翌日午後、予定の聖書和訳の仕事も終わった。昼食を終えた三人が、ほっと自分たちの部屋にくつろいでいた。
「うまい豆腐やったな」
久吉は今しがた食ってきた豆腐と野菜のあんかけを思い出して言った。
「そうやな。けど、一度湯豆腐か、冷《ひ》や奴《やつこ》で食うてみたいもんやな」
岩吉も今日は少し口が軽い。明後日には必ず聖書和訳の仕事は終わると、ギュツラフが言ったからだ。
「舵取《かじと》りさん、冷や奴で一杯、といきたいんやろ。しかし、よう酒も飲まんで我慢しとるわなあ」
久吉が、盃《さかずき》を口に運ぶ真似《まね》をしながら言った。
「久、人間ってな、妙なものや。馴《な》れれば馴れるんや。酒がなきゃあないように、あればあったように……」
「ふーん。そう言えば、そうやな。岬にも酒はあらせんかったしな。わしらかて、味噌《みそ》汁がないでも、何年も生きてきたでな。たくあん漬けがなくてもな。わしなど、たくあん漬けと味噌汁がなければ、生きていけんと思うてきたけど、なくてもよう生きてきたわ」
「それがわからんのやな、ふだんは」
音吉も相槌《あいづち》を打つ。
「けど、女は欲しいで。よう夢を見るわ。夢ん中だけで間に合わすわけにもいかんでな。早う帰って嫁さんもらいたいわ」
久吉の言葉に、岩吉も音吉も笑った。が、笑えないものを音吉は感じた。
「帰れるんやろな、舵取りさん」
「その筈《はず》やがな」
岩吉の声が沈んだ。みんな思い思いの姿勢で椅子《いす》に腰をおろしている。三人は、水主《かこ》だった時からの習慣で、朝に夕に部屋をきれいに清めていた。ベッドの上の毛布も、のし餠《もち》のようにきちんと四角に折って置かれてある。
「その筈? そんなもんではあらせんやろ。これからまさか、マタイ伝だの、何だのを日本語に訳すなどとは言わんやろ」
「それは言わんがな。まだはっきりした話を聞かんでな」
「これから帰る話が決まるんやないか」
久吉は楽天的だ。
「ま、そうやろな」
気を取り直したように岩吉がうなずいた。
「そうに決まってるわ。正月になったら帰る話は決まるで。したらな、マカオから日本までは、ひと月もかからせんという話だでな。この足で、日本の土を踏めるんやで。この足でな」
久吉の言葉に、音吉は片足を膝《ひざ》の上に置き、その足を見ながら思った。
(そうや。この足で小野浦の土を踏めるんや。自分の家の土間に立てるんや)
「そうやな」
何かを考えている岩吉の声であった。
「したらな、舵取《かじと》りさん。今度の正月が異国での最後の正月やで。父《と》っさまや母《かか》さまに会えるんやで。そしてな、日本の物ばっかり食えるんやで」
「ほんとやな、久吉。また二人で、あけびを取りに行こ」
「行く行く。けど、考えてみたら、いろんなもの食うてきたな。ケープ・フラッタリーでは、みんなの残り物食わされてな」
「食うた、食うた。が、それよりこわかったのは、初めて四つ足食うた時やったな。罰《ばち》当たらんかと思うてな」
「四つ足食うて罰当たるいうのは、日本だけやな」
「そうや、四つ足食うて身が汚れるのは日本だけや」
「アメリカでも、エゲレスでも、四つ足食うたからって、それで誰も祟《たた》られたふうはあらせんわな」
「所変われば品変わるいうてな、罰当たらんようになるんかな」
「ま、そんなもんかもな。それはそうと、清国の食い物もうまいなあ。作り方覚えといて、日本に帰ったら、父《と》っさま母《かか》さまに食わしてやりたいわ」
久吉と音吉が語っている時だった。階下の玄関にギュツラフの声がした。
「何やろ? また勉強やろか」
久吉が呟《つぶや》いた時、既《すで》に音吉は階段を駈《か》けおりていた。つづいて岩吉も久吉も部屋を出た。階下の客間に、ギュツラフと一人の若い紳士が三人を迎え入れた。紳士はチャールス・ウイリヤム・キングといって、まだ二十五、六歳のアメリカ人であった。キングはオリファント商会の共同出資者で、オリファントと、キングの父が従兄弟《いとこ》であった。二、三日前アメリカからマカオに着いたというキングは、疲れを知らぬよい血色《けつしよく》を見せていた。紹介が終わり、握手を交わすと、椅子《いす》に坐《すわ》ったキングが言った。
「岩吉、久吉、音吉。わたしは、実はあなたがたに会いたかったのですよ」
三人は驚いてキングを見た。
「どうしてですか」
岩吉が尋《たず》ねた。
「それはですね。今年の一月でした。ヨーロッパからアメリカに帰る船の中で、あなたがたの噂《うわさ》を聞いたのです」
「ほう、誰からです」
久吉が身を乗り出した。
「ハドソン・ベイの支配人ジョージ・シンプソンからです」
三人は大きくうなずいた。ハドソン湾会社はインデアンの奴隷《どれい》であった三人を、大金を払って救ってくれた会社である。ドクター・マクラフリンや親切なグリーン夫妻を思い出しながら三人はうなずいたのである。
ジョージ・シンプソンにはロンドンで会っていた。
「ミスター・シンプソンは、あなたがた三人のことを大変心配していました。何とかして日本に帰して上げたいと言っていました。そして、勇気ある人々だとほめていました」
「…………」
「ところが、この間清国に着いた時、わたしはあなたがたがマカオにいると聞いたのです。一度ぜひ会いたいと思ったのです」
「ご親切に、ありがとうございます」
岩吉の言葉と共に、三人は頭を下げた。キングは、今まで見たアメリカ人やイギリス人の中でも、特に清らかな風貌《ふうぼう》をしていた。貿易商というより、神に仕える者のような雰囲気があった。
ギュツラフが言った。
「わたしが、聖書和訳をあなたがたに手伝ってもらった話を知らせたところ、ミスター・キングは大変感激なさってね」
キングは大きくうなずき、
「すばらしいことです。神はあなたがたに、この光栄ある仕事に参加させるために、はるばる太平洋を横断させ、ロンドンを経て、マカオまで導いてくださったのかも知れません。あなたがたはすばらしいことをなさいました」
久吉は大きく手を横にふり、朗《ほが》らかに言った。
「どういたしまして。わたしたちはミスター・ギュツラフに日本語で何というかと聞かれたことを、答えただけです。ミスター・ギュツラフは、本で調べたり、一心に説明したり、大変でしたが……な、音、そうやな舵取《かじと》りさん」
最後の言葉を久吉は日本語で言った。ギュツラフは、
「いやいや、わたしも苦労しましたが、三人も大変苦労しました。わたしが説明する。なるべく的確な言葉を得たいと、詳しく言えば言うほど、彼らにはわからなくなるのです」
「なるほど、それはわかります」
「どうしても言葉が出て来ない時は、わたしがメドハーストの和英英和辞典をひらいたり、モリソン先生の英華辞典をひらいたりして、悪戦苦闘でした。しかし、もう少しで終わります」
ギュツラフは立って行って、書棚《しよだな》の引き出しから草稿《そうこう》を取り出した。受け取ったキングは、
「ほっほう!」
と声を上げた。初めて見る日本の文字であった。
「これが日本の字ですか」
「はい。しかし、日本は文字の多い国で、漢字もひら仮名もあります。岩吉がインデアンの地で書いた手紙には、漢字が多く使われています。だからマクラフリン博士でも、三人が日本人だとは思わず、清国人だと思ったそうです」
ギュツラフはいつもの調子で、熱っぽく語った。
「けれどもわたしは、一般の人たちに読んでもらうために、片仮名を使うことにしたのです。そして、できる限り庶民の語る言葉に訳してもらったのです。音吉、これを読んで、聞かせて上げなさい」
音吉はうやうやしく頭を下げ、読み始めた。
「ヨハンネスタヨリ ヨロコビ
ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル」
澄んだ声である。
「……ヒトノナカニイノチアル、コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。コノヒカリワ クラサニカガヤク、タダシワ セカイノクライ(暗い)、ニンゲンワカンベンシラナンダ」
日本語を知らぬキングが、日本人の音吉が読む日本語の聖書を、うなずき聞いていた。その顔に深い感動の色がみなぎっている。
ギュツラフは、音吉がヨハネ伝の第一章を読み終えると、続いてヨハネの手紙上巻に移らせた。
「……テンノツカサヒカリ、ヒトノナカニクラサワナイ。ワシドモヒトワトモニホヨバイアルトユウ、クラサノナカニ アヨベルナラバ ワシドモウソヲユウ、マコトヲツクラヌ。……」
言葉を超えた何かがキングの胸を打った。キングはこの三人を、命にかけても日本に帰そうと、心の中に決意した。
「うまい豆腐やったな」
久吉は今しがた食ってきた豆腐と野菜のあんかけを思い出して言った。
「そうやな。けど、一度湯豆腐か、冷《ひ》や奴《やつこ》で食うてみたいもんやな」
岩吉も今日は少し口が軽い。明後日には必ず聖書和訳の仕事は終わると、ギュツラフが言ったからだ。
「舵取《かじと》りさん、冷や奴で一杯、といきたいんやろ。しかし、よう酒も飲まんで我慢しとるわなあ」
久吉が、盃《さかずき》を口に運ぶ真似《まね》をしながら言った。
「久、人間ってな、妙なものや。馴《な》れれば馴れるんや。酒がなきゃあないように、あればあったように……」
「ふーん。そう言えば、そうやな。岬にも酒はあらせんかったしな。わしらかて、味噌《みそ》汁がないでも、何年も生きてきたでな。たくあん漬けがなくてもな。わしなど、たくあん漬けと味噌汁がなければ、生きていけんと思うてきたけど、なくてもよう生きてきたわ」
「それがわからんのやな、ふだんは」
音吉も相槌《あいづち》を打つ。
「けど、女は欲しいで。よう夢を見るわ。夢ん中だけで間に合わすわけにもいかんでな。早う帰って嫁さんもらいたいわ」
久吉の言葉に、岩吉も音吉も笑った。が、笑えないものを音吉は感じた。
「帰れるんやろな、舵取りさん」
「その筈《はず》やがな」
岩吉の声が沈んだ。みんな思い思いの姿勢で椅子《いす》に腰をおろしている。三人は、水主《かこ》だった時からの習慣で、朝に夕に部屋をきれいに清めていた。ベッドの上の毛布も、のし餠《もち》のようにきちんと四角に折って置かれてある。
「その筈? そんなもんではあらせんやろ。これからまさか、マタイ伝だの、何だのを日本語に訳すなどとは言わんやろ」
「それは言わんがな。まだはっきりした話を聞かんでな」
「これから帰る話が決まるんやないか」
久吉は楽天的だ。
「ま、そうやろな」
気を取り直したように岩吉がうなずいた。
「そうに決まってるわ。正月になったら帰る話は決まるで。したらな、マカオから日本までは、ひと月もかからせんという話だでな。この足で、日本の土を踏めるんやで。この足でな」
久吉の言葉に、音吉は片足を膝《ひざ》の上に置き、その足を見ながら思った。
(そうや。この足で小野浦の土を踏めるんや。自分の家の土間に立てるんや)
「そうやな」
何かを考えている岩吉の声であった。
「したらな、舵取《かじと》りさん。今度の正月が異国での最後の正月やで。父《と》っさまや母《かか》さまに会えるんやで。そしてな、日本の物ばっかり食えるんやで」
「ほんとやな、久吉。また二人で、あけびを取りに行こ」
「行く行く。けど、考えてみたら、いろんなもの食うてきたな。ケープ・フラッタリーでは、みんなの残り物食わされてな」
「食うた、食うた。が、それよりこわかったのは、初めて四つ足食うた時やったな。罰《ばち》当たらんかと思うてな」
「四つ足食うて罰当たるいうのは、日本だけやな」
「そうや、四つ足食うて身が汚れるのは日本だけや」
「アメリカでも、エゲレスでも、四つ足食うたからって、それで誰も祟《たた》られたふうはあらせんわな」
「所変われば品変わるいうてな、罰当たらんようになるんかな」
「ま、そんなもんかもな。それはそうと、清国の食い物もうまいなあ。作り方覚えといて、日本に帰ったら、父《と》っさま母《かか》さまに食わしてやりたいわ」
久吉と音吉が語っている時だった。階下の玄関にギュツラフの声がした。
「何やろ? また勉強やろか」
久吉が呟《つぶや》いた時、既《すで》に音吉は階段を駈《か》けおりていた。つづいて岩吉も久吉も部屋を出た。階下の客間に、ギュツラフと一人の若い紳士が三人を迎え入れた。紳士はチャールス・ウイリヤム・キングといって、まだ二十五、六歳のアメリカ人であった。キングはオリファント商会の共同出資者で、オリファントと、キングの父が従兄弟《いとこ》であった。二、三日前アメリカからマカオに着いたというキングは、疲れを知らぬよい血色《けつしよく》を見せていた。紹介が終わり、握手を交わすと、椅子《いす》に坐《すわ》ったキングが言った。
「岩吉、久吉、音吉。わたしは、実はあなたがたに会いたかったのですよ」
三人は驚いてキングを見た。
「どうしてですか」
岩吉が尋《たず》ねた。
「それはですね。今年の一月でした。ヨーロッパからアメリカに帰る船の中で、あなたがたの噂《うわさ》を聞いたのです」
「ほう、誰からです」
久吉が身を乗り出した。
「ハドソン・ベイの支配人ジョージ・シンプソンからです」
三人は大きくうなずいた。ハドソン湾会社はインデアンの奴隷《どれい》であった三人を、大金を払って救ってくれた会社である。ドクター・マクラフリンや親切なグリーン夫妻を思い出しながら三人はうなずいたのである。
ジョージ・シンプソンにはロンドンで会っていた。
「ミスター・シンプソンは、あなたがた三人のことを大変心配していました。何とかして日本に帰して上げたいと言っていました。そして、勇気ある人々だとほめていました」
「…………」
「ところが、この間清国に着いた時、わたしはあなたがたがマカオにいると聞いたのです。一度ぜひ会いたいと思ったのです」
「ご親切に、ありがとうございます」
岩吉の言葉と共に、三人は頭を下げた。キングは、今まで見たアメリカ人やイギリス人の中でも、特に清らかな風貌《ふうぼう》をしていた。貿易商というより、神に仕える者のような雰囲気があった。
ギュツラフが言った。
「わたしが、聖書和訳をあなたがたに手伝ってもらった話を知らせたところ、ミスター・キングは大変感激なさってね」
キングは大きくうなずき、
「すばらしいことです。神はあなたがたに、この光栄ある仕事に参加させるために、はるばる太平洋を横断させ、ロンドンを経て、マカオまで導いてくださったのかも知れません。あなたがたはすばらしいことをなさいました」
久吉は大きく手を横にふり、朗《ほが》らかに言った。
「どういたしまして。わたしたちはミスター・ギュツラフに日本語で何というかと聞かれたことを、答えただけです。ミスター・ギュツラフは、本で調べたり、一心に説明したり、大変でしたが……な、音、そうやな舵取《かじと》りさん」
最後の言葉を久吉は日本語で言った。ギュツラフは、
「いやいや、わたしも苦労しましたが、三人も大変苦労しました。わたしが説明する。なるべく的確な言葉を得たいと、詳しく言えば言うほど、彼らにはわからなくなるのです」
「なるほど、それはわかります」
「どうしても言葉が出て来ない時は、わたしがメドハーストの和英英和辞典をひらいたり、モリソン先生の英華辞典をひらいたりして、悪戦苦闘でした。しかし、もう少しで終わります」
ギュツラフは立って行って、書棚《しよだな》の引き出しから草稿《そうこう》を取り出した。受け取ったキングは、
「ほっほう!」
と声を上げた。初めて見る日本の文字であった。
「これが日本の字ですか」
「はい。しかし、日本は文字の多い国で、漢字もひら仮名もあります。岩吉がインデアンの地で書いた手紙には、漢字が多く使われています。だからマクラフリン博士でも、三人が日本人だとは思わず、清国人だと思ったそうです」
ギュツラフはいつもの調子で、熱っぽく語った。
「けれどもわたしは、一般の人たちに読んでもらうために、片仮名を使うことにしたのです。そして、できる限り庶民の語る言葉に訳してもらったのです。音吉、これを読んで、聞かせて上げなさい」
音吉はうやうやしく頭を下げ、読み始めた。
「ヨハンネスタヨリ ヨロコビ
ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル」
澄んだ声である。
「……ヒトノナカニイノチアル、コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。コノヒカリワ クラサニカガヤク、タダシワ セカイノクライ(暗い)、ニンゲンワカンベンシラナンダ」
日本語を知らぬキングが、日本人の音吉が読む日本語の聖書を、うなずき聞いていた。その顔に深い感動の色がみなぎっている。
ギュツラフは、音吉がヨハネ伝の第一章を読み終えると、続いてヨハネの手紙上巻に移らせた。
「……テンノツカサヒカリ、ヒトノナカニクラサワナイ。ワシドモヒトワトモニホヨバイアルトユウ、クラサノナカニ アヨベルナラバ ワシドモウソヲユウ、マコトヲツクラヌ。……」
言葉を超えた何かがキングの胸を打った。キングはこの三人を、命にかけても日本に帰そうと、心の中に決意した。