「どうしてわしらを甲板に出させんのやろ、舵取《かじと》りさん」
音吉は額を窓につけて、近づいて来る舟に目をやった。誰もが同じようにその舟を見つめている。
「何や考えがあってのことやろ」
岩吉が答えずに、久吉が言った。
「どんな考えやろ? な、舵取りさん」
日本人がこの船に乗っていることを、早く知らせたほうがよいのではないかと音吉は思った。外国船と見たからこそ大砲を撃って来たのだ。しかし日本人が七人も乗っていると知れば、いかに何があっても大砲を向けることはあるまい。音吉は単純にそう思った。岩吉が言った。
「ミスター・キングとミスター・ギュツラフが言うていたがな。日本の下役人に、いきなりわしらを見せては、事がこんがらがるかも知れんというのや」
岩吉の言葉にすぐにうなずいたのは庄蔵であった。
「なるほど、そうかも知れんとですのう」
キングたちは徳川幕府に対して、モリソン号が日本を訪れた理由を、書類に認《したた》めてきた。その書類によって、意図を誤りなく受けとめてほしかった。何よりも先《ま》ず、七人の漂流民の安全を保証してほしかった。そしてまた、今後のアメリカとの通商の許可をも得たかったのである。だから、漂流民たちを直接下役人たちに会わせたくはなかった。会えば当然質問がある。それに答えねばならない。その答えを正確に受けとめてくれればいい。が、口頭《こうとう》による伝達が正確になされることはむずかしい。その上持参した書状がかえっておろそかに扱われるかも知れない。キングたちはそう判断したのだ。そんなわけで、とにかく漂流民を下役人には会わせぬがよいと決めたのである。
「ふーん。けどなあ、舵取りさん。わしら日本人やろ。役人も日本人やろ。したら、まちがいなく話は通ずるのとちがうか。事情がよくわかってもらえるのとちがうか」
「そうやな。異人の書いた清国語《しんこくご》の手紙より、わしらが口で言うたほうが、わかりは早いかも知れせんわな。けどな……」
岩吉は音吉を見ながら、
「やっぱりそれは無理やろ」
と、かすかに笑った。
「何で無理や?」
「考えて見い。わしらが遠州灘《えんしゆうなだ》で嵐に遭《あ》ったこと、一年二か月も流されていたこと、インデアンにつかまったこと、ハドソンベイのカンパニーに救われたこと、イーグル号でロンドンまで運んでもらったこと、そんなことをいろいろ言うても、異国の名前や、異人の名を聞いただけで、頭がこんがらがるで。な、船頭さん」
「そのとおりです。わしらも何べんも聞いたが、マクラフリンが土地の名前やら、インデアンが人の名前やら、いまだにはっきりせんとです。のう、寿三郎、熊太郎」
寿三郎も熊太郎もうなずいて、
「船頭さんの言うとおりですたい。ロンドンか、ドンドンか、すぐ忘れるですたい。どの船にどれだけ乗っておられたか、幾度も聞いたこつですが、ばってんなかなか頭におさまらんとです」
「なるほどなあ、そうかも知れせん。人の身の上に出来たことだでな。わしらにしても、船頭さんたちの苦労は、まだ身に沁《し》みてはおらんでな」
音吉がうなずいた。
「そうや、そんなもんや、音。まして一人二人の役人が話を聞いてくれても、まちがいなく事が伝わるかどうか、わからせん。恐らく必ず曲がって伝わるやろ」
岩吉の言葉に、久吉が言った。
「そりゃ事や。曲がって伝わったら、あいつらまちがいなくキリシタンやなぞと、訴えるかも知れせんで」
「ほんとですたい。恐ろしかこつです」
「桑原《くわばら》桑原。そりゃ事や」
みんな首をちぢめた。
「なるほど、ものには順序があるとですのう。口頭《こうとう》より、文《ふみ》のほうが安全とです」
その時、みんなの話を片耳に、窓から外を見ていた力松が叫んだ。
「仰山《ぎようさん》な船じゃ! 仰山な船じゃ!」
いつのまにか輪になって話していた一同が、あわてて窓の外を見ると、雨にもめげず百|隻《せき》余りもの漁船が、モリソン号を遠巻きにしていた。
「見物やろか」
久吉が言ったが、誰も答えずに、窓にへばりついて、それらの船を見守った。老人もいる。若者もいる。大人もいれば、女の子もいる。
(日本の人々や! 日本の人の顔や!)
音吉は懐かしさに、胸が張り裂けそうであった。こんなにたくさんの日本人を見るのは、幾年ぶりのことであろう。
(わしらも日本人だでーっ! 同じ日本人だでーっ!)
叫び出したい思いをこらえて、音吉はまばたきもしない。
「日本のちょん髷《まげ》ですのう」
寿三郎が言い、
「日本の蓑《みの》や。懐かしいなあ」
と、久吉が言った。平気で雨にぬれている者たちの中に、蓑をつけた姿が幾つかあった。
まもなく、漁民たちは櫓《ろ》を漕《こ》いで近寄って来た。多分|甲板《かんぱん》で、ギュツラフたちが来るようにと合図したのであろう。好奇に満ちた目をモリソン号に注ぎながら、漁民たちが近づいて来た。
「さっきの役人はどこへ行ったんやろ」
音吉がやや不安げに言った。
「もう船に上がっとるのとちがうか」
久吉が事もなげに言った時、船員の一人が入って来て、船底にかくれるようにと指示して去った。
音吉は額を窓につけて、近づいて来る舟に目をやった。誰もが同じようにその舟を見つめている。
「何や考えがあってのことやろ」
岩吉が答えずに、久吉が言った。
「どんな考えやろ? な、舵取りさん」
日本人がこの船に乗っていることを、早く知らせたほうがよいのではないかと音吉は思った。外国船と見たからこそ大砲を撃って来たのだ。しかし日本人が七人も乗っていると知れば、いかに何があっても大砲を向けることはあるまい。音吉は単純にそう思った。岩吉が言った。
「ミスター・キングとミスター・ギュツラフが言うていたがな。日本の下役人に、いきなりわしらを見せては、事がこんがらがるかも知れんというのや」
岩吉の言葉にすぐにうなずいたのは庄蔵であった。
「なるほど、そうかも知れんとですのう」
キングたちは徳川幕府に対して、モリソン号が日本を訪れた理由を、書類に認《したた》めてきた。その書類によって、意図を誤りなく受けとめてほしかった。何よりも先《ま》ず、七人の漂流民の安全を保証してほしかった。そしてまた、今後のアメリカとの通商の許可をも得たかったのである。だから、漂流民たちを直接下役人たちに会わせたくはなかった。会えば当然質問がある。それに答えねばならない。その答えを正確に受けとめてくれればいい。が、口頭《こうとう》による伝達が正確になされることはむずかしい。その上持参した書状がかえっておろそかに扱われるかも知れない。キングたちはそう判断したのだ。そんなわけで、とにかく漂流民を下役人には会わせぬがよいと決めたのである。
「ふーん。けどなあ、舵取りさん。わしら日本人やろ。役人も日本人やろ。したら、まちがいなく話は通ずるのとちがうか。事情がよくわかってもらえるのとちがうか」
「そうやな。異人の書いた清国語《しんこくご》の手紙より、わしらが口で言うたほうが、わかりは早いかも知れせんわな。けどな……」
岩吉は音吉を見ながら、
「やっぱりそれは無理やろ」
と、かすかに笑った。
「何で無理や?」
「考えて見い。わしらが遠州灘《えんしゆうなだ》で嵐に遭《あ》ったこと、一年二か月も流されていたこと、インデアンにつかまったこと、ハドソンベイのカンパニーに救われたこと、イーグル号でロンドンまで運んでもらったこと、そんなことをいろいろ言うても、異国の名前や、異人の名を聞いただけで、頭がこんがらがるで。な、船頭さん」
「そのとおりです。わしらも何べんも聞いたが、マクラフリンが土地の名前やら、インデアンが人の名前やら、いまだにはっきりせんとです。のう、寿三郎、熊太郎」
寿三郎も熊太郎もうなずいて、
「船頭さんの言うとおりですたい。ロンドンか、ドンドンか、すぐ忘れるですたい。どの船にどれだけ乗っておられたか、幾度も聞いたこつですが、ばってんなかなか頭におさまらんとです」
「なるほどなあ、そうかも知れせん。人の身の上に出来たことだでな。わしらにしても、船頭さんたちの苦労は、まだ身に沁《し》みてはおらんでな」
音吉がうなずいた。
「そうや、そんなもんや、音。まして一人二人の役人が話を聞いてくれても、まちがいなく事が伝わるかどうか、わからせん。恐らく必ず曲がって伝わるやろ」
岩吉の言葉に、久吉が言った。
「そりゃ事や。曲がって伝わったら、あいつらまちがいなくキリシタンやなぞと、訴えるかも知れせんで」
「ほんとですたい。恐ろしかこつです」
「桑原《くわばら》桑原。そりゃ事や」
みんな首をちぢめた。
「なるほど、ものには順序があるとですのう。口頭《こうとう》より、文《ふみ》のほうが安全とです」
その時、みんなの話を片耳に、窓から外を見ていた力松が叫んだ。
「仰山《ぎようさん》な船じゃ! 仰山な船じゃ!」
いつのまにか輪になって話していた一同が、あわてて窓の外を見ると、雨にもめげず百|隻《せき》余りもの漁船が、モリソン号を遠巻きにしていた。
「見物やろか」
久吉が言ったが、誰も答えずに、窓にへばりついて、それらの船を見守った。老人もいる。若者もいる。大人もいれば、女の子もいる。
(日本の人々や! 日本の人の顔や!)
音吉は懐かしさに、胸が張り裂けそうであった。こんなにたくさんの日本人を見るのは、幾年ぶりのことであろう。
(わしらも日本人だでーっ! 同じ日本人だでーっ!)
叫び出したい思いをこらえて、音吉はまばたきもしない。
「日本のちょん髷《まげ》ですのう」
寿三郎が言い、
「日本の蓑《みの》や。懐かしいなあ」
と、久吉が言った。平気で雨にぬれている者たちの中に、蓑をつけた姿が幾つかあった。
まもなく、漁民たちは櫓《ろ》を漕《こ》いで近寄って来た。多分|甲板《かんぱん》で、ギュツラフたちが来るようにと合図したのであろう。好奇に満ちた目をモリソン号に注ぎながら、漁民たちが近づいて来た。
「さっきの役人はどこへ行ったんやろ」
音吉がやや不安げに言った。
「もう船に上がっとるのとちがうか」
久吉が事もなげに言った時、船員の一人が入って来て、船底にかくれるようにと指示して去った。