「音、雨やな」
眠っていた音吉の脇腹《わきばら》を突つきながら、久吉が窓から外をのぞいた。
「何や、もう朝か」
仄《ほの》かに窓の外が明るい。音吉はむっくりと起き上がった。船倉にはベッドはない。皆、毛布にくるまって床に眠っている。熊太郎のいびきがとりわけ高かった。
「何も見えせんな」
向かい風に雨がしぶいて窓を叩《たた》いた。幾筋も幾筋も雨が窓を流れる。
「どの辺やろ」
音吉も窓に顔を近づけた。
「わからんが、日本の海であることはまちがいあらせん」
「ほんとやなあ。日本の海なんやなあ、日本のなあ」
音吉は夢を見ている心地《ここち》だった。昨日見た、雲一つない富士山の、青空に聳《そび》えた姿が、目の底に焼きついている。緑の豊かな陸地の風景も、はっきりと思い返すことができる。
(あれは夢ではあらせんかったのや)
思いながら、霧雨《きりさめ》の横なぐりに吹きつける窓を見ていると、何か不安でもあった。甲板《かんぱん》を歩く幾人かの足音がひびいて来る。
「音、よく眠れたか」
「うん。夢も見んとよく寝たわ」
昨日一日、バウ・スプリットの上に、風にさらされながら、懐かしい祖国の姿に見入っていた。喜びと、不安の入り混じった緊張の一日であった。夜も目が冴《さ》えてすぐには寝つかれなかったが、一旦《いつたん》寝入ると、誰しも深い眠りに引きこまれた。一番先に寝ついた久吉が、今朝《けさ》は誰よりも早く目がさめた。
半刻程《はんときほど》経つと、一同が起き出した。まだ霧雨を交えた北風が船に挑《いど》みかかっている。甲板に上がった岩吉たち七人は、雨雲の早い動きを見上げながら立っていたが、
「冷たい雨とですのう」
庄蔵が太い眉《まゆ》を寄せて言った。
「ほんとやな、夏だと言うのに」
陽暦一八三七年七月三十日のその日は、日本の暦では即《すなわ》ち天保《てんぽう》八年六月二十八日であった。音吉が言った。
「な、舵取《かじと》りさん、わしらが国を出る時も、寒い雨がつづいていたような気がするがな」
「うん。寒い長雨やった、あの年も」
岩吉はゴム引きのコートの腕を組みながら、遠くに目をやった。と、寿三郎が言った。
「わしらが国を出た天保六年の年も、その前の年も寒か年であったのう。あちこちで飢饉《ききん》騒ぎがあったとですたい。もしかすると、今日まで飢饉がつづいているかも知れんとです」
憂《うれ》わしげに庄蔵は吐息をついた。庄蔵たちが日本を出た年も飢饉であったことは、岩吉たちも聞いていた。しかし年中暖かいマカオに暮らしていて、日本は再び豊作になったかのように、楽観していた。
雨風が絶え間なくコートの裾《すそ》をあおる。音吉はあたりに注意深く視線を投げかけながら、昨夜の赤々と燃え上がる狼火《のろし》を思っていた。モリソン号の来航を江戸に伝えたにちがいないあの狼火は、果たして自分たちに幸いをもたらす狼火か、災いをもたらす狼火かと、心にかかってならなかった。と、僅《わず》かに霧雨《きりさめ》がうすれて、右手に陸地が見えた。
「あ! 舵取りさん、あれは何処《どこ》や?」
岩吉も、他の五人も、音吉の指さす彼方《かなた》に目を凝らした。緑のほとんどない陸地の手前の海に、大きな岩が幾つも見え、一瞬にして霧の中に消えた。
「洲崎《すざき》や! 房総《ぼうそう》の洲崎や。あの沖合《おきあい》の岩は洲崎の岩や」
「洲崎とですか!? すると江戸が近いとですか」
庄蔵が雨の流れる顔を岩吉に向けた。
「そうや。こっちが洲崎なら、やがて浦賀が向こうに見えて来る筈や」
左手を指さした岩吉の顔が生き生きと輝いた。向かい風を受けて、船は間切《まぎ》りながらゆっくりと進んで行く。
しばらくして、雨霧がうすらいできた。時々房総半島の低い陸地や、三浦半島の黒いほどの松の緑が、見えがくれしはじめた。不意に、松の間に青い畠《はたけ》が広がったり、丘の上の農家の煙が、白く吹きなびくのが見えたりする。小さな漁船が、雨風にもめげず、無数に出ている。だが、なぜかモリソン号を見守る気配《けはい》もない。
「異国の船が、珍しくあらせんのかな」
久吉が不思議そうに首をかしげた。
「まことにのう。こぎゃん大きか船が、目に入らんとですかのう」
寿三郎が相槌《あいづち》を打つ。
「けど久吉、この雨風だでな。船の揺れもひどいでな」
「ま、そうやな。わしも父っさまも、あんな小さい船で、よう魚を獲《と》ったもんや。魚獲りも遊びではあらせんでな。一匹でも人より余計獲らねばならん。よそ見も出来せん」
久吉もうなずいた。うなずきながら、漁船の人々の姿に、ひときわ父が懐かしかった。潮焼けして、茶渋をぬったような又平の顔や腕が目の前に見えるようであった。が、この又平が、昨年|既《すで》に死んだことを、むろん久吉が知る筈《はず》もない。
正午|頃《ごろ》であった。
「や! 雷の音ですたい」
船倉で昼飯を取っていた岩吉たちが耳を傾けた。が、何の音も聞こえない。
「力松の空耳《そらみみ》や。この空模様では、雷は鳴らせんで」
久吉がチーズをパンに挟《はさ》みながら言った。
「いや、わしも遠くで雷が鳴ったように聞こえたで」
音吉はスープを手に持ったまま、耳を澄ませた。が、やはり何の音も聞こえない。
「遠い雷なら、心配はなかと」
寿三郎は食うのに余念がない。
窓の外は再び霧が流れていた。まもなく、聞き馴《な》れぬ音が遠くにした。
「ほら、やはり雷とです」
力松が手についたジャムをなめながら、得たりと言った。庄蔵が大きく首を横にふって、
「雷ではなか。大砲《おおづつ》の音の如《ごと》ですたい」
「大砲?」
一同が同時に聞き返した。
「わしは大砲の音を、聞いたことがありますばい」
「大砲言うたら、戦《いくさ》の時に使うものやろ? な、船頭さん」
「言うまでもなか」
一同は食事もそこそこに甲板《かんぱん》に出た。船員たちが大声で呼びかわしながら、帆の向きを変えている。甲板を走り回る靴《くつ》の音、帆柱やロープの軋《きし》む音が、潮風に吹きちぎられる。間を置いて、また砲声が聞こえた。ギュツラフやキングや、ウイリアムズが、インガソル船長と共に、黒い雨コートを着て近づいて来た。
「岩、何の音ですか、あれは」
キングが尋ねた時、またもや砲声が聞こえた。砲声の間隔が短くなったようである。
「大砲だと思います」
岩吉の声が緊張していた。
「やはり大砲ですか」
キングが言い、一同がうなずいた。音は聞こえるが、霧に閉ざされて陸地も砲台も見えない。
「何のための大砲でしょうかね、ミスター・キング」
「キャプテン、こんな経験はわたしにはありませんが、あなたにはおありですか」
インガソル船長は首をふったが、
「岩吉や庄蔵たちを見ていると日本は礼儀正しい国のようです。もしかしたら、このモリソン号を歓迎する礼砲かも知れませんぞ」
「なるほど、礼砲ですか。それはありがたい」
キングもウイリアムズも微笑を浮かべた。がドクター・パーカーは、
「岩、あなたたちはどう思います? 礼砲だと思いますか」
「どうや、船頭さん、礼砲やろか」
岩吉はパーカーの英語を日本語で伝えてから庄蔵に尋《たず》ねた。
「いや、わしは礼儀で大砲を撃つ話は知らんとです。そぎゃんこつ、わしら船乗りは聞いたこつなかたい」
「そうやろな。わしも聞いたことあらせん。第一、異国の船が江戸に来たのを見たこともあらせんしな」
岩吉はパーカーたちに向かって英語で答えた。
「そうですか。礼砲でないとすると、われわれが江戸に近づいた合図かも知れませんね」
パーカーがうなずいた。久吉が言った。
「どうやろ、舵取《かじと》りさん。船にアメリカの国の旗を上げたらええのやないか」
「なるほど、それはええかも知れせんな。エゲレスの旗やオランダの旗ならお上も知っている筈《はず》やが、アメリカの旗は知らん筈だでな。初めて訪ねて来た船なら、扱いもちがうかも知れせん」
アメリカが日本を訪れたのは、これが最初である。従って、曾《かつ》て一度も、日本に迷惑をかけたこともなければ、敵対行為を働いたこともない。久吉の提案で、一同はアメリカ国旗を掲げることに決めた。が、その間も砲声は多くなった。霧が次第にうすらいで来た。灰色の雲が濃く淡く動いている。その動きの中にうす青い空がかすかに見えた。つい先程《さきほど》まで霧にかくれていた鉄色の波のまにまに、長い木片にとまった水鳥が四、五羽揺られていた。その一羽が飛び立つと、僅《わず》かにとまどったような羽搏《はばた》きを見せたが、他の四羽も先の一羽の後を追った。濃い緑に覆《おお》われたなだらかな丘が、左手につらなり、右手の房総半島が海岸線の白波を北に伸ばしていた。モリソン号は既《すで》に浦賀水道を進んでいたのだ。と、その時、
「あっ!? あれは?」
熊太郎が叫んだ。何か黒い物がおよそ半マイル前方の海上に落下するのを見たのだ。次の瞬間、水柱が上がった。
「砲撃です! 砲撃です!」
ウイリアムズが叫んだ。
「礼砲ではなかった!」
キングが唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「われわれの船を狙《ねら》っていることは確かです!」
インガソル船長も無念そうに叫んだ。
「このアメリカの旗が、目に入らんのやろか! な、舵取《かじと》りさん」
久吉の叫びに岩吉は答えなかった。岩吉の頬《ほお》が、ひくひくとけいれんしている。一同が立ち騒ぐ間も砲弾が水柱を立てる。
「ミスター・キング! このまま航行をつづけますか?」
インガソル船長の緊張した声に、一同がキングを見守った。キングはしばらく押し黙っていたが、顔を上げると静かに言った。
「進みましょう」
「進む!?」
インガソルが詰め寄った。
「進みましょう。われわれには、この七人の漂流民を日本に送り届ける義務があるのです」
「しかし……それは無茶だ」
ウイリアムズは肩をすくめ、両手をひらいてみせた。
「無茶かね、ミスター・ウイリアムズ。わたしたちは日本の皇帝に宛《あ》てて、日本訪問に至った理由を文書にしたためて来た。それを手渡しさえしたら、日本政府も穏やかにわたしたちを迎え入れてくれるにちがいない。われわれがもし逆の立場なら、喜んでモリソン号を歓迎するだろう。そして、長い間異郷にさまよっていた漂流民を、大手をひろげて抱きしめるだろう。日本人も、われわれも、同じ情を持った人間の筈《はず》だ。日本政府を信じましょう」
キングは澄んだ目で一点を見つめながら、人々を説得した。若いウイリアムズが大きくうなずいて、
「よし、わかった。日本はわれわれを何か誤解している。引き返すことはいつでも出来る。一つの国と理解し合うことは大切だ。キャプテン、進もうじゃありませんか」
「江戸へですか」
インガソルは気が乗らぬようであった。
「いや、先《ま》ず通行許可証を交付する筈の、ウラガに向かいましょう。あの日本の大砲では、われわれの船まで弾丸が飛んで来る心配はないようです」
インガソル船長はうなずいて、
「とんだ礼砲に見舞われたものだ」
と言い捨てて、急いで海図室のほうに立ち去った。
「どうなるんやろ、久吉」
音吉は心細げに陸地を見つめた。
「どうなるんやろな。ま、手紙が渡れば、お上《かみ》かてわかってくれるやろが……」
「しかし、よその国の船に向かって、こっちの話も聞かずに、いきなり大砲《おおづつ》を向けるなんてなあ。何や恥ずかしいわなあ」
二人の話を聞いて庄蔵がたしなめるように言った。
「お上にはお上の理屈があるとですばい」
「けどな、いくらお上かて、挨拶《あいさつ》のしようがあるやろ」
「そうやな、大砲《おおづつ》が挨拶とは驚いたな、音」
ハドソン湾会社によって、インデアンの手から救い出されて以来今日まで、マクラフリン博士、ミスター・グリーン、ギュツラフ、キング等々の生き方を見て来た尾張《おわり》の三人組のほうが、九州の庄蔵たちよりも、少し視野が広くなっていた。人間が尊重されるということが、どんなことかもわかっていた。
やがてモリソン号は、浦賀に二マイル程《ほど》の地点まで、船を進めた。と突如《とつじよ》、間近な台地から砲声がとどろいた。砲弾が唸《うな》りを立てて、陸地と船との真ん中に落ちた。船長が言った。
「航行を停止せよと言うことですよ」
船はおもむろに風下に向きを変え、陸地から一マイル離れた海に碇《いかり》をおろした。この場所は野比《のび》の海岸に近かった。時は午後三時|頃《ごろ》である。大砲は尚《なお》も次々と撃ち出された。砲台が平根山の白壁のがっしりとした建物に据《す》えられているのがよく見えた。この平根山の対岸からも砲弾は飛ぶ。が、湾の広さは五、六マイルもあって、モリソン号は静かに砲弾の及ばぬ地点に待避《たいひ》した。まもなく砲撃は止んだ。
「よかったなあ、舵取《かじと》りさん」
事のなり行きを、息を詰めて見ていた音吉が、ようやくほっとした顔で言った。
「うん、よかった」
岩吉も大きくうなずいた。
再び砲撃する気配《けはい》のないのを見定めると、モリソン号は縮帆《しゆくはん》の作業に移った。岩吉、音吉、久吉の三人も、シュラウドを伝って帆桁《ほげた》に取りついた。フォート・バンクーバーからロンドンまでのイーグル号での一年間に、シュラウドを登ることにも、縮帆することにも三人は馴《な》れていた。
「ほんとによかったな、久吉」
作業《さぎよう》をしながら、音吉は幾度も言った。砲撃さえ止めば、話し合いはつくにちがいない。話し合いがつけば、たとえ役人の詮議《せんぎ》がきびしくても、とにかく年内にはわが家に帰れると思う。
(父っさま。母さま。わしはとうとう帰って来たで)
踊り出したい思いだった。高い帆桁の上から、すぐ向こうに浦賀の港が見える。家がぎっしりと立ち並んでいる。そのうしろに耕された丘の畠《はたけ》が眺《なが》められた。港も丘も船の揺れる度《たび》に上下して見えた。
(お琴は嫁に行ったやろな)
そう思った瞬間、俄《にわ》かに淋《さび》しさが音吉を襲った。遠い異国で諦《あきら》めていた時とは、ちがった淋しさだった。目の前に日本の家々を見、山々を見、丘を見、風になびく木々を見て、不意に琴が惜しくなったのだ。音吉にとって、女とは即《すなわ》ち琴であった。
(お琴は、わしと同じ齢《とし》やもな)
日本を出る時、音吉はまだ十四歳であった。が、今は肩幅もがっしりとした十九歳の若者になっている。同じ齢の琴も十九歳になっているわけだ。
(十九の厄《やく》まで嫁に行かん娘は少ないでな)
自分に言い聞かせるように、音吉は心の中で言う。
帆を巻き縮めて甲板《かんぱん》に下りた時、キングが岩吉たちに言った。
「急いで下に入りなさい。役人が来たようです」
見ると、浦賀のほうから一隻の小舟がモリソン号を目ざして近づいて来た。
眠っていた音吉の脇腹《わきばら》を突つきながら、久吉が窓から外をのぞいた。
「何や、もう朝か」
仄《ほの》かに窓の外が明るい。音吉はむっくりと起き上がった。船倉にはベッドはない。皆、毛布にくるまって床に眠っている。熊太郎のいびきがとりわけ高かった。
「何も見えせんな」
向かい風に雨がしぶいて窓を叩《たた》いた。幾筋も幾筋も雨が窓を流れる。
「どの辺やろ」
音吉も窓に顔を近づけた。
「わからんが、日本の海であることはまちがいあらせん」
「ほんとやなあ。日本の海なんやなあ、日本のなあ」
音吉は夢を見ている心地《ここち》だった。昨日見た、雲一つない富士山の、青空に聳《そび》えた姿が、目の底に焼きついている。緑の豊かな陸地の風景も、はっきりと思い返すことができる。
(あれは夢ではあらせんかったのや)
思いながら、霧雨《きりさめ》の横なぐりに吹きつける窓を見ていると、何か不安でもあった。甲板《かんぱん》を歩く幾人かの足音がひびいて来る。
「音、よく眠れたか」
「うん。夢も見んとよく寝たわ」
昨日一日、バウ・スプリットの上に、風にさらされながら、懐かしい祖国の姿に見入っていた。喜びと、不安の入り混じった緊張の一日であった。夜も目が冴《さ》えてすぐには寝つかれなかったが、一旦《いつたん》寝入ると、誰しも深い眠りに引きこまれた。一番先に寝ついた久吉が、今朝《けさ》は誰よりも早く目がさめた。
半刻程《はんときほど》経つと、一同が起き出した。まだ霧雨を交えた北風が船に挑《いど》みかかっている。甲板に上がった岩吉たち七人は、雨雲の早い動きを見上げながら立っていたが、
「冷たい雨とですのう」
庄蔵が太い眉《まゆ》を寄せて言った。
「ほんとやな、夏だと言うのに」
陽暦一八三七年七月三十日のその日は、日本の暦では即《すなわ》ち天保《てんぽう》八年六月二十八日であった。音吉が言った。
「な、舵取《かじと》りさん、わしらが国を出る時も、寒い雨がつづいていたような気がするがな」
「うん。寒い長雨やった、あの年も」
岩吉はゴム引きのコートの腕を組みながら、遠くに目をやった。と、寿三郎が言った。
「わしらが国を出た天保六年の年も、その前の年も寒か年であったのう。あちこちで飢饉《ききん》騒ぎがあったとですたい。もしかすると、今日まで飢饉がつづいているかも知れんとです」
憂《うれ》わしげに庄蔵は吐息をついた。庄蔵たちが日本を出た年も飢饉であったことは、岩吉たちも聞いていた。しかし年中暖かいマカオに暮らしていて、日本は再び豊作になったかのように、楽観していた。
雨風が絶え間なくコートの裾《すそ》をあおる。音吉はあたりに注意深く視線を投げかけながら、昨夜の赤々と燃え上がる狼火《のろし》を思っていた。モリソン号の来航を江戸に伝えたにちがいないあの狼火は、果たして自分たちに幸いをもたらす狼火か、災いをもたらす狼火かと、心にかかってならなかった。と、僅《わず》かに霧雨《きりさめ》がうすれて、右手に陸地が見えた。
「あ! 舵取りさん、あれは何処《どこ》や?」
岩吉も、他の五人も、音吉の指さす彼方《かなた》に目を凝らした。緑のほとんどない陸地の手前の海に、大きな岩が幾つも見え、一瞬にして霧の中に消えた。
「洲崎《すざき》や! 房総《ぼうそう》の洲崎や。あの沖合《おきあい》の岩は洲崎の岩や」
「洲崎とですか!? すると江戸が近いとですか」
庄蔵が雨の流れる顔を岩吉に向けた。
「そうや。こっちが洲崎なら、やがて浦賀が向こうに見えて来る筈や」
左手を指さした岩吉の顔が生き生きと輝いた。向かい風を受けて、船は間切《まぎ》りながらゆっくりと進んで行く。
しばらくして、雨霧がうすらいできた。時々房総半島の低い陸地や、三浦半島の黒いほどの松の緑が、見えがくれしはじめた。不意に、松の間に青い畠《はたけ》が広がったり、丘の上の農家の煙が、白く吹きなびくのが見えたりする。小さな漁船が、雨風にもめげず、無数に出ている。だが、なぜかモリソン号を見守る気配《けはい》もない。
「異国の船が、珍しくあらせんのかな」
久吉が不思議そうに首をかしげた。
「まことにのう。こぎゃん大きか船が、目に入らんとですかのう」
寿三郎が相槌《あいづち》を打つ。
「けど久吉、この雨風だでな。船の揺れもひどいでな」
「ま、そうやな。わしも父っさまも、あんな小さい船で、よう魚を獲《と》ったもんや。魚獲りも遊びではあらせんでな。一匹でも人より余計獲らねばならん。よそ見も出来せん」
久吉もうなずいた。うなずきながら、漁船の人々の姿に、ひときわ父が懐かしかった。潮焼けして、茶渋をぬったような又平の顔や腕が目の前に見えるようであった。が、この又平が、昨年|既《すで》に死んだことを、むろん久吉が知る筈《はず》もない。
正午|頃《ごろ》であった。
「や! 雷の音ですたい」
船倉で昼飯を取っていた岩吉たちが耳を傾けた。が、何の音も聞こえない。
「力松の空耳《そらみみ》や。この空模様では、雷は鳴らせんで」
久吉がチーズをパンに挟《はさ》みながら言った。
「いや、わしも遠くで雷が鳴ったように聞こえたで」
音吉はスープを手に持ったまま、耳を澄ませた。が、やはり何の音も聞こえない。
「遠い雷なら、心配はなかと」
寿三郎は食うのに余念がない。
窓の外は再び霧が流れていた。まもなく、聞き馴《な》れぬ音が遠くにした。
「ほら、やはり雷とです」
力松が手についたジャムをなめながら、得たりと言った。庄蔵が大きく首を横にふって、
「雷ではなか。大砲《おおづつ》の音の如《ごと》ですたい」
「大砲?」
一同が同時に聞き返した。
「わしは大砲の音を、聞いたことがありますばい」
「大砲言うたら、戦《いくさ》の時に使うものやろ? な、船頭さん」
「言うまでもなか」
一同は食事もそこそこに甲板《かんぱん》に出た。船員たちが大声で呼びかわしながら、帆の向きを変えている。甲板を走り回る靴《くつ》の音、帆柱やロープの軋《きし》む音が、潮風に吹きちぎられる。間を置いて、また砲声が聞こえた。ギュツラフやキングや、ウイリアムズが、インガソル船長と共に、黒い雨コートを着て近づいて来た。
「岩、何の音ですか、あれは」
キングが尋ねた時、またもや砲声が聞こえた。砲声の間隔が短くなったようである。
「大砲だと思います」
岩吉の声が緊張していた。
「やはり大砲ですか」
キングが言い、一同がうなずいた。音は聞こえるが、霧に閉ざされて陸地も砲台も見えない。
「何のための大砲でしょうかね、ミスター・キング」
「キャプテン、こんな経験はわたしにはありませんが、あなたにはおありですか」
インガソル船長は首をふったが、
「岩吉や庄蔵たちを見ていると日本は礼儀正しい国のようです。もしかしたら、このモリソン号を歓迎する礼砲かも知れませんぞ」
「なるほど、礼砲ですか。それはありがたい」
キングもウイリアムズも微笑を浮かべた。がドクター・パーカーは、
「岩、あなたたちはどう思います? 礼砲だと思いますか」
「どうや、船頭さん、礼砲やろか」
岩吉はパーカーの英語を日本語で伝えてから庄蔵に尋《たず》ねた。
「いや、わしは礼儀で大砲を撃つ話は知らんとです。そぎゃんこつ、わしら船乗りは聞いたこつなかたい」
「そうやろな。わしも聞いたことあらせん。第一、異国の船が江戸に来たのを見たこともあらせんしな」
岩吉はパーカーたちに向かって英語で答えた。
「そうですか。礼砲でないとすると、われわれが江戸に近づいた合図かも知れませんね」
パーカーがうなずいた。久吉が言った。
「どうやろ、舵取《かじと》りさん。船にアメリカの国の旗を上げたらええのやないか」
「なるほど、それはええかも知れせんな。エゲレスの旗やオランダの旗ならお上も知っている筈《はず》やが、アメリカの旗は知らん筈だでな。初めて訪ねて来た船なら、扱いもちがうかも知れせん」
アメリカが日本を訪れたのは、これが最初である。従って、曾《かつ》て一度も、日本に迷惑をかけたこともなければ、敵対行為を働いたこともない。久吉の提案で、一同はアメリカ国旗を掲げることに決めた。が、その間も砲声は多くなった。霧が次第にうすらいで来た。灰色の雲が濃く淡く動いている。その動きの中にうす青い空がかすかに見えた。つい先程《さきほど》まで霧にかくれていた鉄色の波のまにまに、長い木片にとまった水鳥が四、五羽揺られていた。その一羽が飛び立つと、僅《わず》かにとまどったような羽搏《はばた》きを見せたが、他の四羽も先の一羽の後を追った。濃い緑に覆《おお》われたなだらかな丘が、左手につらなり、右手の房総半島が海岸線の白波を北に伸ばしていた。モリソン号は既《すで》に浦賀水道を進んでいたのだ。と、その時、
「あっ!? あれは?」
熊太郎が叫んだ。何か黒い物がおよそ半マイル前方の海上に落下するのを見たのだ。次の瞬間、水柱が上がった。
「砲撃です! 砲撃です!」
ウイリアムズが叫んだ。
「礼砲ではなかった!」
キングが唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「われわれの船を狙《ねら》っていることは確かです!」
インガソル船長も無念そうに叫んだ。
「このアメリカの旗が、目に入らんのやろか! な、舵取《かじと》りさん」
久吉の叫びに岩吉は答えなかった。岩吉の頬《ほお》が、ひくひくとけいれんしている。一同が立ち騒ぐ間も砲弾が水柱を立てる。
「ミスター・キング! このまま航行をつづけますか?」
インガソル船長の緊張した声に、一同がキングを見守った。キングはしばらく押し黙っていたが、顔を上げると静かに言った。
「進みましょう」
「進む!?」
インガソルが詰め寄った。
「進みましょう。われわれには、この七人の漂流民を日本に送り届ける義務があるのです」
「しかし……それは無茶だ」
ウイリアムズは肩をすくめ、両手をひらいてみせた。
「無茶かね、ミスター・ウイリアムズ。わたしたちは日本の皇帝に宛《あ》てて、日本訪問に至った理由を文書にしたためて来た。それを手渡しさえしたら、日本政府も穏やかにわたしたちを迎え入れてくれるにちがいない。われわれがもし逆の立場なら、喜んでモリソン号を歓迎するだろう。そして、長い間異郷にさまよっていた漂流民を、大手をひろげて抱きしめるだろう。日本人も、われわれも、同じ情を持った人間の筈《はず》だ。日本政府を信じましょう」
キングは澄んだ目で一点を見つめながら、人々を説得した。若いウイリアムズが大きくうなずいて、
「よし、わかった。日本はわれわれを何か誤解している。引き返すことはいつでも出来る。一つの国と理解し合うことは大切だ。キャプテン、進もうじゃありませんか」
「江戸へですか」
インガソルは気が乗らぬようであった。
「いや、先《ま》ず通行許可証を交付する筈の、ウラガに向かいましょう。あの日本の大砲では、われわれの船まで弾丸が飛んで来る心配はないようです」
インガソル船長はうなずいて、
「とんだ礼砲に見舞われたものだ」
と言い捨てて、急いで海図室のほうに立ち去った。
「どうなるんやろ、久吉」
音吉は心細げに陸地を見つめた。
「どうなるんやろな。ま、手紙が渡れば、お上《かみ》かてわかってくれるやろが……」
「しかし、よその国の船に向かって、こっちの話も聞かずに、いきなり大砲《おおづつ》を向けるなんてなあ。何や恥ずかしいわなあ」
二人の話を聞いて庄蔵がたしなめるように言った。
「お上にはお上の理屈があるとですばい」
「けどな、いくらお上かて、挨拶《あいさつ》のしようがあるやろ」
「そうやな、大砲《おおづつ》が挨拶とは驚いたな、音」
ハドソン湾会社によって、インデアンの手から救い出されて以来今日まで、マクラフリン博士、ミスター・グリーン、ギュツラフ、キング等々の生き方を見て来た尾張《おわり》の三人組のほうが、九州の庄蔵たちよりも、少し視野が広くなっていた。人間が尊重されるということが、どんなことかもわかっていた。
やがてモリソン号は、浦賀に二マイル程《ほど》の地点まで、船を進めた。と突如《とつじよ》、間近な台地から砲声がとどろいた。砲弾が唸《うな》りを立てて、陸地と船との真ん中に落ちた。船長が言った。
「航行を停止せよと言うことですよ」
船はおもむろに風下に向きを変え、陸地から一マイル離れた海に碇《いかり》をおろした。この場所は野比《のび》の海岸に近かった。時は午後三時|頃《ごろ》である。大砲は尚《なお》も次々と撃ち出された。砲台が平根山の白壁のがっしりとした建物に据《す》えられているのがよく見えた。この平根山の対岸からも砲弾は飛ぶ。が、湾の広さは五、六マイルもあって、モリソン号は静かに砲弾の及ばぬ地点に待避《たいひ》した。まもなく砲撃は止んだ。
「よかったなあ、舵取《かじと》りさん」
事のなり行きを、息を詰めて見ていた音吉が、ようやくほっとした顔で言った。
「うん、よかった」
岩吉も大きくうなずいた。
再び砲撃する気配《けはい》のないのを見定めると、モリソン号は縮帆《しゆくはん》の作業に移った。岩吉、音吉、久吉の三人も、シュラウドを伝って帆桁《ほげた》に取りついた。フォート・バンクーバーからロンドンまでのイーグル号での一年間に、シュラウドを登ることにも、縮帆することにも三人は馴《な》れていた。
「ほんとによかったな、久吉」
作業《さぎよう》をしながら、音吉は幾度も言った。砲撃さえ止めば、話し合いはつくにちがいない。話し合いがつけば、たとえ役人の詮議《せんぎ》がきびしくても、とにかく年内にはわが家に帰れると思う。
(父っさま。母さま。わしはとうとう帰って来たで)
踊り出したい思いだった。高い帆桁の上から、すぐ向こうに浦賀の港が見える。家がぎっしりと立ち並んでいる。そのうしろに耕された丘の畠《はたけ》が眺《なが》められた。港も丘も船の揺れる度《たび》に上下して見えた。
(お琴は嫁に行ったやろな)
そう思った瞬間、俄《にわ》かに淋《さび》しさが音吉を襲った。遠い異国で諦《あきら》めていた時とは、ちがった淋しさだった。目の前に日本の家々を見、山々を見、丘を見、風になびく木々を見て、不意に琴が惜しくなったのだ。音吉にとって、女とは即《すなわ》ち琴であった。
(お琴は、わしと同じ齢《とし》やもな)
日本を出る時、音吉はまだ十四歳であった。が、今は肩幅もがっしりとした十九歳の若者になっている。同じ齢の琴も十九歳になっているわけだ。
(十九の厄《やく》まで嫁に行かん娘は少ないでな)
自分に言い聞かせるように、音吉は心の中で言う。
帆を巻き縮めて甲板《かんぱん》に下りた時、キングが岩吉たちに言った。
「急いで下に入りなさい。役人が来たようです」
見ると、浦賀のほうから一隻の小舟がモリソン号を目ざして近づいて来た。