「あれか、これか? そりゃ無理やなあ、舵取《かじと》りさん」
久吉は足もとの草を、再びむしった。音吉も首をかしげて、
「……ま、むずかしいわな。何百万もの神仏のうちから、一つだけ選んで、あれかこれかと決めるのはな」
「むずかしくてもな、信心というものは、只《ただ》一つのものを信ずることや。それが本当の信心や。ミスター・ギュツラフのいうとおりや」
岩吉の声が深い。久吉が膝《ひざ》小僧を抱きながら、
「したらな、舵取りさん。ほんとの神はどれなんや。信じたらいい神はどの神なんや」
「そうやなあ……。それは簡単にはわからせんで」
「わからせんでは何を信じていいか、わからせん。わしは、うちのすぐ隣が八幡様の社やったで、八幡様にしようか。な、音」
「一番近い社が、ほんとの神さまとは限らんで、久吉」
「じゃ、八幡様は嘘《うそ》の神さま言うのか」
「いや、嘘かほんとかそれはわからせん。な、舵取《かじと》りさん」
「そうやな」
岩吉は、今遠くに去って行く三本マストの船影を見つめていた。久吉が、
「とにかくわしは日本人だで、日本の神様を拝むことにするわ。音はどうや」
「わしはわからん。世界に一つしかない神なら、日本や外国やと、えこひいきするわけはないやろしな」
「そうとも限らんで。それぞれほんとの神さまから、お前は日本へ行け、お前はアメリカに行けって、役目をもろうてきた神さまがいるかも知れせんで」
久吉がまじめな顔をした。
「神さまの手下か」
岩吉が笑った。音吉が考え深げに、
「わしはな、久吉、ほんとの神さまいうのは、やっぱり只《ただ》一人だと思うがな。海や山や、星やおてんとさんをつくった神さまで、どこの国の者も、同じように可愛がってくれる神さまで、あったこうて、清らかで……そしてな、あ、そうや、忘れてたわ。ジーザス・クライストは十字架にかかって死んだやろ。けど三日経ったら、甦《よみがえ》ったわな。こんな話、良参寺の和尚《おしよう》さんにも聞いたこと、なかったわな」
「聞く筈《はず》があるか音。あそこはキリシタンではあらせんでな」
「わしはあの、甦った話が好きでな。わしらもジーザス・クライストを信じたら、甦るんやな、舵取《かじと》りさん」
「うん、わしもそう聞いたが、しかし、そこのところは余り信じられせんけどな」
「けどな、舵取《かじと》りさん。信じられんようなことをするのが、神仏やろ」
音吉の言葉に久吉が、
「ちょっと待てよ、音。神と仏は同じやったかな。そこんとこが、わしにはごちゃごちゃや。ま、どっちでもいいことだけどな」
「わしもようはわからん。寺にまつられてるのが仏さんで、社《やしろ》でまつられてるのが神さんと思うてるくらいのところや」
「じゃ、寺にも社にもまつられてない地蔵さんはどうや」
「そうやな、あれは仏臭いわな」
「じゃ、小石積み重ねてつくってある小塚な。あれはなんや」
「なんやろな。仏かな、神かな。な、舵取りさん」
「わしにもわからんな」
「したらな、音。ほら、大きな木にしめ縄《なわ》張ってあるわな。あれは神が宿ってる言うわな。神木言うからな」
「うん、しめ縄張ってあるものは神や」
「したら、仏木言うものはないのかな」
「聞いたことあらせんな……。舵取りさん、仏と神とどうちがうんや」
「うん。仏言うたら、悟《さと》りをひらいた人間を指すと、ミスター・ギュツラフが言うたやろ」
「そうやったかな」
音吉はあいまいな顔をした。
「わしは音ほど、イングリッシュはようわからんけど、日本でも聞いたことはあるわ。お釈迦《しやか》さんは菩提樹《ぼだいじゆ》の下で悟りをひらいたとかな」
岩吉は同じ長屋にいた易者《えきしや》の竹軒《ちくけん》を思い出した。岩吉を可愛がって、字を教えてくれた易者であった。
「悟りって何やろ」
久吉が尋《たず》ねた。
「さてな。要するに悟りって悟りやろな」
「悟りって悟り? わからせんな」
「悟ってみなければ、わからん心地《ここち》や」
「なるほど」
久吉は膝《ひざ》を叩《たた》いて、
「舵取りさん、うまいこと言うわな。わしな、うちが貧乏だったでな、小さい時、あんこの入ったまんじゅういうもの、食うたことあらせんかった。どんなものかわからせんかった。あんな味やろか、こんな味やろか思うてたわ。したらな、隣のおかみさんがまんじゅうくれてな。あれはうまかったでえ。どんなふうにうまかったかと聞かれても、言えせん味やった。悟りもそんなものやな」
「久こそうまいこと言うで」
岩吉がほめると、久吉は図に乗って、
「あ、そうやそうや、な、音。お前、女の味知らんやろ。わしも知らん時はわからんかった。けどな、女抱いたらわかるんやな。悟《さと》りも、悟ってみんことにはわからせんわな」
「また久の冗談がきつうなった」
音吉が苦笑し、岩吉も片頬《かたほお》に笑みを浮かべた。
「悟った者が仏か。悟るってことがわからんで、悟るのはむずかしいことやなあ」
「そりゃむずかしいわな音、久。お釈迦《しやか》さんかて、出家《しゆつけ》して、山ん中に何年もこもったんや。そして悟られたんや」
「へえー、そんなこと、舵取《かじと》りさん、どこで知った?」
「わしら船子《ふなこ》は、信心深いだでな、般若経《はんにやきよう》は誰でも上げることができる。そんな序《ついで》に、親方さんに聞かされたものや」
「なるほどな」
久吉は感心して、幾度もうなずいた。音吉が言った。
「したら、仏さんはこの世を造ったわけではないんやな。神とは全く別ものやな」
「けどな、音。日本では、死んだ人も仏さん言うしな、死んだ人を祀《まつ》って神さんとするしな。やっぱりごじゃごじゃやな。それよりなあ、舵取りさん。ミスター・ギュツラフたちを見てたら、ふしぎでふしぎでしようがあらせんわ」
先程《さきほど》の蝶《ちよう》であろうか、二つもつれて、再び丘の腹を舞って来るのが眼下に見えた。墓詣《はかまい》りも盛りを過ぎたらしく、爆竹《ばくちく》の音も間遠になった。
「何がふしぎや」
「だってな、ミスター・ギュツラフは本を読むか、ものを書くか、人にものを教えるか、誰かを訪ねてお説教に行くか、一日中働いているやろ」
「うん、そうやな。飯《めし》さえ、ものを読みながら食べてることがあるわな。それで?」
「つまり、起きてる間は働いているやろ。ミセス・ギュツラフやってそうや。清《しん》の国の子供たちを集めて、朝から晩まで、その世話やら、学問を教えるやらで、休む暇がないで」
「久吉の言うとおりやな」
「そればかりでないわ、キャサリンもイザベラも、娘盛りやいうのに、やれ飯の仕度《したく》や、洗濯《せんたく》や、掃除《そうじ》や、子供に字い教えるやら、ようあれでふっくり肉がついていると思うほどや」
「で、何がふしぎや」
「働いてばかりだでな、何の楽しみがあるのか思うてな。それがふしぎでならんのや」
言われてみれば確かに久吉の言うとおりであった。ギュツラフ夫妻も、キャサリン、イザベラの姉妹も、体を休める時がないように見えた。着飾って遊び歩くというふうもない。誰に命ぜられるでもなく、それぞれが朝から晩まで懸命に働いている。
「全くやな。酒をのむわけでなし、煙草を吸うわけでなし……」
とうなずく音吉に、
「そうやろ、音。ばくち打つわけでなし、女買いに行くわけでなし。只《ただ》働くだけや。サンデー(日曜日)言うても、スクール(学校)が休みなだけで、その代わりにスクール・チャーチ(教会学校)もあるやろ。やっぱり体休める暇があらせんのやで」
「そうやなあ。何が楽しみなんやろう、舵取《かじと》りさん」
「そうやな、多分、働くのが楽しみなんやないか」
「働くのが楽しみ?」
「そうや。そうでもなければ、あんなににこにこして働けるもんやない。特に女は、おもしろうないと顔に出るでな。それが三人の女がみな、えらい機嫌《きげん》よう働いているわ」
「ジーザス・クライストを信じているからやろか」
「そうだとしたら、キリシタンも大したもんやで」
「そうやなあ、日本のお上《かみ》が言うような、邪教ではあらせんわな。第一、子供たちの扱いを見ていても、親切や。貧乏人の子も、金持ちの子も、隔てなく可愛がるわな」
「いや、貧乏人の子のほうを、よけい大事にしとるかも知れせんで」
「日本では、金持ちの子は大事にされるけど、貧乏人の子は、人間以下の扱いや」
「うん、船主さんや和尚《おしよう》さんは別やったけどな」
と、また爆竹《ばくちく》の音が、うしろでした。三人がふり返るほど大きな音だった。爆竹の煙が墓の上に漂っている。
「話は別やけどな」
元の姿勢に戻《もど》って、久吉が横目でちらりと岩吉を見た。
「何や?」
「あの媽閣廟《マカオびよう》な。ミスター・ギュツラフにつれてってもろうたわな」
媽閣廟は航海安全の守り神として、船乗りの信心を集めている廟であった。この廟の名から、このあたりをマカオと呼ぶようになった。それほどこの地の住民にとっては重要な廟であった。
「うん、その媽閣廟《マカオびよう》がどうした?」
「船から降りるとな、みんなあそこに詣《まい》って、お礼をするんやってな。そしてその足で、女買うてな、病気|染《うつ》って、えらい苦しみをするんやって」
「誰に聞いた?」
「隣のスクールの男先生に聞いたわ。だから絶対に女買いはするなって。……けど、ほんとやろか、舵取りさん」
「病気が染ることか」
「うん」
「ほんとやろ。染るというんなら染るんやろ」
「そうやろか。わしはな、そんなに恐ろしい病気とは思えん。あれは、わしらに女買いさせんようにとの言葉やないやろか」
「久、お前、女を買いたいか」
「聞くだけ野暮や。わしはな、病人でないで。もう大人だで。体がむずむずして、もうかなわんわ。よう舵取りさん、女買いに行くと言わんわなあ。女が欲しうないんか」
「久、俺かて男や。おんなじや」
「なんや、舵取りさんもおんなじか。女欲しいんか。じゃ、頼むから一度、買いにつれてってくれんやろか」
「いやや」
ぶっきら棒に岩吉は答えた。
「いやや? 何でや」
岩吉はちょっと黙ってから、
「わしはな、身に沁《し》みたんや。わしらがケープ・フラッタリーにいた時、ハドソン・ベイのドクターがわしらを買い取ってくれた。高い金を出してな。その恩をわしは忘れられせんのや」
「わしかて、恩は忘れせんで。わしらを救ってくれて、船に乗せてくれて、ここまで送ってくれて。その恩を忘れたら畜生だでな」
「久吉、ロンドンからここに来る途中に、奴隷《スレイブ》海岸という所を眺《なが》めて来たやろ。人間が人間を、馬か牛のように買う話を聞いて来たやろ。あの話を聞いて、久、何も思わんかったか」
「思うた思うた。哀れやと思うたわ。な、音」
音吉もうなずいた。
「けどな、舵取《かじと》りさん、女買うのと、奴隷《どれい》買うのとは、ちょっとちがうんじゃないか。小野浦にだって、女と遊ぶ所はいくらもあるで」
「ある。わしもよう女を買うて遊んだもんや」
岩吉の目がかげった。妻の絹も、その買った女の一人であった。
「なんや、自分でたくさん買うておいて、狡《ずる》いわな」
「久、わしは、口に出してはお前たちに言って聞かせたことはないがな、わしの女房は師崎で体を売っていた女や。わしはその絹の体を、金で買うて、幾度も遊んだ」
岩吉の暗い語調に、久吉は相槌《あいづち》を打ちかねて只《ただ》うなずいた。
「そのうちに、絹はわしから金を取らんようになった。金で買われるのはいやだと言うようになったんや」
久吉と音吉は顔を見合わせた。
「それをお絹のおふくろに知られてな。そのおふくろってえのが、因業《いんごう》な婆だった。ま、日本中どこの地方にも、娘を女郎《じよろう》に叩《たた》き売った親は仰山《ぎようさん》いる。特に百姓の家に生まれた女は、飢饉《ききん》の度《たび》に売られたものだ。何もお絹の親だけが、娘を食い物にしたわけではないかも知れせんがな。しかしな、一つ屋根の下に住んでいて、客を取らせるってえのは、何とも情のねえ話だ」
「…………」
「お絹が俺から金を取らんと知って、このおふくろが打ったり蹴《け》ったりの折檻《せつかん》よ。髪の毛を引きずりまわしてな。酷《むご》い折檻を俺は見た。身を売らねばならん女というものは、哀れなもんや」
岩吉はしかし、その絹の母、かんを殴《なぐ》って、死に至らしめたことは話さなかった。
「しかしな、馬鹿なものや。自分の女房のそんな苦労を知っていても、女を買うことがそれほど悪いことにも思われせんかった。それがな、自分がハドソン・ベイのドクターに買い戻《もど》されて……奴隷《どれい》海岸の哀れな物語を聞いて、男に買われる女の辛《つら》さが、ようやく身に沁《し》みた」
「なるほどなあ、そう言われれば、何や女も買いに行けん気持ちになるわな。な、音」
「うん。第一、わしはもともと、女を買いに行く気など、少しもあらせんかったしな」
「なんで買いに行く気があらせんかった?」
「父っさまがな、女遊びはあかんと、いつも兄さに言うていたでな」
「只《ただ》それだけでか」
「そうや。それだけでや」
「妙な男やな。男いうもんはな、親に何と言われようと、女買いに行きたいもんや。やっぱり音は、正直武右衛門の子やな。どこかが、わしらとはちょっとちがうわ」
「そんなことあらせんけど……」
「でもな、音。今の舵取《かじと》りさんの話は、何や胸に刺さったな。聞かんほうがよかったな」
「そんなことよりな、久吉。さっきのつづきや。ほんとの神をひとりだけ信ずるいうたら、どれにする? そのほうが大変や」
「何や。また信心の話か。わしはな音、正直の話、神さまの話はどうでもいいんや、大きい声では言えせんけど」
「どうでもいい!?」
「何やそんな驚いた顔をして。わしはな、家にさえ無事に帰れれば神罰当たろうと仏罰当たろうと、かまわん気持ちや」
「なるほどなあ。わしかてそんな気持ちになるわ。ああ、日本に帰りたい。一日も早くな」
「そうやろ。何を信ずるかなんて、日本に帰ってからでも遅くはないで」
「それもそうやな。何せキリシタン禁制だでな、日本は。当分は何も信じないほうが安全かも知れせんな」
「安全や安全や。良参寺の檀家《だんか》になっていれば、キリシタンでないという証拠になるだでな。それが一番安全や」
「それはそうや。けどなあ……」
二人の話を聞いているのかいないのか、岩吉は草の上に寝ころんで、目をつむっていた。四月の陽が三人の上にあたたかかった。
久吉は足もとの草を、再びむしった。音吉も首をかしげて、
「……ま、むずかしいわな。何百万もの神仏のうちから、一つだけ選んで、あれかこれかと決めるのはな」
「むずかしくてもな、信心というものは、只《ただ》一つのものを信ずることや。それが本当の信心や。ミスター・ギュツラフのいうとおりや」
岩吉の声が深い。久吉が膝《ひざ》小僧を抱きながら、
「したらな、舵取りさん。ほんとの神はどれなんや。信じたらいい神はどの神なんや」
「そうやなあ……。それは簡単にはわからせんで」
「わからせんでは何を信じていいか、わからせん。わしは、うちのすぐ隣が八幡様の社やったで、八幡様にしようか。な、音」
「一番近い社が、ほんとの神さまとは限らんで、久吉」
「じゃ、八幡様は嘘《うそ》の神さま言うのか」
「いや、嘘かほんとかそれはわからせん。な、舵取《かじと》りさん」
「そうやな」
岩吉は、今遠くに去って行く三本マストの船影を見つめていた。久吉が、
「とにかくわしは日本人だで、日本の神様を拝むことにするわ。音はどうや」
「わしはわからん。世界に一つしかない神なら、日本や外国やと、えこひいきするわけはないやろしな」
「そうとも限らんで。それぞれほんとの神さまから、お前は日本へ行け、お前はアメリカに行けって、役目をもろうてきた神さまがいるかも知れせんで」
久吉がまじめな顔をした。
「神さまの手下か」
岩吉が笑った。音吉が考え深げに、
「わしはな、久吉、ほんとの神さまいうのは、やっぱり只《ただ》一人だと思うがな。海や山や、星やおてんとさんをつくった神さまで、どこの国の者も、同じように可愛がってくれる神さまで、あったこうて、清らかで……そしてな、あ、そうや、忘れてたわ。ジーザス・クライストは十字架にかかって死んだやろ。けど三日経ったら、甦《よみがえ》ったわな。こんな話、良参寺の和尚《おしよう》さんにも聞いたこと、なかったわな」
「聞く筈《はず》があるか音。あそこはキリシタンではあらせんでな」
「わしはあの、甦った話が好きでな。わしらもジーザス・クライストを信じたら、甦るんやな、舵取《かじと》りさん」
「うん、わしもそう聞いたが、しかし、そこのところは余り信じられせんけどな」
「けどな、舵取《かじと》りさん。信じられんようなことをするのが、神仏やろ」
音吉の言葉に久吉が、
「ちょっと待てよ、音。神と仏は同じやったかな。そこんとこが、わしにはごちゃごちゃや。ま、どっちでもいいことだけどな」
「わしもようはわからん。寺にまつられてるのが仏さんで、社《やしろ》でまつられてるのが神さんと思うてるくらいのところや」
「じゃ、寺にも社にもまつられてない地蔵さんはどうや」
「そうやな、あれは仏臭いわな」
「じゃ、小石積み重ねてつくってある小塚な。あれはなんや」
「なんやろな。仏かな、神かな。な、舵取りさん」
「わしにもわからんな」
「したらな、音。ほら、大きな木にしめ縄《なわ》張ってあるわな。あれは神が宿ってる言うわな。神木言うからな」
「うん、しめ縄張ってあるものは神や」
「したら、仏木言うものはないのかな」
「聞いたことあらせんな……。舵取りさん、仏と神とどうちがうんや」
「うん。仏言うたら、悟《さと》りをひらいた人間を指すと、ミスター・ギュツラフが言うたやろ」
「そうやったかな」
音吉はあいまいな顔をした。
「わしは音ほど、イングリッシュはようわからんけど、日本でも聞いたことはあるわ。お釈迦《しやか》さんは菩提樹《ぼだいじゆ》の下で悟りをひらいたとかな」
岩吉は同じ長屋にいた易者《えきしや》の竹軒《ちくけん》を思い出した。岩吉を可愛がって、字を教えてくれた易者であった。
「悟りって何やろ」
久吉が尋《たず》ねた。
「さてな。要するに悟りって悟りやろな」
「悟りって悟り? わからせんな」
「悟ってみなければ、わからん心地《ここち》や」
「なるほど」
久吉は膝《ひざ》を叩《たた》いて、
「舵取りさん、うまいこと言うわな。わしな、うちが貧乏だったでな、小さい時、あんこの入ったまんじゅういうもの、食うたことあらせんかった。どんなものかわからせんかった。あんな味やろか、こんな味やろか思うてたわ。したらな、隣のおかみさんがまんじゅうくれてな。あれはうまかったでえ。どんなふうにうまかったかと聞かれても、言えせん味やった。悟りもそんなものやな」
「久こそうまいこと言うで」
岩吉がほめると、久吉は図に乗って、
「あ、そうやそうや、な、音。お前、女の味知らんやろ。わしも知らん時はわからんかった。けどな、女抱いたらわかるんやな。悟《さと》りも、悟ってみんことにはわからせんわな」
「また久の冗談がきつうなった」
音吉が苦笑し、岩吉も片頬《かたほお》に笑みを浮かべた。
「悟った者が仏か。悟るってことがわからんで、悟るのはむずかしいことやなあ」
「そりゃむずかしいわな音、久。お釈迦《しやか》さんかて、出家《しゆつけ》して、山ん中に何年もこもったんや。そして悟られたんや」
「へえー、そんなこと、舵取《かじと》りさん、どこで知った?」
「わしら船子《ふなこ》は、信心深いだでな、般若経《はんにやきよう》は誰でも上げることができる。そんな序《ついで》に、親方さんに聞かされたものや」
「なるほどな」
久吉は感心して、幾度もうなずいた。音吉が言った。
「したら、仏さんはこの世を造ったわけではないんやな。神とは全く別ものやな」
「けどな、音。日本では、死んだ人も仏さん言うしな、死んだ人を祀《まつ》って神さんとするしな。やっぱりごじゃごじゃやな。それよりなあ、舵取りさん。ミスター・ギュツラフたちを見てたら、ふしぎでふしぎでしようがあらせんわ」
先程《さきほど》の蝶《ちよう》であろうか、二つもつれて、再び丘の腹を舞って来るのが眼下に見えた。墓詣《はかまい》りも盛りを過ぎたらしく、爆竹《ばくちく》の音も間遠になった。
「何がふしぎや」
「だってな、ミスター・ギュツラフは本を読むか、ものを書くか、人にものを教えるか、誰かを訪ねてお説教に行くか、一日中働いているやろ」
「うん、そうやな。飯《めし》さえ、ものを読みながら食べてることがあるわな。それで?」
「つまり、起きてる間は働いているやろ。ミセス・ギュツラフやってそうや。清《しん》の国の子供たちを集めて、朝から晩まで、その世話やら、学問を教えるやらで、休む暇がないで」
「久吉の言うとおりやな」
「そればかりでないわ、キャサリンもイザベラも、娘盛りやいうのに、やれ飯の仕度《したく》や、洗濯《せんたく》や、掃除《そうじ》や、子供に字い教えるやら、ようあれでふっくり肉がついていると思うほどや」
「で、何がふしぎや」
「働いてばかりだでな、何の楽しみがあるのか思うてな。それがふしぎでならんのや」
言われてみれば確かに久吉の言うとおりであった。ギュツラフ夫妻も、キャサリン、イザベラの姉妹も、体を休める時がないように見えた。着飾って遊び歩くというふうもない。誰に命ぜられるでもなく、それぞれが朝から晩まで懸命に働いている。
「全くやな。酒をのむわけでなし、煙草を吸うわけでなし……」
とうなずく音吉に、
「そうやろ、音。ばくち打つわけでなし、女買いに行くわけでなし。只《ただ》働くだけや。サンデー(日曜日)言うても、スクール(学校)が休みなだけで、その代わりにスクール・チャーチ(教会学校)もあるやろ。やっぱり体休める暇があらせんのやで」
「そうやなあ。何が楽しみなんやろう、舵取《かじと》りさん」
「そうやな、多分、働くのが楽しみなんやないか」
「働くのが楽しみ?」
「そうや。そうでもなければ、あんなににこにこして働けるもんやない。特に女は、おもしろうないと顔に出るでな。それが三人の女がみな、えらい機嫌《きげん》よう働いているわ」
「ジーザス・クライストを信じているからやろか」
「そうだとしたら、キリシタンも大したもんやで」
「そうやなあ、日本のお上《かみ》が言うような、邪教ではあらせんわな。第一、子供たちの扱いを見ていても、親切や。貧乏人の子も、金持ちの子も、隔てなく可愛がるわな」
「いや、貧乏人の子のほうを、よけい大事にしとるかも知れせんで」
「日本では、金持ちの子は大事にされるけど、貧乏人の子は、人間以下の扱いや」
「うん、船主さんや和尚《おしよう》さんは別やったけどな」
と、また爆竹《ばくちく》の音が、うしろでした。三人がふり返るほど大きな音だった。爆竹の煙が墓の上に漂っている。
「話は別やけどな」
元の姿勢に戻《もど》って、久吉が横目でちらりと岩吉を見た。
「何や?」
「あの媽閣廟《マカオびよう》な。ミスター・ギュツラフにつれてってもろうたわな」
媽閣廟は航海安全の守り神として、船乗りの信心を集めている廟であった。この廟の名から、このあたりをマカオと呼ぶようになった。それほどこの地の住民にとっては重要な廟であった。
「うん、その媽閣廟《マカオびよう》がどうした?」
「船から降りるとな、みんなあそこに詣《まい》って、お礼をするんやってな。そしてその足で、女買うてな、病気|染《うつ》って、えらい苦しみをするんやって」
「誰に聞いた?」
「隣のスクールの男先生に聞いたわ。だから絶対に女買いはするなって。……けど、ほんとやろか、舵取りさん」
「病気が染ることか」
「うん」
「ほんとやろ。染るというんなら染るんやろ」
「そうやろか。わしはな、そんなに恐ろしい病気とは思えん。あれは、わしらに女買いさせんようにとの言葉やないやろか」
「久、お前、女を買いたいか」
「聞くだけ野暮や。わしはな、病人でないで。もう大人だで。体がむずむずして、もうかなわんわ。よう舵取りさん、女買いに行くと言わんわなあ。女が欲しうないんか」
「久、俺かて男や。おんなじや」
「なんや、舵取りさんもおんなじか。女欲しいんか。じゃ、頼むから一度、買いにつれてってくれんやろか」
「いやや」
ぶっきら棒に岩吉は答えた。
「いやや? 何でや」
岩吉はちょっと黙ってから、
「わしはな、身に沁《し》みたんや。わしらがケープ・フラッタリーにいた時、ハドソン・ベイのドクターがわしらを買い取ってくれた。高い金を出してな。その恩をわしは忘れられせんのや」
「わしかて、恩は忘れせんで。わしらを救ってくれて、船に乗せてくれて、ここまで送ってくれて。その恩を忘れたら畜生だでな」
「久吉、ロンドンからここに来る途中に、奴隷《スレイブ》海岸という所を眺《なが》めて来たやろ。人間が人間を、馬か牛のように買う話を聞いて来たやろ。あの話を聞いて、久、何も思わんかったか」
「思うた思うた。哀れやと思うたわ。な、音」
音吉もうなずいた。
「けどな、舵取《かじと》りさん、女買うのと、奴隷《どれい》買うのとは、ちょっとちがうんじゃないか。小野浦にだって、女と遊ぶ所はいくらもあるで」
「ある。わしもよう女を買うて遊んだもんや」
岩吉の目がかげった。妻の絹も、その買った女の一人であった。
「なんや、自分でたくさん買うておいて、狡《ずる》いわな」
「久、わしは、口に出してはお前たちに言って聞かせたことはないがな、わしの女房は師崎で体を売っていた女や。わしはその絹の体を、金で買うて、幾度も遊んだ」
岩吉の暗い語調に、久吉は相槌《あいづち》を打ちかねて只《ただ》うなずいた。
「そのうちに、絹はわしから金を取らんようになった。金で買われるのはいやだと言うようになったんや」
久吉と音吉は顔を見合わせた。
「それをお絹のおふくろに知られてな。そのおふくろってえのが、因業《いんごう》な婆だった。ま、日本中どこの地方にも、娘を女郎《じよろう》に叩《たた》き売った親は仰山《ぎようさん》いる。特に百姓の家に生まれた女は、飢饉《ききん》の度《たび》に売られたものだ。何もお絹の親だけが、娘を食い物にしたわけではないかも知れせんがな。しかしな、一つ屋根の下に住んでいて、客を取らせるってえのは、何とも情のねえ話だ」
「…………」
「お絹が俺から金を取らんと知って、このおふくろが打ったり蹴《け》ったりの折檻《せつかん》よ。髪の毛を引きずりまわしてな。酷《むご》い折檻を俺は見た。身を売らねばならん女というものは、哀れなもんや」
岩吉はしかし、その絹の母、かんを殴《なぐ》って、死に至らしめたことは話さなかった。
「しかしな、馬鹿なものや。自分の女房のそんな苦労を知っていても、女を買うことがそれほど悪いことにも思われせんかった。それがな、自分がハドソン・ベイのドクターに買い戻《もど》されて……奴隷《どれい》海岸の哀れな物語を聞いて、男に買われる女の辛《つら》さが、ようやく身に沁《し》みた」
「なるほどなあ、そう言われれば、何や女も買いに行けん気持ちになるわな。な、音」
「うん。第一、わしはもともと、女を買いに行く気など、少しもあらせんかったしな」
「なんで買いに行く気があらせんかった?」
「父っさまがな、女遊びはあかんと、いつも兄さに言うていたでな」
「只《ただ》それだけでか」
「そうや。それだけでや」
「妙な男やな。男いうもんはな、親に何と言われようと、女買いに行きたいもんや。やっぱり音は、正直武右衛門の子やな。どこかが、わしらとはちょっとちがうわ」
「そんなことあらせんけど……」
「でもな、音。今の舵取《かじと》りさんの話は、何や胸に刺さったな。聞かんほうがよかったな」
「そんなことよりな、久吉。さっきのつづきや。ほんとの神をひとりだけ信ずるいうたら、どれにする? そのほうが大変や」
「何や。また信心の話か。わしはな音、正直の話、神さまの話はどうでもいいんや、大きい声では言えせんけど」
「どうでもいい!?」
「何やそんな驚いた顔をして。わしはな、家にさえ無事に帰れれば神罰当たろうと仏罰当たろうと、かまわん気持ちや」
「なるほどなあ。わしかてそんな気持ちになるわ。ああ、日本に帰りたい。一日も早くな」
「そうやろ。何を信ずるかなんて、日本に帰ってからでも遅くはないで」
「それもそうやな。何せキリシタン禁制だでな、日本は。当分は何も信じないほうが安全かも知れせんな」
「安全や安全や。良参寺の檀家《だんか》になっていれば、キリシタンでないという証拠になるだでな。それが一番安全や」
「それはそうや。けどなあ……」
二人の話を聞いているのかいないのか、岩吉は草の上に寝ころんで、目をつむっていた。四月の陽が三人の上にあたたかかった。