四人の驚く顔を、久吉は得意そうに見まわして、
「わしらが乗った船は、もっと大きかったかも知れせんな。な、舵取《かじと》りさん」
「うん。大きかったかも知れせん」
「へえー。この船より大きかと?」
熊太郎が目を丸くした。
「そうや。その大きな戦船に乗ってな。わしらアメリカを五月に出て、エゲレスに着いたのは、次の年の六月や」
「うーん。一年も乗ったとですか」
前に幾度も話した筈《はず》だが、軍艦ローリー号を前にして聞く話は、庄蔵たちには新しかった。岩吉はうなずきながら言った。
「あのな、船頭さん。考えてみるとな。わしらは国を出てから、足かけ六年、丸四年半を過ぎたんや。そのうちな、宝順丸で流されたのが一年二か月。イーグル号に丸々一年。ロンドンからマカオまで、きっちり半年や。つまりな、丸二年と八か月は海の上やった」
「うーん。二年八か月とな。それは、辛《つら》かことよのう」
久吉は得たりとうなずいて、
「辛いの苦しいのなんて言うもんやあらせんかったわ。ほら、あのセーラー……日本語で何と言うやろ、音」
「セーラーか。セーラーはセーラーや。侍《さむらい》ともちがうしな」
「ま、そうやな。あの男たちが登り降りしているシュラウドな。わしらもあの一番高い帆桁《ほげた》まで、何べんも何べんも、登り降りしたんやで」
「ほんとやな、久吉。今考えたら、ようやったわな。それにな、ケープ・ホーンの嵐は恐ろしかったでえ」
二人は交々《こもごも》ホーン岬の形容し難い嵐の恐ろしさを四人に語って聞かせた。そして、破れた帆の代わりに、水兵をあのシュラウドに貼《は》りつかせた提督《ていとく》アンソンの酷薄な話も聞かせた。
「人間の皮をかぶった鬼とですな」
「そぎゃん男は、犬畜生にも劣るとですな」
「恐ろしか」
「恐ろしか」
四人はそれぞれに相槌《あいづち》を打った。久吉が言った。
「それからな。戦船《いくさぶね》はほんとにきびしいんやで。棒を持って追いまくるんや。アイ アイ サアなんや」
「アイ アイ サア? 何とですか、それ」
庄蔵に聞かれて、久吉は頭を掻《か》いた。
「舵取《かじと》りさん、アイ アイ サアは、アイ アイ サアやな」
岩吉は苦笑して、
「アイ アイ サアは、言って見れば、どんな無理な命令でも、口返しのできんことや。心からはいと言うことや。只《ただ》のはいではいかんのや」
「なるほど、絶対服従、問答無用とですか」
庄蔵は語彙《ごい》が豊かであった。音吉がつづけた。
「だから、あんな立派な船ん中でも、辛《つら》いことがあるんや。長い船旅だで水は少ないし、青物はないし、あそこに見えるセーラーたちも、みんな逃げ出したい気持ちで働いているんや」
話しながら、イーグル号で親切にしてくれたサムや「親父」の顔を音吉は思い出した。
(どうしているやろなあ、サムや「親父」は)
ロンドンを発《た》つ時、朝早くわざわざ見送りに来てくれたのだ。
「なあ、舵取りさん」
久吉が岩吉を見て、
「イーグル号を思い出したら、何や乗るのいやになったな。またアイ アイ サアやろからな」
「日本へは二十日ほどというで。二十日ほどなら、たとえ火の雨が降ろうと、槍《やり》の雨が降ろうと、我慢できんわけはあらせん。な、船頭さん」
「まったくですたい。日本へ帰るとなら、どぎゃん辛抱《しんぼう》もできるとです。その上、あんな大きか船ですばい、心配はなかとです」
庄蔵はうなずいた。音吉は目の前のローリー号が、自分たちを乗せて、小野浦の沖に着く様を胸に浮かべた。見たこともない船に、故里《くに》の者たちはさぞ騒ぎ立つことであろう。しかもその船に、五年も前に死んだ筈の自分たちが乗っていると知った時、人々は仰天《ぎようてん》するにちがいない。
(それにしても、父《と》っさまは無事やろか)
(母《かか》さまは元気に決まっとるとは思うが)
(兄さのことを、何と言うて聞かせたらいいやろか)
(お琴はもう嫁に行ったろな)
誰かの人妻となったであろう琴の姿を思い浮かべて、音吉は複雑な思いだった。
「けどなあ、ケープ・フラッタリーのインデアンも恐ろしかったで」
久吉が言った。この話も、幾度か庄蔵たちにしてきたところだ。
「わしらの会った黒んぼたちも恐ろしか」
年少の力松が競うように言った。
「けどな」
何かを考えていた岩吉は、ローリー号に目を据えたまま、
「よう考えてみると、怖い人間は、何も黒ん坊やインデアンばかりではあらせん。日本にも恐ろしい人間はたくさんいるでな」
「それもそうやな」
久吉はすぐにうなずいて、
「舵取《かじと》りさんのいうとおりや。インデアンかて、アー・ダンクは蝮《まむし》みたいやったけど、あのご新造はやさしかったしな。ピーコーかて、かわいかったし。ほら、何と言うたやろ、あの若い男……」
「ドウ・ダーク・テールのことやろ」
「そうやそうや。あの男かて、日本にきても立派なもんや」
寿三郎が足もとの小石を弄《もてあそ》びながら、
「そうかも知れんとです。あぎゃん黒か人を見たことなかったけん、恐ろしか思ったとです。ばってん、見馴《みな》れたら、そぎゃん驚くこともなかとです」
岩吉は二、三度うなずいて、
「わしもそう思うで。見馴れんということ、言葉が通じせんということで、恐ろしく思うだけや。こっちが恐ろしいと思う時は、向こうも恐ろしいと思うにちがいあらせん」
「そうや、そうや。舵取りさんのいうとおりや。わしらかて、インデアンの言葉がわかっていれば、嵐に遭《お》うて流されて来たんや、十四人のうち十一人死んでな、大変な目に遭うて来たんや、と言うことができたわな」
小さな漁船が、次々と港に入って来る。夕日が大陸の山に次第に傾いていく。
「言葉って、大事やなあ。なあるほど、それでバイブルを日本の言葉に……」
言いかけた音吉の脇腹《わきばら》を久吉が小突いて、
「そうや。音の言うとおりや。ナムアミダブツは大切や。な、舵取《かじと》りさん」
「うん。ナムアミダブツな。あれは一体、どんな言葉なんやろ、な、船頭さん」
岩吉は落ち着いて、庄蔵に顔を向けた。幸い九州の四人は、誰も音吉の言いかけた言葉に気づかなかった。
「わしもようは知らんとです。ばってん、仏さまが一緒にいるこつではなかとですか」
「仏さまが、わしらと一緒にいること? インマヌエル・アーメンと、似てるわな」
久吉が思わず言った。
「イマネル? イマネル・メン? それは何のこつとです」
あわてて口をつむぐ久吉に、
「ナムアミダブツをエゲレスの言葉で言うと、そういうことになるんや。な、久吉」
音吉が助け船を出した。
「そうや、そのとおりや。そんなことよりな、あの船に、ほんとに乗って帰れるんやろか。何や胸がじりじりするわ」
久吉は話を外らした。
「ほんとに、じりじりするわなあ。フォート・バンクーバーを出た時のことを思い出すなあ。早う日本に帰りとうて、胸が焼けるようやったなあ」
「さぞかし、わしらの何倍も何倍もの苦労をしたとですのう。辛《つら》か話とです」
「ほんとですたい。わしら九州のもんは、まだまだ運がよかとですたい」
庄蔵につづいて寿三郎が言うと、熊太郎が首を横にふって言った。
「そぎゃなこつなか。わしらも運は悪か。あの飲まず食わずの十三日は、地獄に堕《お》ちたと同じですたい」
「そうやろな。その上、マカオに捨てられてな。腹切りしようと覚悟したんやから、あんたがたも大変なことやった」
岩吉はしみじみといたわった。
ローリー号から時鐘《じしよう》が聞こえた。
「懐かしい音やなあ、舵取《かじと》りさん」
思わず音吉が立ち上がった。
「そうやな。辛いことでも、過ぎ去れば懐かしいものや。あの音は二度と聞きとうないと思うたこともあったがな」
「とにかく、音、何もかも、今に思い出になるんや。みんな家に帰って、父《と》っさまや母《かか》さまに聞かせてやることができるだでな、うれしいなあ、音」
久吉の目尻に涙が光った。夕日が山の端に触れようとしていた。
「わしらが乗った船は、もっと大きかったかも知れせんな。な、舵取《かじと》りさん」
「うん。大きかったかも知れせん」
「へえー。この船より大きかと?」
熊太郎が目を丸くした。
「そうや。その大きな戦船に乗ってな。わしらアメリカを五月に出て、エゲレスに着いたのは、次の年の六月や」
「うーん。一年も乗ったとですか」
前に幾度も話した筈《はず》だが、軍艦ローリー号を前にして聞く話は、庄蔵たちには新しかった。岩吉はうなずきながら言った。
「あのな、船頭さん。考えてみるとな。わしらは国を出てから、足かけ六年、丸四年半を過ぎたんや。そのうちな、宝順丸で流されたのが一年二か月。イーグル号に丸々一年。ロンドンからマカオまで、きっちり半年や。つまりな、丸二年と八か月は海の上やった」
「うーん。二年八か月とな。それは、辛《つら》かことよのう」
久吉は得たりとうなずいて、
「辛いの苦しいのなんて言うもんやあらせんかったわ。ほら、あのセーラー……日本語で何と言うやろ、音」
「セーラーか。セーラーはセーラーや。侍《さむらい》ともちがうしな」
「ま、そうやな。あの男たちが登り降りしているシュラウドな。わしらもあの一番高い帆桁《ほげた》まで、何べんも何べんも、登り降りしたんやで」
「ほんとやな、久吉。今考えたら、ようやったわな。それにな、ケープ・ホーンの嵐は恐ろしかったでえ」
二人は交々《こもごも》ホーン岬の形容し難い嵐の恐ろしさを四人に語って聞かせた。そして、破れた帆の代わりに、水兵をあのシュラウドに貼《は》りつかせた提督《ていとく》アンソンの酷薄な話も聞かせた。
「人間の皮をかぶった鬼とですな」
「そぎゃん男は、犬畜生にも劣るとですな」
「恐ろしか」
「恐ろしか」
四人はそれぞれに相槌《あいづち》を打った。久吉が言った。
「それからな。戦船《いくさぶね》はほんとにきびしいんやで。棒を持って追いまくるんや。アイ アイ サアなんや」
「アイ アイ サア? 何とですか、それ」
庄蔵に聞かれて、久吉は頭を掻《か》いた。
「舵取《かじと》りさん、アイ アイ サアは、アイ アイ サアやな」
岩吉は苦笑して、
「アイ アイ サアは、言って見れば、どんな無理な命令でも、口返しのできんことや。心からはいと言うことや。只《ただ》のはいではいかんのや」
「なるほど、絶対服従、問答無用とですか」
庄蔵は語彙《ごい》が豊かであった。音吉がつづけた。
「だから、あんな立派な船ん中でも、辛《つら》いことがあるんや。長い船旅だで水は少ないし、青物はないし、あそこに見えるセーラーたちも、みんな逃げ出したい気持ちで働いているんや」
話しながら、イーグル号で親切にしてくれたサムや「親父」の顔を音吉は思い出した。
(どうしているやろなあ、サムや「親父」は)
ロンドンを発《た》つ時、朝早くわざわざ見送りに来てくれたのだ。
「なあ、舵取りさん」
久吉が岩吉を見て、
「イーグル号を思い出したら、何や乗るのいやになったな。またアイ アイ サアやろからな」
「日本へは二十日ほどというで。二十日ほどなら、たとえ火の雨が降ろうと、槍《やり》の雨が降ろうと、我慢できんわけはあらせん。な、船頭さん」
「まったくですたい。日本へ帰るとなら、どぎゃん辛抱《しんぼう》もできるとです。その上、あんな大きか船ですばい、心配はなかとです」
庄蔵はうなずいた。音吉は目の前のローリー号が、自分たちを乗せて、小野浦の沖に着く様を胸に浮かべた。見たこともない船に、故里《くに》の者たちはさぞ騒ぎ立つことであろう。しかもその船に、五年も前に死んだ筈の自分たちが乗っていると知った時、人々は仰天《ぎようてん》するにちがいない。
(それにしても、父《と》っさまは無事やろか)
(母《かか》さまは元気に決まっとるとは思うが)
(兄さのことを、何と言うて聞かせたらいいやろか)
(お琴はもう嫁に行ったろな)
誰かの人妻となったであろう琴の姿を思い浮かべて、音吉は複雑な思いだった。
「けどなあ、ケープ・フラッタリーのインデアンも恐ろしかったで」
久吉が言った。この話も、幾度か庄蔵たちにしてきたところだ。
「わしらの会った黒んぼたちも恐ろしか」
年少の力松が競うように言った。
「けどな」
何かを考えていた岩吉は、ローリー号に目を据えたまま、
「よう考えてみると、怖い人間は、何も黒ん坊やインデアンばかりではあらせん。日本にも恐ろしい人間はたくさんいるでな」
「それもそうやな」
久吉はすぐにうなずいて、
「舵取《かじと》りさんのいうとおりや。インデアンかて、アー・ダンクは蝮《まむし》みたいやったけど、あのご新造はやさしかったしな。ピーコーかて、かわいかったし。ほら、何と言うたやろ、あの若い男……」
「ドウ・ダーク・テールのことやろ」
「そうやそうや。あの男かて、日本にきても立派なもんや」
寿三郎が足もとの小石を弄《もてあそ》びながら、
「そうかも知れんとです。あぎゃん黒か人を見たことなかったけん、恐ろしか思ったとです。ばってん、見馴《みな》れたら、そぎゃん驚くこともなかとです」
岩吉は二、三度うなずいて、
「わしもそう思うで。見馴れんということ、言葉が通じせんということで、恐ろしく思うだけや。こっちが恐ろしいと思う時は、向こうも恐ろしいと思うにちがいあらせん」
「そうや、そうや。舵取りさんのいうとおりや。わしらかて、インデアンの言葉がわかっていれば、嵐に遭《お》うて流されて来たんや、十四人のうち十一人死んでな、大変な目に遭うて来たんや、と言うことができたわな」
小さな漁船が、次々と港に入って来る。夕日が大陸の山に次第に傾いていく。
「言葉って、大事やなあ。なあるほど、それでバイブルを日本の言葉に……」
言いかけた音吉の脇腹《わきばら》を久吉が小突いて、
「そうや。音の言うとおりや。ナムアミダブツは大切や。な、舵取《かじと》りさん」
「うん。ナムアミダブツな。あれは一体、どんな言葉なんやろ、な、船頭さん」
岩吉は落ち着いて、庄蔵に顔を向けた。幸い九州の四人は、誰も音吉の言いかけた言葉に気づかなかった。
「わしもようは知らんとです。ばってん、仏さまが一緒にいるこつではなかとですか」
「仏さまが、わしらと一緒にいること? インマヌエル・アーメンと、似てるわな」
久吉が思わず言った。
「イマネル? イマネル・メン? それは何のこつとです」
あわてて口をつむぐ久吉に、
「ナムアミダブツをエゲレスの言葉で言うと、そういうことになるんや。な、久吉」
音吉が助け船を出した。
「そうや、そのとおりや。そんなことよりな、あの船に、ほんとに乗って帰れるんやろか。何や胸がじりじりするわ」
久吉は話を外らした。
「ほんとに、じりじりするわなあ。フォート・バンクーバーを出た時のことを思い出すなあ。早う日本に帰りとうて、胸が焼けるようやったなあ」
「さぞかし、わしらの何倍も何倍もの苦労をしたとですのう。辛《つら》か話とです」
「ほんとですたい。わしら九州のもんは、まだまだ運がよかとですたい」
庄蔵につづいて寿三郎が言うと、熊太郎が首を横にふって言った。
「そぎゃなこつなか。わしらも運は悪か。あの飲まず食わずの十三日は、地獄に堕《お》ちたと同じですたい」
「そうやろな。その上、マカオに捨てられてな。腹切りしようと覚悟したんやから、あんたがたも大変なことやった」
岩吉はしみじみといたわった。
ローリー号から時鐘《じしよう》が聞こえた。
「懐かしい音やなあ、舵取《かじと》りさん」
思わず音吉が立ち上がった。
「そうやな。辛いことでも、過ぎ去れば懐かしいものや。あの音は二度と聞きとうないと思うたこともあったがな」
「とにかく、音、何もかも、今に思い出になるんや。みんな家に帰って、父《と》っさまや母《かか》さまに聞かせてやることができるだでな、うれしいなあ、音」
久吉の目尻に涙が光った。夕日が山の端に触れようとしていた。