七月四日に広東《カントン》を出帆したモリソン号は、十二日午前十一時|那覇《なは》港外に錨《いかり》をおろした。
「あ! 日本の船がたくさんいるで」
久吉がいち早く千石船《せんごくぶね》を見つけて、港のほうを指差した。そこには九|隻《せき》の和船が碇泊《ていはく》していた。
「ほんとや、舵取《かじと》りさん。千石船や」
音吉の声も上ずった。庄蔵たち四人も、懐かしげに目を輝かした。
那覇の港には、その両側から石垣造りのがっしりとした長い防波堤が海の中に突き出ていた。その二つの防波堤の先端に、それぞれ小さな城が築かれてあり、向かって左手の防波堤には、更《さら》にもう一つの小城が築かれ、寺まで建てられてあった。そして、その防波堤の上を、馬や人が絶えず往き交っていた。
「どうや、音。あの千石船で日本に帰りとうないか」
久吉の言葉に、音吉は激しく首を横にふって、
「千石船はもうこりごりや。久吉だって、そう言うていたやないか」
と、怒ったように言った。何年ぶりかで見る千石船は、確かに胸の熱くなるほど懐かしかった。だが音吉は、もはや再び千石船に乗りたいとは思わなかった。ホーン岬のあの凄《すさ》まじい嵐をさえ無事に乗り切ったイギリス軍艦イーグル号や、ロンドンからマカオまでのゼネラル・パーマー号の危なげない航海は、千石船のもろさを、いやというほど思い知らせてくれた。
七人が甲板《かんぱん》で話していると、船長がやって来て、急いで船室に隠れるようにと言った。岩吉たちがこの船に乗っていることを琉球の役人に知られるのを恐れたのである。
だが一時間過ぎても、モリソン号に近づいて来る船は一|隻《せき》もない。他の港であれば、傍《かたわ》らを過ぎる漁船でも、珍しげに近づいて来る。が、琉球の漁船は、決してモリソン号に近寄ろうとはしなかった。二時間経ち、三時間経ったが、役人すら訪ねては来ない。船長インガソルは小首をかしげた。キングも、宣教師ウイリアムズも、不審に思った。琉球は清国と、薩摩藩《さつまはん》の両方に属するとは言っても、実はほとんど薩摩藩の勢力下にあって、ヨーロッパ船との通商が許されていなかった。みだりに外国船に近づくことは、あらぬ嫌疑《けんぎ》を受けることになる。しかしそんな琉球の事情を、船長もキングたちも知らなかったのである。
三時を過ぎて、ようやく二隻の小舟がモリソン号に近づいて来た。半裸の男たちが十二人、鮮やかに艪《ろ》をこいでいる。その小舟の中に、琉球の役人が幾人か乗っていた。役人たちは、和服によく似た袖《そで》のひろい衣服をまとい、煙管《きせる》と煙草《たばこ》入れを腰の帯にたばさんでいた。岩吉たちは、小舟の近づくのを船室の窓からそっとうかがっていた。
「わしら見つかったら、どうなるんやろ?」
「心配あらせんやろ。日本のお上《かみ》ではないだでな」
「けどな、どこのお上でも、お上は怖いで」
音吉と久吉はひそひそと語り合った。
しばらく経って、足音がし、琉球の役人たちが船室に入って来た。七人は、はっと身を固くした。が、役人たちは格別|咎《とが》める様子もなく、七人に近づいて何か言った。
「はい、わしらは日本人とです」
庄蔵がつつしんで答えた。
薩摩藩と絶えず交渉のある役人たちは、薩摩弁で何か熱心に庄蔵に語りかけた。岩吉たち三人にはわからなかったが、話を終えた役人は、親しげに庄蔵の肩に手を置き、部屋を出て行った。その様子を、キングがドアの傍《そば》に立って見守っていた。
「船頭さん、あの人たち何と言うたんや?」
役人たちが去ると、待ちかねたように音吉が尋ねた。
「いや、それがのう。流されて、日本に帰るところやと言うたらのう、悪いことは言わん、ヨーロッパの船から降りて、薩摩の船で帰ったほうが安全だと、そぎゃんこつ言うとりましたわ」
「ふーん。薩摩の船で帰ったほうがのう」
寿三郎が落ちつかぬ顔になった。
「そしてのう。これはヨーロッパの人には喋《しやべ》ってはならんと、肩を叩《たた》いて帰ったとですたい」
「ふーん。内緒とのう」
「それでわしは、みんなとよく相談すると答えたとです」
「なるほど。何やもやもやするわな」
久吉が胸のあたりを撫《な》でまわしながら岩吉を見て、
「舵取《かじと》りさん。わしらの気持ちは定まっている筈《はず》やけどな。そんな話を聞いた以上、もう一度はっきり肚《はら》を決めたほうがいいとちがうか。な、船頭さん」
「その通りとです」
一同は岩吉の言葉を待つ顔になった。
「そうやなあ。既《すで》に決めたことやが、改めて言われるとなあ……」
岩吉はややしばらく黙って考えていたが、
「薩摩《さつま》の船で行ったら安全やということやが、それはつまり日本の船やったら、外国の船より、お上《かみ》の気を悪うせんということやろかな」
「多分そぎゃんこつでしょう」
「けどな、どっちの船で帰っても、取り調べはあるやろ。お咎《とが》めはあるやろ」
「むろん、お咎めはあるとです」
「それや、それが問題や。琉球に来る前はどこにいた? マカオにいたと言えば、マカオにいた証拠はあるかと聞かれるやろ。その時、何を証拠にすればいいんや。ロンドンにいたことも、フォート・バンクーバーにいたことも、誰も請《う》け合ってくれんのや。この大嘘《おおうそ》つきがと言って、どんな難癖《なんくせ》をつけられるか知れせん。それが恐ろしいで」
「そうや。舵取《かじと》りさんの言うとおりや」
音吉も不安げに言う。岩吉が言葉をついで、
「確かにな、船頭さん。もし、モリソン号に乗って行ったら、お上は気い悪うするかも知れせんけどな。わしらも知ってのとおり、この船には大砲もなければ、戦《いくさ》する者も乗っておらせん。ミスター・キングのご新造や、女中まで乗っている」
「そのとおりですたい」
「これだけ真を尽くしているんや。大砲の外《はず》した跡まであるんや。日本のお上かて、アメリカやエゲレスの親切が、わからん筈《はず》がないやろ」
「わしも舵取りさんの言うとおりやと思うわ。な、音。だからマカオで聞かれた時に言うたんや。日本の船では帰りとうないとな」
「そうや。第一、わしは日本の船がいやや。嵐が来てまた流されたら、またアメリカや。この上また一年も流されたらどうするんや」
庄蔵たちにしても、長崎と熊本の目と鼻の先で漂流したわけである。和船のもろさをいやというほど身に沁《し》みていた。近いようでも、日本はまだまだ遠い。快速船モリソン号で帰るほうが、より安全だと、七人は思った。しかも、人格円満なキングや、日本語のできるギュツラフに頼っていれば、日本の役人との交渉も、すべてはうまくいくと七人の意見は一致した。
「あ! 日本の船がたくさんいるで」
久吉がいち早く千石船《せんごくぶね》を見つけて、港のほうを指差した。そこには九|隻《せき》の和船が碇泊《ていはく》していた。
「ほんとや、舵取《かじと》りさん。千石船や」
音吉の声も上ずった。庄蔵たち四人も、懐かしげに目を輝かした。
那覇の港には、その両側から石垣造りのがっしりとした長い防波堤が海の中に突き出ていた。その二つの防波堤の先端に、それぞれ小さな城が築かれてあり、向かって左手の防波堤には、更《さら》にもう一つの小城が築かれ、寺まで建てられてあった。そして、その防波堤の上を、馬や人が絶えず往き交っていた。
「どうや、音。あの千石船で日本に帰りとうないか」
久吉の言葉に、音吉は激しく首を横にふって、
「千石船はもうこりごりや。久吉だって、そう言うていたやないか」
と、怒ったように言った。何年ぶりかで見る千石船は、確かに胸の熱くなるほど懐かしかった。だが音吉は、もはや再び千石船に乗りたいとは思わなかった。ホーン岬のあの凄《すさ》まじい嵐をさえ無事に乗り切ったイギリス軍艦イーグル号や、ロンドンからマカオまでのゼネラル・パーマー号の危なげない航海は、千石船のもろさを、いやというほど思い知らせてくれた。
七人が甲板《かんぱん》で話していると、船長がやって来て、急いで船室に隠れるようにと言った。岩吉たちがこの船に乗っていることを琉球の役人に知られるのを恐れたのである。
だが一時間過ぎても、モリソン号に近づいて来る船は一|隻《せき》もない。他の港であれば、傍《かたわ》らを過ぎる漁船でも、珍しげに近づいて来る。が、琉球の漁船は、決してモリソン号に近寄ろうとはしなかった。二時間経ち、三時間経ったが、役人すら訪ねては来ない。船長インガソルは小首をかしげた。キングも、宣教師ウイリアムズも、不審に思った。琉球は清国と、薩摩藩《さつまはん》の両方に属するとは言っても、実はほとんど薩摩藩の勢力下にあって、ヨーロッパ船との通商が許されていなかった。みだりに外国船に近づくことは、あらぬ嫌疑《けんぎ》を受けることになる。しかしそんな琉球の事情を、船長もキングたちも知らなかったのである。
三時を過ぎて、ようやく二隻の小舟がモリソン号に近づいて来た。半裸の男たちが十二人、鮮やかに艪《ろ》をこいでいる。その小舟の中に、琉球の役人が幾人か乗っていた。役人たちは、和服によく似た袖《そで》のひろい衣服をまとい、煙管《きせる》と煙草《たばこ》入れを腰の帯にたばさんでいた。岩吉たちは、小舟の近づくのを船室の窓からそっとうかがっていた。
「わしら見つかったら、どうなるんやろ?」
「心配あらせんやろ。日本のお上《かみ》ではないだでな」
「けどな、どこのお上でも、お上は怖いで」
音吉と久吉はひそひそと語り合った。
しばらく経って、足音がし、琉球の役人たちが船室に入って来た。七人は、はっと身を固くした。が、役人たちは格別|咎《とが》める様子もなく、七人に近づいて何か言った。
「はい、わしらは日本人とです」
庄蔵がつつしんで答えた。
薩摩藩と絶えず交渉のある役人たちは、薩摩弁で何か熱心に庄蔵に語りかけた。岩吉たち三人にはわからなかったが、話を終えた役人は、親しげに庄蔵の肩に手を置き、部屋を出て行った。その様子を、キングがドアの傍《そば》に立って見守っていた。
「船頭さん、あの人たち何と言うたんや?」
役人たちが去ると、待ちかねたように音吉が尋ねた。
「いや、それがのう。流されて、日本に帰るところやと言うたらのう、悪いことは言わん、ヨーロッパの船から降りて、薩摩の船で帰ったほうが安全だと、そぎゃんこつ言うとりましたわ」
「ふーん。薩摩の船で帰ったほうがのう」
寿三郎が落ちつかぬ顔になった。
「そしてのう。これはヨーロッパの人には喋《しやべ》ってはならんと、肩を叩《たた》いて帰ったとですたい」
「ふーん。内緒とのう」
「それでわしは、みんなとよく相談すると答えたとです」
「なるほど。何やもやもやするわな」
久吉が胸のあたりを撫《な》でまわしながら岩吉を見て、
「舵取《かじと》りさん。わしらの気持ちは定まっている筈《はず》やけどな。そんな話を聞いた以上、もう一度はっきり肚《はら》を決めたほうがいいとちがうか。な、船頭さん」
「その通りとです」
一同は岩吉の言葉を待つ顔になった。
「そうやなあ。既《すで》に決めたことやが、改めて言われるとなあ……」
岩吉はややしばらく黙って考えていたが、
「薩摩《さつま》の船で行ったら安全やということやが、それはつまり日本の船やったら、外国の船より、お上《かみ》の気を悪うせんということやろかな」
「多分そぎゃんこつでしょう」
「けどな、どっちの船で帰っても、取り調べはあるやろ。お咎《とが》めはあるやろ」
「むろん、お咎めはあるとです」
「それや、それが問題や。琉球に来る前はどこにいた? マカオにいたと言えば、マカオにいた証拠はあるかと聞かれるやろ。その時、何を証拠にすればいいんや。ロンドンにいたことも、フォート・バンクーバーにいたことも、誰も請《う》け合ってくれんのや。この大嘘《おおうそ》つきがと言って、どんな難癖《なんくせ》をつけられるか知れせん。それが恐ろしいで」
「そうや。舵取《かじと》りさんの言うとおりや」
音吉も不安げに言う。岩吉が言葉をついで、
「確かにな、船頭さん。もし、モリソン号に乗って行ったら、お上は気い悪うするかも知れせんけどな。わしらも知ってのとおり、この船には大砲もなければ、戦《いくさ》する者も乗っておらせん。ミスター・キングのご新造や、女中まで乗っている」
「そのとおりですたい」
「これだけ真を尽くしているんや。大砲の外《はず》した跡まであるんや。日本のお上かて、アメリカやエゲレスの親切が、わからん筈《はず》がないやろ」
「わしも舵取りさんの言うとおりやと思うわ。な、音。だからマカオで聞かれた時に言うたんや。日本の船では帰りとうないとな」
「そうや。第一、わしは日本の船がいやや。嵐が来てまた流されたら、またアメリカや。この上また一年も流されたらどうするんや」
庄蔵たちにしても、長崎と熊本の目と鼻の先で漂流したわけである。和船のもろさをいやというほど身に沁《し》みていた。近いようでも、日本はまだまだ遠い。快速船モリソン号で帰るほうが、より安全だと、七人は思った。しかも、人格円満なキングや、日本語のできるギュツラフに頼っていれば、日本の役人との交渉も、すべてはうまくいくと七人の意見は一致した。