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海嶺200

时间: 2020-03-19    进入日语论坛
核心提示:岐《き》 路《ろ》一 一八三七年七月三日。岩吉たち七人は遂にマカオを出発し、その日の夕刻|広東《カントン》東港に着いた。
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岐《き》 路《ろ》

 一八三七年七月三日。岩吉たち七人は遂にマカオを出発し、その日の夕刻|広東《カントン》東港に着いた。マカオ、広東間は帆船で半日がかりの距離にある。この広東港に、五百六十四トンの快速帆船モリソン号が岩吉たちを待っていた。このモリソン号は、福音船《ふくいんせん》ヒマレー号の姉妹船で、同じくオリファント商会に属していた。
オリファント商会のキングは今、船室の小さな机に向かっていた。友人であり、同じ社員であるダグラス・ヘイマンに今回の航海についてのいきさつを書き送ろうと思ったのである。
夜も十時を過ぎ、停泊中のモリソン号の船内は、しんと寝静まっている。傍《かたわ》らのベッドに眠る妻のやさしい横顔を、ランプの光りが仄《ほの》かに照らしていた。
〈親愛なるダグラス。われわれの救い主キリストの神を崇《あが》めてペンを取る。
ぼくは今、モリソン号の船室で、君に手紙を書くところだ。明日、七月四日は、われらの祖国アメリカの独立記念日だ。その独立記念日に、このモリソン号は——どうか驚かないでほしい——日本に向かって出帆する。
だが、実の話、ぼくの心はいささか複雑なのだ。明日、気持ちよくこの広東港を出帆するために、君に向かって、ぼくは胸の中にうごめいているすべてのものを吐き出したいのだ。君は持ち前の忍耐深さ、寛容さ、そして何よりも素晴《すば》らしい信仰をもって、ぼくのこの手紙を読み取ってくれるにちがいない。よい友を持つことは幸せなことだ。と、先《ま》ずぼくはここで神に感謝しよう。
君は記憶していることだろう。ぼくが昨年、ヨーロッパからの船の中で、三人の日本人たちが、北アメリカのケープ・フラッタリーに漂着したことについて聞いたことを。はるばると、遠い西の国日本から、太平洋を一年二か月もかかって漂流してきた話を。あの時ぼくは、かなり興奮して君に告げたものだ。帆柱も舵《かじ》も失ったジャンクに乗って、気も狂わずに生き残ったこの三人は、何という素晴らしい精神力だろうと、君も感動していた筈《はず》だ。
実はね、ダグラス。ぼくがこの三人——いや、正確には、マニラからスペイン政府によって送られて来た漂流民と合わせて七人だが——を日本に送り届けようとしているのだ。
なぜ、ぼくがこの漂流民を日本に送還することになったか。それが実は、ぼくにはすっきりとしないのだ。先ず彼らに最初に会った時のことを話して見よう。
ぼくが昨年十一月マカオに着いた時、プロシャ生まれのギュツラフという宣教師の家で、かの三人の日本人たちに会った。彼らはいわゆる荒くれた船乗りではなかった。あの太平洋を一年二か月も漂流した偉大な精神力の持ち主たちは、何とも礼儀正しい、実に善良な人たちであった。その彼らに会っただけでもぼくは感激したのだが、更《さら》にぼくを驚かせたものは、君、一体何だと思う。それはね、彼らが聖書和訳に協力していたということだ。お蔭《かげ》でギュツラフはヨハネ伝と、ヨハネの書簡上中下を、僅《わず》か一年足らずの間に、翻訳《ほんやく》したというわけだ。彼らは、漢字を知っていたが、書かれたものは、彼らの国のアルファベットで書かれてあった。それはギュツラフの希望で、つとめて彼らの日常語に訳されたものだそうだ。
ぼくはその草稿《そうこう》を見た時の感動を、生涯《しようがい》忘れないだろう。ぼくはその時、心の中に、必ずこの三人を日本に送り届けてやりたいという思いにかられた。この気持ちは、ぼくを知っていてくれる君なら、あやまりなく受け取ってくれると思う。ぼくのその時の気持ちは、実にあのルカ伝十章のサマリヤ人が、強盗に遭《あ》って傷つけられた旅人をねんごろに介抱して、自分のろばに乗せ、宿まで届け、宿賃も治療費も払ってやった、あのやさしさだった。
このぼくの気持ちを察したかのように、ギュツラフも、われわれの商会のヒマレー号で三人を日本に送ってもらえないものかと、ぼくに頼んだ。このギュツラフという伝道者は、イギリス商務庁の高級通訳官としても活躍している語学の天才だ。ダグラス、彼は何と十か国もの言葉を自由に操《あやつ》るという評判だ。また彼は、何か国にも聖書の翻訳《ほんやく》を試みた有能な伝道者だ。
ところが、彼は、熱情家ではあるが、時折《ときおり》熱情にかられる余り、逸脱した行動や考えを持つところがある。ほら、思いついたら実行するという、実に勝《すぐ》れた実行力を持つために、かえって失敗する人間が、この世には時折いるだろう。彼もややその型に入る人間なのだ。
ここでぼくは、もう一人の人間をどうしても君に紹介しなければならない。それは、イギリス商務庁長官エリオットだ。彼もまた、有能な男にはちがいない。有能というより、ぼくには、野心家《やしんか》というほうが的確だと思うが……。彼は一年|程《ほど》前まで次官だった。その次官当時、エリオットは、日本人三人を取り調べた。彼らが、まちがいなく日本人であり、彼らの言うように漂流したかどうかをだ。日本の地図も見せて調べたらしい。ところが彼らは、名古屋から江戸までの航路を誤りなく指さし、遭難した場所も正確に伝えたという。
このエリオットは、多くの自由貿易論者と同様に、武力を持ってでも、イギリスの市場を開拓していきたいと願っていた。当時の長官ロビンソンとは対照的な性格なようだ。彼は三人を日本に送り届けることは、日本に通商を求めるいい機会だと、ロビンソンに進言した。そしてそのための軍艦を要求した。
ところが、イギリス政府は日本との貿易に大した関心を示さず、このエリオットの望みを斥《しりぞ》けた。しかしまもなく、ロビンソンに代わって、エリオットが長官になった。多分イギリス政府は、アヘン貿易に積極的なエリオットのほうを買ったのだろう。
この長官になったエリオットに対して、
「三人の日本人は、清国《しんこく》帆船に乗せて送還せよ」
と、イギリス政府が文書をもって通告して来たことを、ぼくは知った。だが、清国では、日本と古くから通商があって、日本の事情に明るかった。日本人を送り届けても、かえって日本政府の恨《うら》みを買うことを知っていた。そこで、清国はイギリスの提案を拒否した。
というわけで、かわいそうに彼ら三人は、当てもなく帰国の日を待ちわびるより仕方がなかった。何しろ、商務庁は、イギリス政府の指令どおりに動かねばならない。がその指令を果たす道が閉ざされたというわけだ。役所仕事というものは、何れの国においてもこのようなものだ。
むろんこんないきさつは、後から知ったわけだが、ぼくはボルネオ方面に向かったヒマレー号がマカオに戻《もど》り次第、ギュツラフの要請どおり、その船で彼らを日本に送り届けるつもりでいた。彼らを送り届けるために、ぼくはどれほど様々に思いをめぐらせたことだろう。
ところが、今年六月になって、ぼくはエリオットからこう言われたのだ。
「ミスター・キング。ヒマレー号が日本まで彼らを送って行くことには、わたしは賛成できません。琉球《りゆうきゆう》まで送ってくだされば、それで充分だと思います」
ぼくは驚いた。なぜヒマレー号が日本まで彼らを送って行ってはならないのか。エリオットはこう言った。
「琉球は、日本|薩摩藩《さつまはん》と、清国の両方に属しています。したがって、琉球には日本船の便がたくさんある筈《はず》です。その日本船で漂流民を帰してやるほうが安全にちがいない」
なぜ彼がそう言ったか。ぼくはすぐにわかった。彼には漂流民の安全よりも、もっと大事なことがあったのだ。それは、われわれオリファント商会の日本進出を阻止《そし》することだった。
ダグラス。ぼくはエリオットのその底意を知った時、何とも言えない失望を感じた。君なら、その時のぼくの気持ちを察してくれるだろう。ぼくは若い。ぼくはまだまだ未熟だ。三十歳になるまで、まだ三年あるぼくは、エリオットの主張を聞いた途端に、日本へ行く気持ちが萎《な》えてしまったのだ。情けないことだが、ぼくはやはり、よきサマリヤ人ではなかったのだ。これは主《しゆ》(神)の前に、心から頭を垂れて告白しなければならない事実だ。
ぼくが、彼ら三人に初めて会った時、彼らを日本に送り届けたいと思ったその心情は、決して損得|勘定《かんじよう》からではなかった。しかしね、ダグラス、人間という者は恐ろしいものだ。その後、彼ら漂流民を日本に送還する手だてをいろいろ考えている中《うち》に、ぼくはオリファント商会の責任ある地位にある者として、日本との通商を夢みなかったと言ったら、嘘《うそ》になる。ぼくは彼らを安全に送り届けると同時に、日本との通商が成功した報告書を認《したた》めている自分の姿を、幾度か想像した。だが、そう思ったからといって、商社マンとして、それは当然のことだと君は思ってくれるだろう。商社マンは世界の国々との通商をねがっているのだ。もしそれをねがわなかったら、怠惰ということになる。しかし、ぼくは、エリオットがイギリス外務省の命令によって、日本との通商を諦《あきら》めねばならなくなった時に及んで、われわれオリファント商会の好意を無視したことは、余りにも露骨な仕業《しわざ》だと思った。余りにも商売|仇《がたき》としてのあり方だと思った。ぼくはこうして、日本人送還の熱意も、日本への通商の夢も、共にきれいに捨て去った。
ところが、先月六月十八日、イギリス軍艦ローリー号が、マカオに姿を現した。その翌日、ギュツラフはぼくを訪ねて来てこう言った。
「あの日本人三人のことについて、いろいろご心配いただきましたが、彼らもいよいよマカオを発《た》ちます。長官の命令で、彼らをローリー号によって琉球《りゆうきゆう》まで送ることになりました」
ぼくとエリオットとは、気まずいままに別れていた。さすがのエリオットも、わが社のヒマレー号で、しかもぼくたちの意志に反して彼らを琉球まで送らせることを、ためらったのであろう。第一ヒマレー号は、シンガポールからの手紙によれば、まだしばらくマカオに帰ってくる気配《けはい》はなかった。だからぼくも、ヒマレー号を使わず、ローリー号を使うことは、止むを得ないことだろうと思った。
ところがギュツラフは、つれて行くのは、かの岩吉たち三人だけだと、ぼくに告げた。
「三人!?」
滅多に大声を出したことのないぼくだが、その時ばかりは自分でも驚くほど大きな声だった。なぜ三人だけなのか。あの九州の四人組は一体どうなるのか。詰め寄るようにぼくはギュツラフに問うた。と、ギュツラフはこう言ったよ。
「長官の命令なのです。岩吉たち三人は、もともとイギリスのハドソン湾会社が関わっていた者です。そして、今ではイギリス商務庁が彼らの面倒を見ています。しかし九州組の四人は、スペイン政府がマカオに置き去りにした者です。その彼らをわたしの家に預けて、一切《いつさい》の経費を負担しておられるのは、申し上げるまでもなく、あなたがたオリファント商会です。つまり、イギリス政府としては、アメリカのあなたがたが預かっている漂流民にまで、口を挟《はさ》むわけにはいかない、というのが長官の見解なのです」
ダグラス、ぼくは驚いた。いや、呆《あき》れた。「管轄《かんかつ》がちがう」。これが役人の考え方だ。しかし、なぜ七人で一つ屋根に暮らしている者を、三人だけ帰すというのか。君だって理解に苦しむだろう。
確かに一番先に四人に関わったのはぼくたちアメリカ人だ。四人がマカオの港に置き去りにされた時、ぼくの所に清国人が注進に来た。ぼくは駈《か》けつけて彼らを見たが、日に焼け、痩《や》せ細った彼らが、ぼくの目には何国人かわからなかった。そこでぼくは手真似《てまね》で、彼らが字を知っていれば字を書いて見よと言った。驚いたことに、その中の一人が、ぼくがギュツラフの家で見た日本のアルファベットを書いたのだ。ぼくはアメリカ伝道協会のウイリアムズと相談して、日本人のいるギュツラフの家に、四人の世話を頼んだ。確かにエリオットの言うとおり、管轄はちがっている。が、そんなことは問題ではない筈《はず》だ。
三人だけつれていくと言うギュツラフに対して、ぼくは必死になって頼んだ。
「彼ら七人を二分することはやめてほしい」
そして、彼らの唯一の通訳者であるギュツラフとも離ればなれにならぬようにしてほしいと、ぼくは真剣に頼んだ。ギュツラフは言った。
「それはむろん、わたしも願っていることです。しかし、一通訳官に過ぎないわたしには、長官を動かす力はないのです」
ぼくはその時、四人の一切《いつさい》の経費は、今までどおりオリファント商会が持つ。何とか七人を無事に日本に届けてほしいと、一心に頼んだ。
するとその翌日だ。エリオットがわたしの所にやって来た。
「ミスター・キング。あなたは実に親切な人だ。あなたほど気の毒な人に対して心から心配なさる方を、わたしは見たことがない。ミスター・ギュツラフからあなたのお気持ちを聞いて、わたしも感動しました。そこで一つ提案があるのですが……」
彼はこう言った。ダグラス、それはどんな提案だったと思う? 彼はこう言ったのだ。
「先日、わたしは、貴社が彼らを日本まで送ることに反対しました。それは、琉球から日本船に乗って帰るほうが、彼らの安全につながると思ったのです。しかし、あなたのお気持ちをギュツラフから聞きながら、あなたの真実は、日本の政府を動かすにちがいないと思いなおしたのです。もし、まだあなたが日本まで彼らを送ることをお望みになっておられるなら、彼らに関する日本との交渉の一切をオリファント商会にお委《まか》せしたいと思います」
と。
ぼくの心に、冷水を浴びせておきながら、彼はこんなことを言ってきたのだ。わたしは、なぜエリオットの態度が豹変《ひようへん》したのか、実のところよくはわからない。が、言って見れば、(イギリスの官吏《かんり》として、イギリスよりもアメリカに利益を与えることは好ましくない。しかし、アメリカに利益を与える可能性があったとしても、イギリス軍艦によるよりは、オリファント商会に送還を頼んだほうが適切だ)と見て取ったにちがいない。なぜならわが社は、貿易通商を強引に望むのではなく、単純に人道にもとづいて行動していることを、彼は知っているのだから。
しかしね。ダグラス。正直の話、ぼくはすぐにOKする気にはなれなかった。エリオットが長官としての責任において、彼ら漂流民を帰したらいいではないか、という気持ちにおちいった。が、一方ではこうも思った。あの三人は、わがアメリカに漂着した人間である。その日本人を、神は今、ぼくの手に、エリオットを通して委《ゆだ》ねようとしているのではないか。そしてそれは、誕生して間もない、わが愛するアメリカの国旗を日本に対して示す、絶好のチャンスではないか。神はとにかくぼくを用いようとしていられる。ぼくはそうも思った。
しかしそうは思っても、ダグラス、一度冷えた心は恐ろしい。ぼくらは喜んでではなく、いたし方なくエリオットの提案に応じたのだ。エリオットは更《さら》に具体的な提案を示した。「ローリー号にギュツラフと彼ら七人を乗せて琉球まで送る。そこから先はオリファント商会の船に乗せてやってほしい」と言った。そこでぼくはこう言った。「途中までであっても、日本人たちを軍艦に乗せるのは反対だ。それだけでも日本政府の誤解を招く」と、討論を重ねて、遂にぼくの意見が容《い》れられたのは、ローリー号がマカオを離れる直前であった。つまり、マカオに入港した六月十八日から、僅《わず》か一週間の間に、あらまし以上のような論議や、その他細かい打ち合わせが、幾度も重ねられたのだ。
ぼくは七月十五日に、琉球でローリー号と落ち合うために、急いでヒマレー号の代わりの船を探さなければならなかった。幸い、われらの尊敬する中国伝道の始祖モリソン先生の名にちなんで、名づけられたわが社のモリソン号が、ニューヨークから広東に来ていた。
ぼくは、早速モリソン号から大砲を外《はず》すことに決めた。日本政府を刺激しないためだ。キリスト教の冊子を一切《いつさい》モリソン号からおろしたのも、同じ理由からだ。ぼくはキリスト教の冊子を配りに日本に行くのではなく、神の御心《みこころ》をなすために、彼らを送り届けに行くだけだ。明日は独立記念日だが、大砲を外したモリソン号は祝砲を撃たない。只《ただ》、祖国アメリカの自由と、繁栄と、名誉のために、祈りを捧《ささ》げて出発するつもりだ。
最後に、長くなったが、手紙を書いているうちに、人間として一番大事なことは、やはり神の御心をなすということであると、改めて気づいた。あ、言い忘れたが、なぜギュツラフが軍艦ローリー号に乗って、先に出発したか。それは、福州に通訳官としての緊急の任務があるからだ。
君と君のご家族の上に平安を祈る。また半年間、ごぶさたするかも知れない。よいクリスマスを、よい新年を、ついでに、よい誕生日を、そしてイースターを迎えるように祈る。
もう一つ言い忘れたが、ぼくは妻と、お手伝いをつれて日本へ向かうことにした。女性が乗っているのは平和のしるしだ。船長以下、総員三十八名。ぼくらの共通の友人信仰の友ウイリアムズも、医師のパーカーも一緒だ。
一八三七年、七、三、夜 十一時四十五分。
チャールス・ウイリヤム・キング
神の与え給いし友ダグラス・ヘイマンへ〉
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