一
帆を張ったロープの軋《きし》む音が絶えない。七月二十九日午前四時、音吉は小用《しようよう》を足した後、船首の甲板《かんぱん》に立って、行く手に目をこらした。まだ明け切らぬ水平線は海とも空ともわかちがたかった。マカオを出て二十七日目、琉球《りゆうきゆう》の那覇《なは》を出てちょうど十五日目になる。音吉は潮風を胸一杯に吸いこんだ。途端に眠気が吹きとんだ。
(今日こそ日本が見えるやろか)
胸苦しいほどの期待に、音吉の胸はふくらんだ。二十五日|頃《ごろ》から、気温が次第に下がって来た。ウイリアムズが、日本に近づいて来た証拠だと言っていた。今朝《けさ》の風は、昨日の朝の風よりさらに涼しい。
「音、早いなあ」
久吉がいつの間にか傍《そば》にやって来て、のびをしながら大きな欠伸《あくび》をした。
「うん」
「おちおち寝てもいられせんわな」
「うん。寝ていられせん。いつ日本が現れるか、胸がわくわくや」
船縁《ふなべり》に塩が白くこびりついている。久吉はその塩を指で掻《か》いてなめた。そしてにやっと笑った。
「何や久吉、何を笑うとる?」
「思い出したんや」
「思い出した? 何のことや」
「ほら、何とか言うたな。バクサ何とかな」
久吉は赤銅色の二の腕に、指で×印を書いて見せた。
「あ、疱瘡《ほうそう》にならんようにって、ドクター・パーカーが船員たちにしてたわな」
「わしらにもしてくれると言うたで、参ったわ。あれ、バクサ……」
「ああ、バクサネイションやろ」
「よお覚えとるな、音は」
「でもな久吉、何を覚えても、もうイングリッシュには用がないで。日本に帰ったら、日本の言葉だけでいいでな」
「ほんとやな。音、日本の言葉だけでいいんや。うれしいな、音」
「うれしいな。何や、ほっとするな。けど、癖になっていて、サンキューだの、アイムソーリーだの、口から出て来んやろか」
「当分は出てくるやろな。出て来てもええわ。日本語しゃべったような顔をしてればええ」
「それもそうやな。エゲレスの言葉は、お上《かみ》かて知れせんでな」
言いながら、しかし音吉は何か不安でもあった。
山羊《やぎ》の鳴く声がした。琉球で山羊や豚をもらったが、それも一頭だけになってしまった。
「音、日本に帰ったら、魚を一杯食えるで。もう四つ足は食わんでもええで」
「四つ足食うたなど、これも日本に帰ったら言えせんな」
「そうやな、言えせんことが、たくさんあるわな。ジーザス・クライストのことは、口が裂けても言えせんしな」
「言えせん言えせん。ただただナムアミダブツや。もの言う度にお念仏となえてたら、まちがいあらせん」
東の空にたなびく雲が、僅《わず》かに黄色を帯びて来た。
「そろそろ舵取《かじと》りさんも九州の船頭さんたちも起きる頃《ころ》やな」
この幾日か、岩吉は日の出前に必ず甲板《かんぱん》に出る。自分の目で日本の姿を捉《とら》えたいと、岩吉は言っていた。
「そうやな」
うなずきながら音吉は、この航海でアメリカ人のキングやウイリアムズ、そしてドクター・パーカーが、岩吉を日々重んじて行く様子を思い返した。数日前にはこんなことがあった。二十五日のその日、船は南西に流れる強い潮流に押し戻《もど》されて、前日に進んだ分だけ無駄《むだ》になってしまった。翌日も、同様に潮に流された。そこで岩吉は進言したのである。
「もっと陸に近づくと、必ず北東に流れる潮に乗ることができる筈《はず》です」
船長のインガソルは謙虚に岩吉の言葉に従った。すると、たちまち岩吉の言うとおり、船は一日に五十三マイルも進むことが出来た。久吉と音吉は、それが何よりも誇らしかった。
「さすがは舵取りさんやな」
九州組の四人の気づかなかったことを、岩吉が気づいた。そのことがまたうれしくてならなかった。
思い出して音吉は、今またそのことを言った。
「ほんとにうれしかったなあ、あん時は。もし舵取りさんがいなかったら、この船やって、どこまで押し流されていたか、わからせんで」
「ほんとや、ほんとや。けど、言うこと聞いてくれた異人さんも偉いわな、音」
「偉い偉い。日本のお上《かみ》だと、ああはいかんで。お前らはひっこんでおれ、と怒鳴るに決まっているでな」
岩吉の進言に、熱心に耳を傾けていた船長インガソルやキングの姿を思い浮かべながら、音吉は心からそう思った。
「ところでなあ、音。この船、ちゃんと日本へ着くやろか」
久吉は空に目をやった。薄墨色の空が次第に青みを帯び、黒く沈んでいた雲が、柔らかな灰色に変わっていた。
「どうしてや久吉。ちゃんと北に向かって進んでいるやないか。日本に向かっているだで、日本に着くやろ」
音吉は、無精《ぶしよう》ひげの目立つ久吉の顔を見た。
「けどな音。船長は日本が初めてだでな。行ったこともない日本に、間違いなく着くやろか。右も左も海ばかりやで」
「それは大丈夫や。久吉だって知ってるやろが。艫《とも》にも舳《みよし》にも、羅針盤《らしんばん》があって、海図もあって、世界中|何処《どこ》へでも、行きたい所へ行けるんや」
「それは知ってるけどな。マシン(機械)やって、こわれることもあるやろ。何や、急に心配になって来たわ」
久吉らしくない言葉だった。が、久吉は、日本が今日明日中に目の前に現れると聞いて、かえって不安にもなるのだ。日本に帰れる喜びが高まれば高まるほど、あらぬ想像も湧《わ》いて来るのだ。
「久吉にそう言われると、何やわしも心配になるけどな。ま、大丈夫や。必ずこの目で、日本の国を見れるで。この足で、日本の土を踏めるで」
「そやな。アメリカからロンドンまで行ったし、ロンドンからマカオまで、ぐるーっと廻《まわ》って来たことだでな。今度はほんのひと月ほどの旅や。大丈夫やな」
フォア・マストのロープが頭上で大きく軋《きし》んだ。その上に、明るくなった空がひろがっていた。
(今日こそ日本が見えるやろか)
胸苦しいほどの期待に、音吉の胸はふくらんだ。二十五日|頃《ごろ》から、気温が次第に下がって来た。ウイリアムズが、日本に近づいて来た証拠だと言っていた。今朝《けさ》の風は、昨日の朝の風よりさらに涼しい。
「音、早いなあ」
久吉がいつの間にか傍《そば》にやって来て、のびをしながら大きな欠伸《あくび》をした。
「うん」
「おちおち寝てもいられせんわな」
「うん。寝ていられせん。いつ日本が現れるか、胸がわくわくや」
船縁《ふなべり》に塩が白くこびりついている。久吉はその塩を指で掻《か》いてなめた。そしてにやっと笑った。
「何や久吉、何を笑うとる?」
「思い出したんや」
「思い出した? 何のことや」
「ほら、何とか言うたな。バクサ何とかな」
久吉は赤銅色の二の腕に、指で×印を書いて見せた。
「あ、疱瘡《ほうそう》にならんようにって、ドクター・パーカーが船員たちにしてたわな」
「わしらにもしてくれると言うたで、参ったわ。あれ、バクサ……」
「ああ、バクサネイションやろ」
「よお覚えとるな、音は」
「でもな久吉、何を覚えても、もうイングリッシュには用がないで。日本に帰ったら、日本の言葉だけでいいでな」
「ほんとやな。音、日本の言葉だけでいいんや。うれしいな、音」
「うれしいな。何や、ほっとするな。けど、癖になっていて、サンキューだの、アイムソーリーだの、口から出て来んやろか」
「当分は出てくるやろな。出て来てもええわ。日本語しゃべったような顔をしてればええ」
「それもそうやな。エゲレスの言葉は、お上《かみ》かて知れせんでな」
言いながら、しかし音吉は何か不安でもあった。
山羊《やぎ》の鳴く声がした。琉球で山羊や豚をもらったが、それも一頭だけになってしまった。
「音、日本に帰ったら、魚を一杯食えるで。もう四つ足は食わんでもええで」
「四つ足食うたなど、これも日本に帰ったら言えせんな」
「そうやな、言えせんことが、たくさんあるわな。ジーザス・クライストのことは、口が裂けても言えせんしな」
「言えせん言えせん。ただただナムアミダブツや。もの言う度にお念仏となえてたら、まちがいあらせん」
東の空にたなびく雲が、僅《わず》かに黄色を帯びて来た。
「そろそろ舵取《かじと》りさんも九州の船頭さんたちも起きる頃《ころ》やな」
この幾日か、岩吉は日の出前に必ず甲板《かんぱん》に出る。自分の目で日本の姿を捉《とら》えたいと、岩吉は言っていた。
「そうやな」
うなずきながら音吉は、この航海でアメリカ人のキングやウイリアムズ、そしてドクター・パーカーが、岩吉を日々重んじて行く様子を思い返した。数日前にはこんなことがあった。二十五日のその日、船は南西に流れる強い潮流に押し戻《もど》されて、前日に進んだ分だけ無駄《むだ》になってしまった。翌日も、同様に潮に流された。そこで岩吉は進言したのである。
「もっと陸に近づくと、必ず北東に流れる潮に乗ることができる筈《はず》です」
船長のインガソルは謙虚に岩吉の言葉に従った。すると、たちまち岩吉の言うとおり、船は一日に五十三マイルも進むことが出来た。久吉と音吉は、それが何よりも誇らしかった。
「さすがは舵取りさんやな」
九州組の四人の気づかなかったことを、岩吉が気づいた。そのことがまたうれしくてならなかった。
思い出して音吉は、今またそのことを言った。
「ほんとにうれしかったなあ、あん時は。もし舵取りさんがいなかったら、この船やって、どこまで押し流されていたか、わからせんで」
「ほんとや、ほんとや。けど、言うこと聞いてくれた異人さんも偉いわな、音」
「偉い偉い。日本のお上《かみ》だと、ああはいかんで。お前らはひっこんでおれ、と怒鳴るに決まっているでな」
岩吉の進言に、熱心に耳を傾けていた船長インガソルやキングの姿を思い浮かべながら、音吉は心からそう思った。
「ところでなあ、音。この船、ちゃんと日本へ着くやろか」
久吉は空に目をやった。薄墨色の空が次第に青みを帯び、黒く沈んでいた雲が、柔らかな灰色に変わっていた。
「どうしてや久吉。ちゃんと北に向かって進んでいるやないか。日本に向かっているだで、日本に着くやろ」
音吉は、無精《ぶしよう》ひげの目立つ久吉の顔を見た。
「けどな音。船長は日本が初めてだでな。行ったこともない日本に、間違いなく着くやろか。右も左も海ばかりやで」
「それは大丈夫や。久吉だって知ってるやろが。艫《とも》にも舳《みよし》にも、羅針盤《らしんばん》があって、海図もあって、世界中|何処《どこ》へでも、行きたい所へ行けるんや」
「それは知ってるけどな。マシン(機械)やって、こわれることもあるやろ。何や、急に心配になって来たわ」
久吉らしくない言葉だった。が、久吉は、日本が今日明日中に目の前に現れると聞いて、かえって不安にもなるのだ。日本に帰れる喜びが高まれば高まるほど、あらぬ想像も湧《わ》いて来るのだ。
「久吉にそう言われると、何やわしも心配になるけどな。ま、大丈夫や。必ずこの目で、日本の国を見れるで。この足で、日本の土を踏めるで」
「そやな。アメリカからロンドンまで行ったし、ロンドンからマカオまで、ぐるーっと廻《まわ》って来たことだでな。今度はほんのひと月ほどの旅や。大丈夫やな」
フォア・マストのロープが頭上で大きく軋《きし》んだ。その上に、明るくなった空がひろがっていた。