「そうか。えらい難儀をしたんやな。わしらばかりが、流されたのではあらせんのや」
庄蔵、寿三郎ら四人が交々《こもごも》語る話を聞き終わって、久吉は涙をぬぐった。
四人が岩吉たち三人に語ったあらましは、後に寿三郎が日本に書き送った手紙に次のように記されている。
〈ワタクシノ、イママデノ、カンナンクロウハマズセカイニタトヘルコトハナク。
シカシソノワケアラマシ。三十五日ナガレテ・ソノウチ十三日[#「ソノウチ十三日」に傍点]、ノマズクワズ[#「ノマズクワズ」に傍点]。ソウシテイコクニツイテ、チニアガリケレバ、クロンボウハルカムカウヨリマイルニ、シゼントチカヨリソノカタチヲミルニ、ハダカニテ、ユミヤカタナヲモツテマイリ。
ワタクシドモコレヲミテ、コレコソオニニマチガイナシ、イヨ/\クワレルニソウイナシトオモイ。カノクロンボ、ワタクシドモニテヤイ(手まね)ヲイタシテ、キリモノ(着物)ヲワタサヌト、ユミデイコロスト、ヤリノホサキノヤウナルヤノ子《ネ》ヲヒツクワシテ、ユミヲヒイテヲドロカシテ、ミナ、イルイ、ダウグ(道具)ニイタルマデ、モギトリソロ(候)。
ソノトキバカリ、セツカクチニアガリテ、イチメイヲワルトハ、ザン子《ネ》ンシゴクトオモイソロ。
ナラビニ、ソノクロンボノトコロニ、三十日カクマワレ、ソノアイダハ、マイニチ/\、カライモヲ[#「カライモヲ」に傍点]、ハラハンブンタベサセラレテ[#「ハラハンブンタベサセラレテ」に傍点]、イチドキニテ、ヤフ/\イキノカヨウバカリノコトナリ。
コレヨリオクラレルミチノコト。カイジヤウヲワタルニハ、カイジヨウニアイ、ソノトキモ、ヤウヤク、イノチヲタスカリ、マタ人ノカヨワヌオホヤマアルイワタニ/″\カワヲワタリ、ヤマノナカニ、ハナハダヒル(蛭)ノオホキトコロナリ。
コノヤマミチヲマイルニハ、タニノミゾノアルトコロ、ヒノヤツジブンヨリ、シバタキギヲアツメテ、子《ネ》ドコロヲツクリテ、ノジクヲイタシ。
ワタクシドモヲオクルヤクニンワ、ユミヤテツポウヲモツテ、ハナハダヤウジンキビシクシテマイリ。コノナンジヤウノミチヲ、四日ガアイダアユミソロ。コノアヒダニ、ヒトイチニンヲルトコロナシ。
コノクニノナマイヰラ(マニラ)トイフナリ。コノクニノジヤウカニマイリ、コノクニヨリ、唐広澳門トイフトコロニオクラレ。コノトコロヨリ尾張《おわり》ノ人三人トモニナリ。……〉(以下略)
船頭庄蔵以下四人は、二年前の一八三五年十一月一日、天草《あまくさ》を出帆した。岩吉たち三人がロンドンよりマカオに着く幾日か前の頃《ころ》である。百トンもないその帆船には、さつま芋《いも》が積みこまれていた。船はすぐ目と鼻の、長崎に帰る筈《はず》であった。が、途中嵐に遭《あ》い、帆柱を切り落として、三十五日間漂流し、ルソン島に漂着した。その間、米も水も尽きた生活が十三日つづいた。長崎、天草間の航海に、食糧を多く積んでいる筈もなかったからである。漂着した地には黒人たちがいた。言葉もわからぬながら、十三日間飲まず食わずであることを手真似《てまね》で語ったところ、ほんの僅《わず》かな食糧を与えられた。が、衣類や、所持品の総《すべ》てを奪われ、真裸で日を過ごした。やがて、スペイン政府の知るところとなり、役人四人に護送されてマニラに着いた。途中|蛭《ひる》のいる密林や、深い谷を幾日もかけて旅をした。
その後四人は、マニラに一年いたが、スペイン政府は四人の処置に窮して、遂に庄蔵たちをマカオに送った。が、マカオにおろしただけで、四人のことを誰に頼んだわけでもない。むろん滞在費の支給もなければ、その日の食糧さえ与えられなかった。港に下り立った四人は見も知らぬマカオの街を眺《なが》めて泣いた。見る者一人として知る者はない。言葉をかけてくれる者もいたが、その言葉がわからない。次第に人が集まって来て、あれを言い、これを言いはじめた。四人は人々に囲まれながら、死ぬより途《みち》がないと語り合った。
と、弁髪《べんぱつ》の男が、オリファント商会のチャールス・キングをその場につれて来た。キングは四人に字を書かせた。その字の中に片仮名があった。つい数か月前、ギュツラフの家で見た片仮名と同じ字を、キングはそこに見た。こうしてキングは、直ちにアメリカ伝道協会のウイリアムズと相談して、ギュツラフの家に四人を托《たく》したのであった。
「それは、大変なことやったなあ」
両腕を組んで、じっと話を聞いていた岩吉が、腕をほどいて頭を下げた。音吉も、
「ほんとに、えらい難儀やったなあ」
と、声をしめらせた。久吉が、
「けどな、もう安心やで、ここに来たらな」
と、明るく言って、
「飯もあるしな、みんな親切やしな、可愛《かわい》い女《おなご》もいるしな。但《ただ》し、この女には手は出せんで」
気を引き立てる久吉の言い方に、四人はようやく笑顔を見せた。と、はっと気づいたように、船頭の庄蔵が改まった物腰《ものごし》になって、
「これはこれは、自分たちのことばかり申して、失礼いたしました。あんたさまらもえらい難儀に遭われたとな。お国を出られたは、何年のことですと」
「忘れもしない天保《てんぽう》三年十月十日のことや」
「えっ!? 天保三年とな?」
庄蔵は痩《や》せ細った指を折りながら、
「それでは、足かけ六年にも……。わしらはまだ丸一年と四か月ですたい。上には上があるとですのう。して、船は何日ぐらい流されたとですか」
「何日?」
久吉は目を大きくして、
「何日やあらせん。一年と二か月や。一年二か月海の上にいたんや」
「一年二か月とですか。うーむ。わしらは三十五日で、恥ずかしいようなもんですばい」
寿三郎の言葉に、音吉が首を横にふって、
「いやいや、一年二か月というてもな。わしら、飯の食わん日はなかったでな。あんたら、十三日も飲まず食わずとは、大変なことや。米も水も切れては、命にかかわるでな。そのほうが大変や」
音吉は、漂流中の、のどのひりつくような渇《かわ》きを思い出しながら言った。
七人が交々《こもごも》語る漂流の話は、その夜夕食を終えてもなおつづき、夜半まで尽きることがなかった。
庄蔵、寿三郎ら四人が交々《こもごも》語る話を聞き終わって、久吉は涙をぬぐった。
四人が岩吉たち三人に語ったあらましは、後に寿三郎が日本に書き送った手紙に次のように記されている。
〈ワタクシノ、イママデノ、カンナンクロウハマズセカイニタトヘルコトハナク。
シカシソノワケアラマシ。三十五日ナガレテ・ソノウチ十三日[#「ソノウチ十三日」に傍点]、ノマズクワズ[#「ノマズクワズ」に傍点]。ソウシテイコクニツイテ、チニアガリケレバ、クロンボウハルカムカウヨリマイルニ、シゼントチカヨリソノカタチヲミルニ、ハダカニテ、ユミヤカタナヲモツテマイリ。
ワタクシドモコレヲミテ、コレコソオニニマチガイナシ、イヨ/\クワレルニソウイナシトオモイ。カノクロンボ、ワタクシドモニテヤイ(手まね)ヲイタシテ、キリモノ(着物)ヲワタサヌト、ユミデイコロスト、ヤリノホサキノヤウナルヤノ子《ネ》ヲヒツクワシテ、ユミヲヒイテヲドロカシテ、ミナ、イルイ、ダウグ(道具)ニイタルマデ、モギトリソロ(候)。
ソノトキバカリ、セツカクチニアガリテ、イチメイヲワルトハ、ザン子《ネ》ンシゴクトオモイソロ。
ナラビニ、ソノクロンボノトコロニ、三十日カクマワレ、ソノアイダハ、マイニチ/\、カライモヲ[#「カライモヲ」に傍点]、ハラハンブンタベサセラレテ[#「ハラハンブンタベサセラレテ」に傍点]、イチドキニテ、ヤフ/\イキノカヨウバカリノコトナリ。
コレヨリオクラレルミチノコト。カイジヤウヲワタルニハ、カイジヨウニアイ、ソノトキモ、ヤウヤク、イノチヲタスカリ、マタ人ノカヨワヌオホヤマアルイワタニ/″\カワヲワタリ、ヤマノナカニ、ハナハダヒル(蛭)ノオホキトコロナリ。
コノヤマミチヲマイルニハ、タニノミゾノアルトコロ、ヒノヤツジブンヨリ、シバタキギヲアツメテ、子《ネ》ドコロヲツクリテ、ノジクヲイタシ。
ワタクシドモヲオクルヤクニンワ、ユミヤテツポウヲモツテ、ハナハダヤウジンキビシクシテマイリ。コノナンジヤウノミチヲ、四日ガアイダアユミソロ。コノアヒダニ、ヒトイチニンヲルトコロナシ。
コノクニノナマイヰラ(マニラ)トイフナリ。コノクニノジヤウカニマイリ、コノクニヨリ、唐広澳門トイフトコロニオクラレ。コノトコロヨリ尾張《おわり》ノ人三人トモニナリ。……〉(以下略)
船頭庄蔵以下四人は、二年前の一八三五年十一月一日、天草《あまくさ》を出帆した。岩吉たち三人がロンドンよりマカオに着く幾日か前の頃《ころ》である。百トンもないその帆船には、さつま芋《いも》が積みこまれていた。船はすぐ目と鼻の、長崎に帰る筈《はず》であった。が、途中嵐に遭《あ》い、帆柱を切り落として、三十五日間漂流し、ルソン島に漂着した。その間、米も水も尽きた生活が十三日つづいた。長崎、天草間の航海に、食糧を多く積んでいる筈もなかったからである。漂着した地には黒人たちがいた。言葉もわからぬながら、十三日間飲まず食わずであることを手真似《てまね》で語ったところ、ほんの僅《わず》かな食糧を与えられた。が、衣類や、所持品の総《すべ》てを奪われ、真裸で日を過ごした。やがて、スペイン政府の知るところとなり、役人四人に護送されてマニラに着いた。途中|蛭《ひる》のいる密林や、深い谷を幾日もかけて旅をした。
その後四人は、マニラに一年いたが、スペイン政府は四人の処置に窮して、遂に庄蔵たちをマカオに送った。が、マカオにおろしただけで、四人のことを誰に頼んだわけでもない。むろん滞在費の支給もなければ、その日の食糧さえ与えられなかった。港に下り立った四人は見も知らぬマカオの街を眺《なが》めて泣いた。見る者一人として知る者はない。言葉をかけてくれる者もいたが、その言葉がわからない。次第に人が集まって来て、あれを言い、これを言いはじめた。四人は人々に囲まれながら、死ぬより途《みち》がないと語り合った。
と、弁髪《べんぱつ》の男が、オリファント商会のチャールス・キングをその場につれて来た。キングは四人に字を書かせた。その字の中に片仮名があった。つい数か月前、ギュツラフの家で見た片仮名と同じ字を、キングはそこに見た。こうしてキングは、直ちにアメリカ伝道協会のウイリアムズと相談して、ギュツラフの家に四人を托《たく》したのであった。
「それは、大変なことやったなあ」
両腕を組んで、じっと話を聞いていた岩吉が、腕をほどいて頭を下げた。音吉も、
「ほんとに、えらい難儀やったなあ」
と、声をしめらせた。久吉が、
「けどな、もう安心やで、ここに来たらな」
と、明るく言って、
「飯もあるしな、みんな親切やしな、可愛《かわい》い女《おなご》もいるしな。但《ただ》し、この女には手は出せんで」
気を引き立てる久吉の言い方に、四人はようやく笑顔を見せた。と、はっと気づいたように、船頭の庄蔵が改まった物腰《ものごし》になって、
「これはこれは、自分たちのことばかり申して、失礼いたしました。あんたさまらもえらい難儀に遭われたとな。お国を出られたは、何年のことですと」
「忘れもしない天保《てんぽう》三年十月十日のことや」
「えっ!? 天保三年とな?」
庄蔵は痩《や》せ細った指を折りながら、
「それでは、足かけ六年にも……。わしらはまだ丸一年と四か月ですたい。上には上があるとですのう。して、船は何日ぐらい流されたとですか」
「何日?」
久吉は目を大きくして、
「何日やあらせん。一年と二か月や。一年二か月海の上にいたんや」
「一年二か月とですか。うーむ。わしらは三十五日で、恥ずかしいようなもんですばい」
寿三郎の言葉に、音吉が首を横にふって、
「いやいや、一年二か月というてもな。わしら、飯の食わん日はなかったでな。あんたら、十三日も飲まず食わずとは、大変なことや。米も水も切れては、命にかかわるでな。そのほうが大変や」
音吉は、漂流中の、のどのひりつくような渇《かわ》きを思い出しながら言った。
七人が交々《こもごも》語る漂流の話は、その夜夕食を終えてもなおつづき、夜半まで尽きることがなかった。