツラフは言った。
「きょうから聖書をまなびます。うれしいことです」
たどたどしい言葉ではあったが、それは正《まさ》しく日本語であった。自分たち以外の者の語る日本語を、三人は国を出て初めて聞いた。答える術《すべ》も忘れて、三人はギュツラフの顔をまじまじと見た。目も髪も黒いギュツラフが、一瞬日本人に思われた程《ほど》だ。
「あなたがた、おどろきます。わたしの日本語、じょうずでありません」
ギュツラフは微笑した。
「いいえ、とても上手です。おどろきました」
岩吉が英語で答えた。
ギュツラフは、メドハーストの著した英和、和英辞典によって、既《すで》に日本語を学んでいた。一八三二年、ギュツラフは琉球《りゆうきゆう》で、日本漁船の乗組員たちと、僅《わず》かではあったが、日本語で会話を交わした経験もあった。
「じょうずですか。もうすこしはやく、はなしたかったでした」
ギュツラフは言い、あとは英語で、
「今日から日本語の勉強、聖書の勉強をしましょう。いいですね」
と、念を押すように言うと、驚く三人を残して、ギュツラフはすぐに部屋を出て行った。
「ああ! 驚いた」
久吉は持っていた雑巾《ぞうきん》を床に投げつけた。
「ほんとや。ミスター・ギュツラフが、あんなに日本語がうまいとは知らんかった。人が悪いでえ、な、舵取《かじと》りさん。わしらの言うた日本語、みんなわかっていたんやないやろか」
「かも知れんな」
岩吉は再び柱を拭きながら苦笑した。久吉は頭を掻《か》きながら、
「いやはや、参ったで、音。昨日《きのう》だって、ミスター・ギュツラフの前でわし言うたやろ。嫁にするんなら、キャサリンとイザベラと、どっちがええって」
「ああ、言うた、言うた。そして久は、できればキャサリンもイザベラも欲しいと言うたわな。キャサリンは愛嬌《あいきよう》がよく、イザベラはよく働くってな」
「どうも、変やと思うことあったわな。ミスター・ギュツラフは人が悪いな。安心してもう女子《おなご》の話もできせんわ」
岩吉がふり返って、
「久、心配するな。ミスター・ギュツラフの言葉はゆっくりや。お前のその早口はようわからせん。それにな、日本語覚えているというても、江戸の言葉と、わしらの言葉と、九州の言葉と、それぞれちがうでな」
「それはそうやな。けど、少しはわかるでえ、舵取りさん」
「まあ、わかったかていいやろ」
「困るわあ。わしは聞かれて悪いことばっかりしゃべる質《たち》だでな。わしの言うたこと、みんなキャサリンやイザベラに筒《つつ》ぬけやないか。恥ずかしいなあ」
「久吉、それは久の願ったとおりやないか。お前、キャサリンもイザベラも好きやってこと、知られたほう、うれしいんやないか」
「おや、音、お前十八になったら、急に人が悪うなったな。ミスター・ギュツラフの人の悪いのが、うつったかな」
三人は笑った。笑いながらも今日から聖書の勉強を始めると言ったギュツラフの言葉が、三人の心にかかっていた。笑い終わると、案《あん》の定《じよう》音吉が言った。
「ほんとにバイブルの勉強始めるんやな」
「すっかり忘れていると、安心していたのにな」
年末はクリスマスと公務で、ギュツラフの体は空《あ》かなかった。年が明けると、ギュツラフの広東《カントン》滞在が長かった。だから聖書和訳の話は、単なる思いつきに過ぎなかったかと、三人は安心していたのだった。
「あれだけ話せるんなら、自分一人でやればいいのにな。なあ、久吉」
「ほんとや、音。わしらキリシタンにはさわりたくはないわな。さわらぬ神に祟《たた》りなしだでな」
床を拭く手にも、力がこもらない。雀《すずめ》が庭先で、しきりに囀《さえず》っていた。
久吉が雑巾《ぞうきん》を絞りながら、しみじみと言った。今朝《けさ》もまた快晴だ。毎朝、食事前に、三人は家の中を隅《すみ》から隅まできれいに掃除《そうじ》する。窓も三日目|毎《ごと》に磨く。「日本人のきれい好きを示してやらんとな」と言い、三人は日々清潔|整頓《せいとん》に励む。「只《ただ》で住まわせてもろうているんやからな」と音吉も口癖に言うのだ。今も三人は、板の間を懸命に拭いていた。それでもイーグル号の甲板《かんばん》掃除よりは楽だ。家は船のようには揺れない。気合棒《きあいぼう》をふりまわす男もいない。
「ほんとにな。一か月あっという間に過ぎたわな。まだまだ日本には帰れせんのかな」
音吉は両手で力一杯に雑巾を押しながら呟く。音吉の掃除の仕方は、琴の父樋口源六に幾度もほめられたものだ。
「帰れる時には帰れる」
柱を拭いていた岩吉が、たしなめるように言った。
「帰れる時は帰れるか。舵取《かじと》りさんの言うとおりや、音」
「したら、帰れん時は帰れんということやな」
「ま、そうや。けど、帰れんことはないやろ。目と鼻の先だでな、日本は」
「そうやな、帰れるわな」
音吉は自分に言い聞かすように言って腰を上げた。
「故里《くに》を出て、四度目の正月や。わしが十九、音が十八か。嫁さんもらいたい齢《とし》になったわな、音。舵取りさんは、三十二やな、舵取りさんの坊も大きゅうなったろな」
岩吉は答えない。
「けど、こっちの正月は驚いたな。いきなり、バリバリバリ、バン! と、凄《すご》い音を立ててな」
久吉はすぐ近所で、爆竹《ばくちく》が鳴ったことを思い出して言った。とその時、玄関のほうで声がした。
「おはようございます」
日本語であった。三人は思わず顔を合わせた。
「日本語や! 舵取りさん!」
音吉が驚く間もなく、ギュツラフが部屋に入ってきた。三人は呆《あ》っ気《け》に取られた。ギュツラフが日本語で話すのを三人は聞いたことがなかった。驚いて突っ立っている三人に、ギュツラフは言った。
「きょうから聖書をまなびます。うれしいことです」
たどたどしい言葉ではあったが、それは正《まさ》しく日本語であった。自分たち以外の者の語る日本語を、三人は国を出て初めて聞いた。答える術《すべ》も忘れて、三人はギュツラフの顔をまじまじと見た。目も髪も黒いギュツラフが、一瞬日本人に思われた程《ほど》だ。
「あなたがた、おどろきます。わたしの日本語、じょうずでありません」
ギュツラフは微笑した。
「いいえ、とても上手です。おどろきました」
岩吉が英語で答えた。
ギュツラフは、メドハーストの著した英和、和英辞典によって、既《すで》に日本語を学んでいた。一八三二年、ギュツラフは琉球《りゆうきゆう》で、日本漁船の乗組員たちと、僅《わず》かではあったが、日本語で会話を交わした経験もあった。
「じょうずですか。もうすこしはやく、はなしたかったでした」
ギュツラフは言い、あとは英語で、
「今日から日本語の勉強、聖書の勉強をしましょう。いいですね」
と、念を押すように言うと、驚く三人を残して、ギュツラフはすぐに部屋を出て行った。
「ああ! 驚いた」
久吉は持っていた雑巾《ぞうきん》を床に投げつけた。
「ほんとや。ミスター・ギュツラフが、あんなに日本語がうまいとは知らんかった。人が悪いでえ、な、舵取《かじと》りさん。わしらの言うた日本語、みんなわかっていたんやないやろか」
「かも知れんな」
岩吉は再び柱を拭きながら苦笑した。久吉は頭を掻《か》きながら、
「いやはや、参ったで、音。昨日《きのう》だって、ミスター・ギュツラフの前でわし言うたやろ。嫁にするんなら、キャサリンとイザベラと、どっちがええって」
「ああ、言うた、言うた。そして久は、できればキャサリンもイザベラも欲しいと言うたわな。キャサリンは愛嬌《あいきよう》がよく、イザベラはよく働くってな」
「どうも、変やと思うことあったわな。ミスター・ギュツラフは人が悪いな。安心してもう女子《おなご》の話もできせんわ」
岩吉がふり返って、
「久、心配するな。ミスター・ギュツラフの言葉はゆっくりや。お前のその早口はようわからせん。それにな、日本語覚えているというても、江戸の言葉と、わしらの言葉と、九州の言葉と、それぞれちがうでな」
「それはそうやな。けど、少しはわかるでえ、舵取りさん」
「まあ、わかったかていいやろ」
「困るわあ。わしは聞かれて悪いことばっかりしゃべる質《たち》だでな。わしの言うたこと、みんなキャサリンやイザベラに筒《つつ》ぬけやないか。恥ずかしいなあ」
「久吉、それは久の願ったとおりやないか。お前、キャサリンもイザベラも好きやってこと、知られたほう、うれしいんやないか」
「おや、音、お前十八になったら、急に人が悪うなったな。ミスター・ギュツラフの人の悪いのが、うつったかな」
三人は笑った。笑いながらも今日から聖書の勉強を始めると言ったギュツラフの言葉が、三人の心にかかっていた。笑い終わると、案《あん》の定《じよう》音吉が言った。
「ほんとにバイブルの勉強始めるんやな」
「すっかり忘れていると、安心していたのにな」
年末はクリスマスと公務で、ギュツラフの体は空《あ》かなかった。年が明けると、ギュツラフの広東《カントン》滞在が長かった。だから聖書和訳の話は、単なる思いつきに過ぎなかったかと、三人は安心していたのだった。
「あれだけ話せるんなら、自分一人でやればいいのにな。なあ、久吉」
「ほんとや、音。わしらキリシタンにはさわりたくはないわな。さわらぬ神に祟《たた》りなしだでな」
床を拭く手にも、力がこもらない。雀《すずめ》が庭先で、しきりに囀《さえず》っていた。