音吉はギュツラフに命ぜられるままに、和訳した聖書を読んでいく。
「カワイガラレタヒトビト、ワシドモ カワイガリヤエヨ。メグミ ゴクラクカラクル、ミナカワイガルニン(人)、ゴクラクカラウマレタ、テンノツカサヲシル……」
これはヨハネの第一手紙四章七節であり、現行訳では次のようになっている。
〈愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている〉
熱心に聞いているキングの顔を、岩吉は驚いて見つめていた。聞いたこともない日本語の聖書は、一語もわからぬ筈《はず》だ。にもかかわらず、なぜこのキングは、これほどに真剣に聞いているのだろう。岩吉がそう思った時、ギュツラフが言った。
「ありがとう、音吉。上手に読んでくれましたね」
つづいてキングも言った。
「ありがとう、ありがとう。言葉はわからないが、あなたがたの努力は、わたしの心を打った。ほんとうにありがとう」
キングはそう言うと、しっかりと音吉の手を握り、つづいて久吉、岩吉の手を順に握った。あたたかい力強い手であった。
話は漂流のことに移り、一時間ほどして三人が部屋を出て行くと、キングが改めてギュツラフに言った。
「それにしても、長い漂流によく耐えたものですね。彼らの精神力には驚きました」
「全くです。生ける神が彼らに力を与えたとしか思われませんね」
「そうかも知れませんね。そして、あなたのこの度の聖書和訳に協力させてくださったのですね。しかし、僅《わず》か一年で、日本語に訳するとは……お噂《うわさ》は聞いていましたが、あなたの語学力にも驚きました」
「いえいえ、お恥ずかしいものです。何せ、参考書がほとんどないものですから。とにかくあの三人の助けがなければ、ここまではできませんでした」
「いやいや、大したものです。何しろ商務庁の重要な任務を遂行《すいこう》しながらなのですから」
「お言葉恐れ入ります。すべては神の恵みです」
「ところでミスター・ギュツラフ。わたしたちのオリファント商会では、今度|福音船《ふくいんせん》を造りましてね」
「ああ、伺っておりますとも。今、マカオに来ているヒマレー号のことですね。全く御社《おんしや》の伝道熱心には、伝道者のわたしたちが恥ずかしくなるほどです」
ギュツラフの言葉は世辞ではなかった。オリファント商会は、イギリスの東インド会社の商売|仇《がたき》だったが、キリスト教の伝道に極めて熱心であった。自社の船に、幾人もの宣教師を無料で乗せ、アメリカから清国に送りこんでいた。そればかりか、海外伝道会のために、広東に建物をも用意して、その活動を助けていた。そしてこの年福音船ヒマレー号を進水させたのである。
「いやいや、いささかのことです。神の恵みで、わたしたちも利益を得ているわけですから、少しは伝道のために捧《ささ》げなければ……。そのヒマレー号が、十二月の初めにマカオを出航する予定なのです」
「ほほう、来月ですか。どちらに向けて出帆するのですか」
「セレベス、ボルネオ方面です」
「では……」
ギュツラフの目が輝いた。
「ミスター・キング。ヒマレー号で、わたしのこの原稿を、シンガポールに届けていただく訳には参りませんか。シンガポールで印刷の予定なのです」
「おう! それは光栄です。ぜひお役に立たせてください」
「ありがとう、ミスター・キング」
ギュツラフが喜びの声を上げた。テーブルの上に飾られていたハイビスカスの花が、かすかにゆれた。
「ところでミスター・キング。ヒマレー号は、いつマカオに戻《もど》ってきますか」
「来年の五月か、六月でしょう。戻るとすぐに、清国、朝鮮に行くことになっています」
「では、おねがいがあります。その時に、あの岩吉たち三人を、日本に送り帰してはいただけませんか」
ギュツラフは持ち前の性急ともいえる熱心さで、いきなり頼んだ。
「そうですね。イギリスの政府がお望みなら、喜んで」
「ありがとう、ミスター・キング。これで安心しました」
ギュツラフの顔に安堵《あんど》のいろがひろがった。
「実はミスター・ギュツラフ。わたしも彼らのためには、何とかして上げたいと、先程《さきほど》から思っていたところです。只《ただ》、このことは、慎重に計画を練らなければなりませんね。充分に時間をかけましょう」
キングは考え深げに答えてから、
「話は変わりますが、ミスター・ギュツラフ。あなたが日本のために、ヨハネ伝とヨハネの書簡を選ばれたのは、なぜですか。マタイ伝やルカ伝のほうが、どこの国の言葉に訳すにしても、たやすいと思うのですが」
キングは聖書和訳に話を戻《もど》した。
「ええ。そのことは皆さんによく言われるのですよ。確かにたとえ話の多いマタイ伝やルカ伝のほうが、翻訳《ほんやく》は容易です。何せヨハネ伝は、形而上的《けいじじようてき》に過ぎますからね」
「全く。四|福音書《ふくいんしよ》では、一番取っつきにくい福音書です」
キングが微笑した。
「しかし、わたしはモラビア兄弟団(キリスト教の一派)に深く関わっておりますから、ヨハネ伝こそ、キリストの神性をもっとも明らかに示していると信じているのです。また、ヨハネの書簡は、人間が生活していく上に大事な兄弟愛について書かれてありますし……」
「なるほど。おっしゃるように、ヨハネ伝に示された真理は、確かに深いものです。ヨハネの書簡は、わたしたちの生活に欠かすことのできない愛が、述べられてあります。それでわかりました」
「ミスター・キング。わたしがヨハネ伝を選んだのは、それだけではありません。彼ら三人とマカオの社寺を巡った時、わたしは彼らが、どこに行っても頭を下げることに気づいたのです。彼らは、何にでも手を合わせるのです。それでわたしは、アテネの、あの『知られざる神に』手を合わせる記事を思い出したのです」
「ああ、使徒行伝にある、あのアテネの神々のことですね」
「そうです。おっしゃるとおりです。ミスター・キング。それでわたしは、キリストの神性を確実に伝えるヨハネ伝を選んだというわけです」
キングは深くうなずき、じっとギュツラフを見つめた。が、そのキングの目に、なぜかちらりとかげるものがあった。それが何であるかを、ギュツラフはその時は知ることができなかった。
「カワイガラレタヒトビト、ワシドモ カワイガリヤエヨ。メグミ ゴクラクカラクル、ミナカワイガルニン(人)、ゴクラクカラウマレタ、テンノツカサヲシル……」
これはヨハネの第一手紙四章七節であり、現行訳では次のようになっている。
〈愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている〉
熱心に聞いているキングの顔を、岩吉は驚いて見つめていた。聞いたこともない日本語の聖書は、一語もわからぬ筈《はず》だ。にもかかわらず、なぜこのキングは、これほどに真剣に聞いているのだろう。岩吉がそう思った時、ギュツラフが言った。
「ありがとう、音吉。上手に読んでくれましたね」
つづいてキングも言った。
「ありがとう、ありがとう。言葉はわからないが、あなたがたの努力は、わたしの心を打った。ほんとうにありがとう」
キングはそう言うと、しっかりと音吉の手を握り、つづいて久吉、岩吉の手を順に握った。あたたかい力強い手であった。
話は漂流のことに移り、一時間ほどして三人が部屋を出て行くと、キングが改めてギュツラフに言った。
「それにしても、長い漂流によく耐えたものですね。彼らの精神力には驚きました」
「全くです。生ける神が彼らに力を与えたとしか思われませんね」
「そうかも知れませんね。そして、あなたのこの度の聖書和訳に協力させてくださったのですね。しかし、僅《わず》か一年で、日本語に訳するとは……お噂《うわさ》は聞いていましたが、あなたの語学力にも驚きました」
「いえいえ、お恥ずかしいものです。何せ、参考書がほとんどないものですから。とにかくあの三人の助けがなければ、ここまではできませんでした」
「いやいや、大したものです。何しろ商務庁の重要な任務を遂行《すいこう》しながらなのですから」
「お言葉恐れ入ります。すべては神の恵みです」
「ところでミスター・ギュツラフ。わたしたちのオリファント商会では、今度|福音船《ふくいんせん》を造りましてね」
「ああ、伺っておりますとも。今、マカオに来ているヒマレー号のことですね。全く御社《おんしや》の伝道熱心には、伝道者のわたしたちが恥ずかしくなるほどです」
ギュツラフの言葉は世辞ではなかった。オリファント商会は、イギリスの東インド会社の商売|仇《がたき》だったが、キリスト教の伝道に極めて熱心であった。自社の船に、幾人もの宣教師を無料で乗せ、アメリカから清国に送りこんでいた。そればかりか、海外伝道会のために、広東に建物をも用意して、その活動を助けていた。そしてこの年福音船ヒマレー号を進水させたのである。
「いやいや、いささかのことです。神の恵みで、わたしたちも利益を得ているわけですから、少しは伝道のために捧《ささ》げなければ……。そのヒマレー号が、十二月の初めにマカオを出航する予定なのです」
「ほほう、来月ですか。どちらに向けて出帆するのですか」
「セレベス、ボルネオ方面です」
「では……」
ギュツラフの目が輝いた。
「ミスター・キング。ヒマレー号で、わたしのこの原稿を、シンガポールに届けていただく訳には参りませんか。シンガポールで印刷の予定なのです」
「おう! それは光栄です。ぜひお役に立たせてください」
「ありがとう、ミスター・キング」
ギュツラフが喜びの声を上げた。テーブルの上に飾られていたハイビスカスの花が、かすかにゆれた。
「ところでミスター・キング。ヒマレー号は、いつマカオに戻《もど》ってきますか」
「来年の五月か、六月でしょう。戻るとすぐに、清国、朝鮮に行くことになっています」
「では、おねがいがあります。その時に、あの岩吉たち三人を、日本に送り帰してはいただけませんか」
ギュツラフは持ち前の性急ともいえる熱心さで、いきなり頼んだ。
「そうですね。イギリスの政府がお望みなら、喜んで」
「ありがとう、ミスター・キング。これで安心しました」
ギュツラフの顔に安堵《あんど》のいろがひろがった。
「実はミスター・ギュツラフ。わたしも彼らのためには、何とかして上げたいと、先程《さきほど》から思っていたところです。只《ただ》、このことは、慎重に計画を練らなければなりませんね。充分に時間をかけましょう」
キングは考え深げに答えてから、
「話は変わりますが、ミスター・ギュツラフ。あなたが日本のために、ヨハネ伝とヨハネの書簡を選ばれたのは、なぜですか。マタイ伝やルカ伝のほうが、どこの国の言葉に訳すにしても、たやすいと思うのですが」
キングは聖書和訳に話を戻《もど》した。
「ええ。そのことは皆さんによく言われるのですよ。確かにたとえ話の多いマタイ伝やルカ伝のほうが、翻訳《ほんやく》は容易です。何せヨハネ伝は、形而上的《けいじじようてき》に過ぎますからね」
「全く。四|福音書《ふくいんしよ》では、一番取っつきにくい福音書です」
キングが微笑した。
「しかし、わたしはモラビア兄弟団(キリスト教の一派)に深く関わっておりますから、ヨハネ伝こそ、キリストの神性をもっとも明らかに示していると信じているのです。また、ヨハネの書簡は、人間が生活していく上に大事な兄弟愛について書かれてありますし……」
「なるほど。おっしゃるように、ヨハネ伝に示された真理は、確かに深いものです。ヨハネの書簡は、わたしたちの生活に欠かすことのできない愛が、述べられてあります。それでわかりました」
「ミスター・キング。わたしがヨハネ伝を選んだのは、それだけではありません。彼ら三人とマカオの社寺を巡った時、わたしは彼らが、どこに行っても頭を下げることに気づいたのです。彼らは、何にでも手を合わせるのです。それでわたしは、アテネの、あの『知られざる神に』手を合わせる記事を思い出したのです」
「ああ、使徒行伝にある、あのアテネの神々のことですね」
「そうです。おっしゃるとおりです。ミスター・キング。それでわたしは、キリストの神性を確実に伝えるヨハネ伝を選んだというわけです」
キングは深くうなずき、じっとギュツラフを見つめた。が、そのキングの目に、なぜかちらりとかげるものがあった。それが何であるかを、ギュツラフはその時は知ることができなかった。