「なあ、音。ヒマレー号は、もうとうにシンガポールに着いたやろな」
庭の芝生に、芝刈機を押していた久吉が、手をとめた。明るい三月の空が、大きくひろがっている。ミセス・ギュツラフの、生徒たちに英語を教える声が庭に聞こえてくる。
岩吉と音吉は、生垣《いけがき》に大きな鋏《はさみ》を入れていた。
「久吉ったら、毎日ヒマレー号の話やな」
音吉は鋏の手をとめずに言う。
オリファント商会の福音船《ふくいんせん》ヒマレー号が、ボルネオ、セレベスに向けてマカオを出帆したのは、四か月前の十二月三日であった。その船には、和訳されたヨハネ伝とヨハネの書簡の草稿《そうこう》が託され、シンガポールの印刷所に届けられることになっていた。そしてそれは、木版刷《もくはんず》りになる筈《はず》だった。ヨハネ伝だけでも千五百部以上印刷される予定であった。
「だってなあ、音。当たり前やないか。船が帰ってきたら、その船で日本に帰れるんやで、なあ舵取《かじと》りさん」
「ま、帰って来ればな」
岩吉は不愛想に答えた。船というものは、必ず無事に帰ってくるとは限らぬものなのだ。そう岩吉は思っている。
「帰って来ればな、か。舵取りさんは時々いやなことを言う人やな」
久吉はまた芝刈機を押し始めた。その音があたりにひびく。芝刈機の通った跡の筋目が美しい。
「久吉、ほんとに、帰って来なけりゃ、どうなるんやろう」
音吉の持つ鋏《はさみ》がとまった。
「帰って来るわ」
久吉はこともなげに言いながら芝刈機を押して行く。
「けど、帰らんかったら、どうするんや」
「その時は、別の船を仕立ててくれるやろ」
「じゃあ、ヒマレー号が帰らんでも、ほかの船でさっさと帰らせてくれるといいのにな」
音吉が呟《つぶや》く。
「それもそうやな」
芝刈機を離れて、久吉は音吉の傍《そば》に来た。
「ほんとや、音の言うことはほんとや。何もヒマレー号で帰らんならんことはないわ。もうバイブルの仕事は終わったしな。ええ気候になったしな。一日も早う帰して欲しいわ」
「そうやな。けど、世話になっとるだでな。わがままは言えせんわな」
「音、わしはな、わがままいいたいんや。いや、わがままではあらせん。このマカオに来てからでも、もう一年と四か月も経ったんやで。日本はすぐ隣というのに、何でそんなに長く、ここにいなければならんのや」
「ほんとや。わしもそう思う。父《と》っさまのことひとつ考えても、病気が悪うなって、死にやせんかと思うと、気が気でないわ」
「そうやろ。死んでから帰ったんでは、何にもならせんで。無事な顔を見せて、早う安心させてやらんとな」
「音、久。ぐだぐだ言わんと、さっさと仕事をせい!」
岩吉の声が飛んだ。二人は首をすくませ、顔を見合わせたが、それでも久吉は素直に芝刈機に戻った。
と、その時、玄関のほうが騒がしくなった。
「何やろ?」
久吉がふり返ると、岩吉が再び叱《しか》った。
「きょろきょろするな。まるで餓鬼《がき》や」
再び久吉は首をすくめ、今度は熱心に芝を刈り始めた。音吉は、久吉の言うのも無理はないと思った。確かに、すぐ目と鼻の先に日本があるというのに、なぜここに一年四か月もの長い間、留め置かれなければならなかったか。音吉も不服だった。
だが、三人には詳しいいきさつは知らされていなかった。三人がマカオに着いた時、ロンドンから三人を乗せて来たゼネラル・パーマー号の船長ダウンズは、英国商務庁(貿易監督庁)と、三人の送還方法を協議した。この結果、ひとまずギュツラフ宅に三人を預けることにし、次官のエリオットが三人の帰還について直接責任を取ることになった。このエリオットは、長官ロビンソンの質実なあり方とは対照的に、武力をもってでも各国との通商を強行しかねない人間であった。次官エリオットは、ひそかに日本への通商をねがって、岩吉たち三人を、イギリスの軍艦で日本に送り帰したい旨《むね》を、長官ロビンソンに書き送った。次官エリオットはマカオに駐在していたが、長官は|伶※[#「にんべん+丁」、unicode4ec3]《リンテイン》島にいたからである。この手紙は三人がマカオに着いた年の、一八三五年十二月二十五日に書かれた。
次官エリオットの手紙を受け取った長官ロビンソンは、岩吉たち三人の意向を文書で提出させ、印度総督《インドそうとく》とイギリス外務省に上申した。上申書《じようしんしよ》には、三人のマカオ滞在費と、日本へ回航する軍艦を要請する旨が書かれてあった。一八三六年三月一日付で書かれたこの上申は、恐らく九月にロンドンに着いたのであろう。外務省は同年九月十四日付で回答を発している。
〈三人の日本人は、日本向け清国帆船によって日本に送り帰すこと。尚《なお》その費用は大英帝国駐華貿易監督庁(商務庁)の緊急費より支出のこと)
この文書がマカオに着くには、再び数か月を要した。イギリスとしても、徒らに三人を留め置いた訳ではなかった。ギュツラフはこれら手続きに要する日数を予想して、急いで聖書和訳に手をつけたのであった。が、三人にとってはギュツラフへの協力のために留め置かれたように思われたのである。
「ロンドンに着いた時は、発つまでに十日しかなかったのになあ」
久吉と音吉は幾度もそう言ったが、ロンドンには最高機関の政府があって、短時日に決定できたことなど思い見る余裕もなかった。
(何やろな、今の騒ぎは)
久吉がそう思った時だった。三人の住む家の窓からキャサリンが顔を出した。
「早くいらっしゃい。驚くことがあるのよ」
キャサリンの大きな目が、一層大きく見ひらかれていた。
「驚くこと? すばらしい美人でもやってきましたか」
久吉が冗談を言った。
「いいえ、日本人が来たのです!」
「日本人!?」
三人は同時に叫んだ。
「そうよ。だからすぐにいらっしゃい!」
三人は思わず顔を見合わせた。
「舵取《かじと》りさん! 日本人って、お上《かみ》やろか」
久吉が声をひそめて言った。
「かも知れん」
岩吉も低く答えた。
「そうや! きっとお上や。どうする? 舵取りさん」
音吉の顔が青ざめた。
「まさか、お上がここに来るわけはあらせん、とは思うが……」
岩吉は見据《みす》えるように家のほうを見た。
「わしら、キリシタンの手伝いをしたでな。知られたらどうしよう」
音吉には何よりも不安なことだった。
「ほんとや。内緒のことだでな。これが洩《も》れたら打ち首や」
「何しに来たんやろ。キャサリンがすぐに来いと言うたわな」
三人は額を集めて、ぼそぼそと語り合った。
「とにかく、バイブルのことは、口が裂けても言うてはならん。いいか、久、音」
「言う訳あらせん。けど、ミスター・ギュツラフやミセス・ギュツラフが言わんやろか」
「あれだけ頼んであるだで、言わんやろ」
「けど、ハリーがうっかり言わんやろか」
「それはわからんな。ハリーはまだ餓鬼《がき》だでな」
「大変なことになってしもうたわ」
久吉の言葉を聞きながら、音吉は思った。
(日本人がこんなに恐ろしいなんて……)
三人が想いつづけていた日本人は、父母であり兄弟であり、親しい者たちであった。
(お上《かみ》がこわいんや、お上が)
そう思った時、再びキャサリンが窓から呼んだ。
「早くいらっしゃーい。庭仕事は後でいいのよ。あなたがたと同じように、嵐に遭《あ》った日本の人たちよ」
「嵐に遭《お》うた!?」
久吉が叫んだ。
「何や! お上《かみ》やないんや!」
三人は、ほっと胸をなでおろした。と、次の瞬間、久吉が駈《か》け出していた。その後を音吉と岩吉が追った。
応接間に駈けこむと、正《まさ》しく四人の日本人が椅子《いす》に坐《すわ》っていた。服装こそ異国のものであったが、確かに日本人の顔であった。ギュツラフとキャサリンがそこにいた。
「ほんまに、日本人やな!」
久吉が叫んだ。と、年長の一人が、
「そういうあんたがたも、真実日本人とですのう!」
と、かっと目を剥《む》いた。
「そうや、日本人や。同じ日本人や、同じな!」
「おう、懐かしか。まちがいなく日本の言葉とです」
岩吉たち三人と、今着いたばかりの四人が、口々に叫んだ。みるみる七人の目から涙が吹き出した。ものを言おうとしても、口がふるえるばかりで言葉にならない。
この四人は九州|肥後《ひご》の国出身の原田庄蔵二十九歳、同じく肥後の国寿三郎二十六歳、肥前《ひぜん》の国熊太郎二十九歳、そして同じく肥前の力松十五歳の四人であった。
庭の芝生に、芝刈機を押していた久吉が、手をとめた。明るい三月の空が、大きくひろがっている。ミセス・ギュツラフの、生徒たちに英語を教える声が庭に聞こえてくる。
岩吉と音吉は、生垣《いけがき》に大きな鋏《はさみ》を入れていた。
「久吉ったら、毎日ヒマレー号の話やな」
音吉は鋏の手をとめずに言う。
オリファント商会の福音船《ふくいんせん》ヒマレー号が、ボルネオ、セレベスに向けてマカオを出帆したのは、四か月前の十二月三日であった。その船には、和訳されたヨハネ伝とヨハネの書簡の草稿《そうこう》が託され、シンガポールの印刷所に届けられることになっていた。そしてそれは、木版刷《もくはんず》りになる筈《はず》だった。ヨハネ伝だけでも千五百部以上印刷される予定であった。
「だってなあ、音。当たり前やないか。船が帰ってきたら、その船で日本に帰れるんやで、なあ舵取《かじと》りさん」
「ま、帰って来ればな」
岩吉は不愛想に答えた。船というものは、必ず無事に帰ってくるとは限らぬものなのだ。そう岩吉は思っている。
「帰って来ればな、か。舵取りさんは時々いやなことを言う人やな」
久吉はまた芝刈機を押し始めた。その音があたりにひびく。芝刈機の通った跡の筋目が美しい。
「久吉、ほんとに、帰って来なけりゃ、どうなるんやろう」
音吉の持つ鋏《はさみ》がとまった。
「帰って来るわ」
久吉はこともなげに言いながら芝刈機を押して行く。
「けど、帰らんかったら、どうするんや」
「その時は、別の船を仕立ててくれるやろ」
「じゃあ、ヒマレー号が帰らんでも、ほかの船でさっさと帰らせてくれるといいのにな」
音吉が呟《つぶや》く。
「それもそうやな」
芝刈機を離れて、久吉は音吉の傍《そば》に来た。
「ほんとや、音の言うことはほんとや。何もヒマレー号で帰らんならんことはないわ。もうバイブルの仕事は終わったしな。ええ気候になったしな。一日も早う帰して欲しいわ」
「そうやな。けど、世話になっとるだでな。わがままは言えせんわな」
「音、わしはな、わがままいいたいんや。いや、わがままではあらせん。このマカオに来てからでも、もう一年と四か月も経ったんやで。日本はすぐ隣というのに、何でそんなに長く、ここにいなければならんのや」
「ほんとや。わしもそう思う。父《と》っさまのことひとつ考えても、病気が悪うなって、死にやせんかと思うと、気が気でないわ」
「そうやろ。死んでから帰ったんでは、何にもならせんで。無事な顔を見せて、早う安心させてやらんとな」
「音、久。ぐだぐだ言わんと、さっさと仕事をせい!」
岩吉の声が飛んだ。二人は首をすくませ、顔を見合わせたが、それでも久吉は素直に芝刈機に戻った。
と、その時、玄関のほうが騒がしくなった。
「何やろ?」
久吉がふり返ると、岩吉が再び叱《しか》った。
「きょろきょろするな。まるで餓鬼《がき》や」
再び久吉は首をすくめ、今度は熱心に芝を刈り始めた。音吉は、久吉の言うのも無理はないと思った。確かに、すぐ目と鼻の先に日本があるというのに、なぜここに一年四か月もの長い間、留め置かれなければならなかったか。音吉も不服だった。
だが、三人には詳しいいきさつは知らされていなかった。三人がマカオに着いた時、ロンドンから三人を乗せて来たゼネラル・パーマー号の船長ダウンズは、英国商務庁(貿易監督庁)と、三人の送還方法を協議した。この結果、ひとまずギュツラフ宅に三人を預けることにし、次官のエリオットが三人の帰還について直接責任を取ることになった。このエリオットは、長官ロビンソンの質実なあり方とは対照的に、武力をもってでも各国との通商を強行しかねない人間であった。次官エリオットは、ひそかに日本への通商をねがって、岩吉たち三人を、イギリスの軍艦で日本に送り帰したい旨《むね》を、長官ロビンソンに書き送った。次官エリオットはマカオに駐在していたが、長官は|伶※[#「にんべん+丁」、unicode4ec3]《リンテイン》島にいたからである。この手紙は三人がマカオに着いた年の、一八三五年十二月二十五日に書かれた。
次官エリオットの手紙を受け取った長官ロビンソンは、岩吉たち三人の意向を文書で提出させ、印度総督《インドそうとく》とイギリス外務省に上申した。上申書《じようしんしよ》には、三人のマカオ滞在費と、日本へ回航する軍艦を要請する旨が書かれてあった。一八三六年三月一日付で書かれたこの上申は、恐らく九月にロンドンに着いたのであろう。外務省は同年九月十四日付で回答を発している。
〈三人の日本人は、日本向け清国帆船によって日本に送り帰すこと。尚《なお》その費用は大英帝国駐華貿易監督庁(商務庁)の緊急費より支出のこと)
この文書がマカオに着くには、再び数か月を要した。イギリスとしても、徒らに三人を留め置いた訳ではなかった。ギュツラフはこれら手続きに要する日数を予想して、急いで聖書和訳に手をつけたのであった。が、三人にとってはギュツラフへの協力のために留め置かれたように思われたのである。
「ロンドンに着いた時は、発つまでに十日しかなかったのになあ」
久吉と音吉は幾度もそう言ったが、ロンドンには最高機関の政府があって、短時日に決定できたことなど思い見る余裕もなかった。
(何やろな、今の騒ぎは)
久吉がそう思った時だった。三人の住む家の窓からキャサリンが顔を出した。
「早くいらっしゃい。驚くことがあるのよ」
キャサリンの大きな目が、一層大きく見ひらかれていた。
「驚くこと? すばらしい美人でもやってきましたか」
久吉が冗談を言った。
「いいえ、日本人が来たのです!」
「日本人!?」
三人は同時に叫んだ。
「そうよ。だからすぐにいらっしゃい!」
三人は思わず顔を見合わせた。
「舵取《かじと》りさん! 日本人って、お上《かみ》やろか」
久吉が声をひそめて言った。
「かも知れん」
岩吉も低く答えた。
「そうや! きっとお上や。どうする? 舵取りさん」
音吉の顔が青ざめた。
「まさか、お上がここに来るわけはあらせん、とは思うが……」
岩吉は見据《みす》えるように家のほうを見た。
「わしら、キリシタンの手伝いをしたでな。知られたらどうしよう」
音吉には何よりも不安なことだった。
「ほんとや。内緒のことだでな。これが洩《も》れたら打ち首や」
「何しに来たんやろ。キャサリンがすぐに来いと言うたわな」
三人は額を集めて、ぼそぼそと語り合った。
「とにかく、バイブルのことは、口が裂けても言うてはならん。いいか、久、音」
「言う訳あらせん。けど、ミスター・ギュツラフやミセス・ギュツラフが言わんやろか」
「あれだけ頼んであるだで、言わんやろ」
「けど、ハリーがうっかり言わんやろか」
「それはわからんな。ハリーはまだ餓鬼《がき》だでな」
「大変なことになってしもうたわ」
久吉の言葉を聞きながら、音吉は思った。
(日本人がこんなに恐ろしいなんて……)
三人が想いつづけていた日本人は、父母であり兄弟であり、親しい者たちであった。
(お上《かみ》がこわいんや、お上が)
そう思った時、再びキャサリンが窓から呼んだ。
「早くいらっしゃーい。庭仕事は後でいいのよ。あなたがたと同じように、嵐に遭《あ》った日本の人たちよ」
「嵐に遭《お》うた!?」
久吉が叫んだ。
「何や! お上《かみ》やないんや!」
三人は、ほっと胸をなでおろした。と、次の瞬間、久吉が駈《か》け出していた。その後を音吉と岩吉が追った。
応接間に駈けこむと、正《まさ》しく四人の日本人が椅子《いす》に坐《すわ》っていた。服装こそ異国のものであったが、確かに日本人の顔であった。ギュツラフとキャサリンがそこにいた。
「ほんまに、日本人やな!」
久吉が叫んだ。と、年長の一人が、
「そういうあんたがたも、真実日本人とですのう!」
と、かっと目を剥《む》いた。
「そうや、日本人や。同じ日本人や、同じな!」
「おう、懐かしか。まちがいなく日本の言葉とです」
岩吉たち三人と、今着いたばかりの四人が、口々に叫んだ。みるみる七人の目から涙が吹き出した。ものを言おうとしても、口がふるえるばかりで言葉にならない。
この四人は九州|肥後《ひご》の国出身の原田庄蔵二十九歳、同じく肥後の国寿三郎二十六歳、肥前《ひぜん》の国熊太郎二十九歳、そして同じく肥前の力松十五歳の四人であった。