「ああ、とうとう来た! 小野浦に来た!」
音吉は声に出して言ったつもりだが、声にならない。今、砂浜に降り立った音吉の、足の指の間を波がやさしく洗う。白砂だ。正に小野浦の懐かしい白砂だ。その一粒一粒が眩《まぶ》しく真夏の陽を照り返している。
「ほんとうに小野浦なんやな。ほんとうに、ほんとうに小野浦なんやな」
小野浦を出た時より、浜の松並木が少し少なくなったようだ。その松並木越しに、こんもりと茂る小野浦の低い山々も懐かしい。降り立った浜の右手に岩場も見える。大きな岩だ。あの岩の上から、久吉たちとよく海に飛びこんだものだ。その傍《そば》にひと群れの茅萱《ちがや》が風に揺れている。
「ああ、竹林もあの頃《ころ》のままや」
風に動く竹のひとつひとつが、お辞儀をして自分たちを迎えているように見える。音吉は躍《おど》り上がる思いで歩き出した。足が宙を泳いでいるようだ。少し行くと、白い土蔵《どぞう》が三つ並んで見えた。
「あ、お琴の家や!」
その右手に、少し離れて萱葺《かやぶ》きの小さなわが家が見えた。
「家《うち》や! わしの家や」
道端に真っ赤な葵《あおい》の咲いている小道を、音吉は走り出した。と、その時、父の武右衛門が、杖《つえ》をつきながらよろよろと歩いて来た。うしろから、母の美乃がつづく。
(あ! 父《と》っさまだ! あんなに歩けるようになったんやな)
音吉は体を二つに折るようにして叫んだ。
「父っさまーっ! 母《かか》さまーっ!」
その瞬間、音吉は目がさめた。
(何やあ、また夢か)
音吉は気落ちした。いつもの寝ざめとは少しちがっている。
(夢やけど……こんな験《げん》のいい夢を見たのは、初めてや)
今まで故郷の夢は幾度も見た。が、今のように、船から降りて小野浦の浜に帰り着いた夢は見たことがない。
(もしかしたら……正夢《まさゆめ》や)
今見た夢のように、近い中に自分はこの足で小野浦の土を踏めると、音吉は知らされたような気がした。
「おい、みんな! 帰れるで、帰れるんやで。縁起《えんぎ》のいい夢を見たんや」
ぐっすりと眠りこんでいる誰彼《だれかれ》を揺り起こして、今の夢を知らせたかった。
(何せ、ここは日本だでな)
小野浦に帰るのは時間の問題なのだと音吉の心が弾んだ。
昨日、漁師や町人や、職人たちがモリソン号にやって来た。二百人以上は来たとギュツラフが言っていた。ビスケットやパンや、ブドー酒や、更紗《さらさ》などをもらった日本人たちは、誰も彼も喜んでいたとも聞いた。
「彼らはきっと、役人たちや土地の人々に、われわれの好意を伝えてくれるでしょう」
「一台の大砲もないことを、よく見て行った筈ですし……」
「そして、皮膚病や眼病も治療して上げたのですからね。必ず役人が来るにちがいありませんよ」
パーカーもキングもそう言っていた。またギュツラフは、役人と話し合いたいという清国語《しんこくご》や日本語のカードも、幾人かに手渡したと言っていた。だから、船中の誰もが、一心に役人を待っていた。だが、午後の七時に見物人の最後が帰っても、待っていた役人は遂に現れなかった。雨が激しいので、役人の来訪は明日になるのかも知れない、とキングが言い、望みを明日につないでみんなが寝についた。
「な、音、日本人がたくさんごっつぉになったんや。お上《かみ》もお礼に来てもいいわな」
「うん、来るやろ、きっと。あれから大砲は一発も撃って来んし、もう大丈夫や。それに病《やまい》まで診てもらったでな、アメリカの親切はようわかったやろ」
岩吉たちもうなずき合い、明日は必ず役人が交渉に来、自分たちはモリソン号から日本に引き取られるにちがいないと話し合った。そして、いつまでも故郷の話に花を咲かせ、
「おそらく今夜限りで、ミスター・ギュツラフやミスター・キングともお別れや。何や名残《なごり》が惜しいわ」
と言って、眠ったのだ。その眠りの中での夢だった。
「今は何刻《なんどき》やろ」
音吉は暗い中で呟《つぶや》いた。細めたランプが小さく揺れている。昨日より船の揺れが少ないようだ。
(お琴もおさとも元気やろな)
そう思いながら、今見た夢の一つ一つを音吉は思い返す。今まで幾度小野浦の夢を見たかわからないが、今ほどはっきりと見たことはなかった。
(きっと、正夢《まさゆめ》なんや)
音吉は再び思った。もう直《す》ぐ夜が明けるにちがいない。明け方の夢は正夢だと、よく母が言っていた。とろりと油を流したような、おだやかな伊勢湾の海や、そよいでいた竹や茅萱《ちがや》がたまらなく懐かしい。それにもまして、父と母の姿や、あの萱葺《かやぶ》きの家が、泣きたいほど懐かしい。そんなことを思っているうちに、再び音吉は眠りの中に引きずりこまれていた。
どれほど眠ったことであろう。異様な唸《うな》りが頭上を走ったような気がして、音吉は、はっと目を覚ました。窓の外を見ると、ようやく夜が明けたばかりで、波にも空にも陸にも、闇《やみ》の気配《けはい》がまだ漂っている。
「何か!?」
庄蔵が跳《は》ね起きるのと、
「何や!?」
岩吉が叫ぶのと同時だった。つづいてまた大きな唸りが船の上を走った。
「大砲《おおづつ》やっ!」
岩吉が怒鳴った。すぐ近くの陸の上で、四門の砲身がモリソン号を狙《ねら》っていた。
「あぎゃんとこに!」
熊太郎の声がふるえた。
「昨日はあぎゃんとこに大砲はなかったと」
寿三郎も体をふるわせた。誰もが総立ちとなった。
「舵取《かじと》りさん! 何で撃つんや、何で!」
音吉が岩吉に縋りつくように言った。
「わからん」
「昨日、みんなに大ぶるまいをしたと言うのにな、音」
「ほんとや、何も悪いことをせんのに」
砲弾は唸《うな》りを上げ、船の手前に落ち、船を越えて落ちた。
「こっちの話を何も聞かんと、何で撃つと! 何で撃たんとならんと!」
寿三郎が叫ぶ。
「この船が何をしたと言うんや。まだ水一杯お上《かみ》から恵んでもろうてはいないで。わしらを送って来たんやで。な、……舵取りさん……」
音吉の声が泣いていた。
音吉は声に出して言ったつもりだが、声にならない。今、砂浜に降り立った音吉の、足の指の間を波がやさしく洗う。白砂だ。正に小野浦の懐かしい白砂だ。その一粒一粒が眩《まぶ》しく真夏の陽を照り返している。
「ほんとうに小野浦なんやな。ほんとうに、ほんとうに小野浦なんやな」
小野浦を出た時より、浜の松並木が少し少なくなったようだ。その松並木越しに、こんもりと茂る小野浦の低い山々も懐かしい。降り立った浜の右手に岩場も見える。大きな岩だ。あの岩の上から、久吉たちとよく海に飛びこんだものだ。その傍《そば》にひと群れの茅萱《ちがや》が風に揺れている。
「ああ、竹林もあの頃《ころ》のままや」
風に動く竹のひとつひとつが、お辞儀をして自分たちを迎えているように見える。音吉は躍《おど》り上がる思いで歩き出した。足が宙を泳いでいるようだ。少し行くと、白い土蔵《どぞう》が三つ並んで見えた。
「あ、お琴の家や!」
その右手に、少し離れて萱葺《かやぶ》きの小さなわが家が見えた。
「家《うち》や! わしの家や」
道端に真っ赤な葵《あおい》の咲いている小道を、音吉は走り出した。と、その時、父の武右衛門が、杖《つえ》をつきながらよろよろと歩いて来た。うしろから、母の美乃がつづく。
(あ! 父《と》っさまだ! あんなに歩けるようになったんやな)
音吉は体を二つに折るようにして叫んだ。
「父っさまーっ! 母《かか》さまーっ!」
その瞬間、音吉は目がさめた。
(何やあ、また夢か)
音吉は気落ちした。いつもの寝ざめとは少しちがっている。
(夢やけど……こんな験《げん》のいい夢を見たのは、初めてや)
今まで故郷の夢は幾度も見た。が、今のように、船から降りて小野浦の浜に帰り着いた夢は見たことがない。
(もしかしたら……正夢《まさゆめ》や)
今見た夢のように、近い中に自分はこの足で小野浦の土を踏めると、音吉は知らされたような気がした。
「おい、みんな! 帰れるで、帰れるんやで。縁起《えんぎ》のいい夢を見たんや」
ぐっすりと眠りこんでいる誰彼《だれかれ》を揺り起こして、今の夢を知らせたかった。
(何せ、ここは日本だでな)
小野浦に帰るのは時間の問題なのだと音吉の心が弾んだ。
昨日、漁師や町人や、職人たちがモリソン号にやって来た。二百人以上は来たとギュツラフが言っていた。ビスケットやパンや、ブドー酒や、更紗《さらさ》などをもらった日本人たちは、誰も彼も喜んでいたとも聞いた。
「彼らはきっと、役人たちや土地の人々に、われわれの好意を伝えてくれるでしょう」
「一台の大砲もないことを、よく見て行った筈ですし……」
「そして、皮膚病や眼病も治療して上げたのですからね。必ず役人が来るにちがいありませんよ」
パーカーもキングもそう言っていた。またギュツラフは、役人と話し合いたいという清国語《しんこくご》や日本語のカードも、幾人かに手渡したと言っていた。だから、船中の誰もが、一心に役人を待っていた。だが、午後の七時に見物人の最後が帰っても、待っていた役人は遂に現れなかった。雨が激しいので、役人の来訪は明日になるのかも知れない、とキングが言い、望みを明日につないでみんなが寝についた。
「な、音、日本人がたくさんごっつぉになったんや。お上《かみ》もお礼に来てもいいわな」
「うん、来るやろ、きっと。あれから大砲は一発も撃って来んし、もう大丈夫や。それに病《やまい》まで診てもらったでな、アメリカの親切はようわかったやろ」
岩吉たちもうなずき合い、明日は必ず役人が交渉に来、自分たちはモリソン号から日本に引き取られるにちがいないと話し合った。そして、いつまでも故郷の話に花を咲かせ、
「おそらく今夜限りで、ミスター・ギュツラフやミスター・キングともお別れや。何や名残《なごり》が惜しいわ」
と言って、眠ったのだ。その眠りの中での夢だった。
「今は何刻《なんどき》やろ」
音吉は暗い中で呟《つぶや》いた。細めたランプが小さく揺れている。昨日より船の揺れが少ないようだ。
(お琴もおさとも元気やろな)
そう思いながら、今見た夢の一つ一つを音吉は思い返す。今まで幾度小野浦の夢を見たかわからないが、今ほどはっきりと見たことはなかった。
(きっと、正夢《まさゆめ》なんや)
音吉は再び思った。もう直《す》ぐ夜が明けるにちがいない。明け方の夢は正夢だと、よく母が言っていた。とろりと油を流したような、おだやかな伊勢湾の海や、そよいでいた竹や茅萱《ちがや》がたまらなく懐かしい。それにもまして、父と母の姿や、あの萱葺《かやぶ》きの家が、泣きたいほど懐かしい。そんなことを思っているうちに、再び音吉は眠りの中に引きずりこまれていた。
どれほど眠ったことであろう。異様な唸《うな》りが頭上を走ったような気がして、音吉は、はっと目を覚ました。窓の外を見ると、ようやく夜が明けたばかりで、波にも空にも陸にも、闇《やみ》の気配《けはい》がまだ漂っている。
「何か!?」
庄蔵が跳《は》ね起きるのと、
「何や!?」
岩吉が叫ぶのと同時だった。つづいてまた大きな唸りが船の上を走った。
「大砲《おおづつ》やっ!」
岩吉が怒鳴った。すぐ近くの陸の上で、四門の砲身がモリソン号を狙《ねら》っていた。
「あぎゃんとこに!」
熊太郎の声がふるえた。
「昨日はあぎゃんとこに大砲はなかったと」
寿三郎も体をふるわせた。誰もが総立ちとなった。
「舵取《かじと》りさん! 何で撃つんや、何で!」
音吉が岩吉に縋りつくように言った。
「わからん」
「昨日、みんなに大ぶるまいをしたと言うのにな、音」
「ほんとや、何も悪いことをせんのに」
砲弾は唸《うな》りを上げ、船の手前に落ち、船を越えて落ちた。
「こっちの話を何も聞かんと、何で撃つと! 何で撃たんとならんと!」
寿三郎が叫ぶ。
「この船が何をしたと言うんや。まだ水一杯お上《かみ》から恵んでもろうてはいないで。わしらを送って来たんやで。な、……舵取りさん……」
音吉の声が泣いていた。