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海嶺213

时间: 2020-03-19    进入日语论坛
核心提示:九 モリソン号はとりあえず白旗をかかげた。何のために攻撃されなければならないのか。船長インガソルも、キングも、ギュツラフ
(单词翻译:双击或拖选)
 モリソン号はとりあえず白旗をかかげた。何のために攻撃されなければならないのか。船長インガソルも、キングも、ギュツラフも理解に苦しんだ。が、白旗の意味を知ってか知らずか、砲撃は止まない。
「何ということだ!」
船長は直ちに錨《いかり》を上げることを命じた。砲弾はますます激しくモリソン号に集中する。
「退却《たいきやく》だ! やむを得ない!」
キングが船長に言った。
「何と野蛮《やばん》な国だ! こんな美しい国が、こんなに野蛮とは……」
パーカーの顔も引きつっていた。
急いで後斜桁帆《スパンカー》が上げられた。退却の意思表示である。が、砲撃は一向に衰えない。立ち廻《まわ》る船員たちの頭上を、唸《うな》りを上げて砲弾が飛ぶ。その間隔がますます短くなる。水柱が船の前にうしろに絶え間なく上がる。岩吉は舷墻《げんしよう》近くにあって、機敏に展帆《てんぱん》の作業をしていた。
(何で、撃つんや! 何で!)
歯を食いしばりながら、岩吉は無念さに耐えた。その岩吉を目がけるように、砲弾が耳をかすめた。はっと身を屈《かが》めた次の瞬間、また一弾が撃ちこまれた。と、その一弾は舷墻に命中し、岩吉の足もとに落ちた。
「あっ!」
誰もが叫んだ。砲弾は跳《は》ね上がって舷側を超え、海中に水煙を立てた。
「大丈夫か!? 大丈夫か!? 舵取《かじと》りさん!」
音吉が駈《か》け寄った。砲弾が落ちた瞬間、岩吉が死んだのではないかと思った。久吉も駈け寄って、岩吉に抱きついた。その間も砲弾は頭上に唸る。
「何ともあらせん。日本の大砲は破裂せんでな」
岩吉は低い声で言った。
「よかった! 舵取りさん死ぬんかと思うた」
音吉が岩吉の足をさすった。久吉が半泣きになって言った。
「舵取りさん! 日本の大砲が舵取りさんを撃ったんやで! 日本の大砲が!」
岩吉は黙って再び作業に取りかかった。
低い平根山から砲身が間断《かんだん》なく火を噴く。鼓膜《こまく》を破るような大きな音だ。モリソン号は、遂に帆を張って、浦賀の湾を離れた。そのモリソン号を追って大砲を備えた軍船が数|隻尚《せきなお》も攻撃して来た。三、四十人の武士たちがそれぞれに乗り組んでいる。
「畜生《ちくしよう》! 追いかけてまで撃つとか」
庄蔵が歯ぎしりをした。船足の早いモリソン号と軍船の間が見る見る隔たった。砲弾の届かぬ所まで退避して、モリソン号はとどまった。軍船が尚も近づくかどうか、待とうとキングが言ったからだ。
「何としてもこのまま立ち去るにはしのびない。話し合えばわかると、わたしは思う」
キングは諦《あきら》めることができなかった。
「無駄です! ミスター・キング」
ウイリアムズが首を横にふり、パーカーも、
「こんな手荒な挨拶《あいさつ》を受けたのです。もうすっぱりあきらめましょう」
と、語調も激しく反対した。
強い風だ。波も高い。船腹を打つ波のしぶきが甲板《かんぱん》をぬらす。だがキングはもう少し待とうと言った。先程《さきほど》、港を出る時、ギュツラフが一枚の板を海に投げこんで来たのだ。それには次のように書かれてあった。
「請老爺臨卑船
吾乃朋友要水」
それは役人の来船を願い、水を与えて欲しいという言葉であった。波に漂うその板切れを、小舟が拾い上げたのをキングは見ていたのだ。小舟はあの板切れを必ず役人に届けるにちがいない。外国船が只《ただ》水を欲しいというだけで、止むに止まれず寄港するということはあり得る。このモリソン号が、水以外の何ものをも欲しているのではないと知ったなら、砲撃を中止して役人を遣《つか》わすであろうとキングは思った。キングは一同をなだめて、波の荒い港外に船をとめて待った。が、役人が来るかも知れぬと予想された時間は遂に過ぎた。軍船も、モリソン号の船足の早さを見て、とうに港に戻《もど》って行った。
「出帆しましょう。ミスター・キング」
ふだんは快活なインガソル船長もいらいらと言った。
「大砲を外《はず》して来てよかった」
船が走り出すと、パーカーがキングに言った。
「全くです」
船長たちが、砲を外して来たことを、地団駄《じだんだ》踏んで口惜《くや》しがっていたのを、キングも見ていた。
「ほんとうによかった。こちらも撃ち返したでしょうからなあ」
「そうです、そうです。危いところでした。剣をとる者は剣によって亡ぶと言うキリストの言葉は真理ですから」
ギュツラフも深く吐息《といき》をつき、
「それにしても、岩吉たちは一体どうなるんでしょう!」
「それです。わたしには予想もつかない」
故国を目の前にしながら、一歩も上陸できないとは……。さすがのキングのまなざしも怒っていた。
次第に浦賀の港が遠くなって行く。この時、平根山の砲台や、軍船では、遠ざかるモリソン号を見送りながら凱歌《がいか》を上げていたことを、キングたちは知る筈《はず》もなかった。
キングたちは三百年の鎖国のつづいた日本の内部事情を詳しくは知らなかった。日本には「異国船無二念打払の令」なるものが、文政八年(一八二五年)に定められていた。それはイギリス船フェートン号事件がきっかけとなって定められた法令であった。当時オランダは国勢が衰えていた。それに乗じたイギリス、フランスの両国は、オランダの海外領土に目をつけ、争奪《そうだつ》の機会をうかがっていた。
一八〇八年十月の初め(文化五年八月中旬)二|隻《せき》のオランダ船を追って、フェートン号が長崎に来た。その時フェートン号はオランダ国旗を掲げて、堂々と入港したのである。当時通商を許されていたのはオランダと中国のみであった。出島《でじま》からオランダ商館の館員が、何の疑いもなく港口までフェートン号を迎えに出た。が、フェートン号は出迎えに出たその館員二名を捕虜《ほりよ》とし、自分たちの追跡して来たオランダ船二隻が逃げこんでいないかどうかを、厳しく調べ上げた。その上、三隻のボートで港内|隈《くま》なく捜しまわった。出島の館員たちはあわてて奉行所に難を避けた。
港内には、イギリス側の目指すオランダ船はなかった。フェートン号は館員の一名を返し、他の一名を人質として、薪水《しんすい》や食糧を日本に対して強引《ごういん》に要求した。しかも、
「要求に応じなければ、港内に停船中の和船も中国船も、すべて焼き払うであろう」
と、脅《おど》し立てた。
時の長崎|奉行松平康英《ぶぎようまつだいらやすひで》は、この無礼《ぶれい》に怒って、長崎警備当番の佐賀藩にフェートン号焼き打ちを命じた。が、警備当番とは名ばかりであった。太平のつづいた日本に、警備は不要であった。直ちに対応できる用意がなく、長崎奉行は涙をのんで要求に応じた。フェートン号は人質を返して、悠々《ゆうゆう》と長崎の港を立ち去った。
間もなく、大村藩の兵が駈《か》けつけたが騒ぎは終わっていた。この事件で松平康英は責任を感じて自害し、その自害を聞いた佐賀藩家老たちも切腹して果てた。佐賀藩主|鍋島斉直《なべしまなりただ》は幕府の命で逼塞《ひつそく》し、一件は落着した。だが幕府は、前々年、前年とロシア船が蝦夷地《えぞち》で暴力をふるった事件もあり、つづいて三年目のイギリス船フェートン号事件の発生に、甚《はなは》だしく危惧《きぐ》を抱き、対策に頭を悩ました。その結果が、後の「異国船無二念打払の令」を生んだのである。
当時幕府が恐れたのは、外国船の武力もさることながら、それ以上にキリスト教の布教を恐れた。キリスト教は人間平等と人間尊重の思想を育てる。それは必然的に権力批判をもたらす。幕府にとってそれが何よりもキリスト教を恐れる理由であった。しかも、モリソン号の訪れたこの時代は、天保三年以来至る所に大飢饉《だいききん》が起こり、多数の餓死者が全国に続出した。飢えた民衆は徒党を組んで豪商を襲い、富農を襲った。大坂奉行所の与力《よりき》、義人大塩平八郎《ぎじんおおしおへいはちろう》が立ち上がり、大坂市中を焼き払って悪政に抗議したのは、実にモリソン号の渡来したこの天保八年六月のことであった。民衆は米価の高騰が、多分に一部の商人の悪辣《あくらつ》な操作によることを知っていた。この米騒動を鎮圧《ちんあつ》するために、国民の目を他に外《そ》らすことが急務であると幕府は考え始めていた。国民が一致できるのは外敵に対する時である。外敵に備えて、各藩の陣地を固めねばならぬと備えていたところにモリソン号が日本に来たのである。文政八年「異国船無二念打払の令」が出されて以来、この日に至るまで、この法令が行使されたことは一度もなかった。
浦賀では、折《おり》から異国船に備えて、台地が築かれ、今までは一人であった奉行《ぶぎよう》も二人制となり、外敵に対して心を引きしめていた。いわば、待ち構えていたところに、モリソン号が乗りこんだことになる。飢饉《ききん》による一揆《いつき》に手を焼いていた幕府にとって、このモリソン号の外患は、ある意味では救いであった。モリソン号は自分たちの日本に果たした役割を知る筈《はず》もなく、右手に日本を眺《なが》めながら荒波の太平洋を南下して行った。その船内では直接小野浦を訪うべきか、琉球の領主である薩摩藩主に頼るべきか、はた又長崎に行くべきか、論議が戦わされていた。キングは岩吉たちを送り届けることに、決して絶望してはいなかったのである。
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