晴れた空だ。雲一つない空だ。が、海のうねりが大きい。昨日の朝浦賀を出たモリソン号は、激しい追い風を受けて一気に遠州灘《えんしゆうなだ》を過ぎ、今日はもう鳥羽を目指していた。その甲板《かんぱん》に、音吉たち七人が生気《せいき》づいた顔を並べて立っていた。午《ひる》近い日の光がまばゆい。
「音、鳥羽からは小野浦の空が見えるで」
「ほんとや。きっと知っている船も鳥羽にはいるわ」
「そうやそうや。したら、家の便りも聞けるわな」
「うん、聞ける、聞ける」
音吉は声を弾ませた。琴のうわさも、そこで聞けるかも知れないと思う。
(どうせ、もう婿取《むこと》りをしたやろけど)
そうは思っても、鳥羽に錨《いかり》をおろすことはうれしかった。
「もしかして、うちの父《と》っさまが鳥羽に来てるかも知れせんで」
久吉は、幾度か鳥羽に行ったことを思いながら言う。
鳥羽のすぐ近くに菅《すが》島がある。そこから飛び石のように答志《とうし》島、海島、神島と伊勢湾の口を小島がつづく。鳥羽の社《やしろ》に登ると、それらの島が渥美《あつみ》半島に向かって延びているのが見えたものだ。その渥美半島と知多半島の間に、篠《しの》島、日間賀《ひまか》島、野島などが点々とつづき、今日のような晴れた日には、師崎《もろざき》のあたりもはっきりと見える筈《はず》だ。
(小野浦はすぐそこや)
音吉は胸苦しくなった。
「今度こそ帰れるやろな、音」
久吉が不意に不安げに言った。
「大丈夫や。大丈夫の筈や」
音吉は自分で自分を励ますように言った。自分の生まれ故郷のすぐ傍《そば》から追い帰されることはないような気がする。とは思いながらも、いやでも浦賀での砲弾の音が思い出される。
「けど……鳥羽には城があるだでな。やっぱり大砲があるかも知れせんな」
久吉がそう言った時、俄《にわ》かに風向きが変わった。
「おっ、向かい風になったな」
岩吉が呟《つぶや》いた。
「悪か風向きじゃ」
庄蔵も答えた。一同は眉《まゆ》をひそめた。
やがて岩吉が言った。
「この風では暇ばかりかかって、陸に近づくのは難儀やな」
「ひどい風やけど、舵取《かじと》りさん、今に弱まるとちがうか」
音吉が言う。
「そう願ったとおりになってくれると、ありがたいけどな」
言う間もなく、逆風がますます強くなった。激しい西風だ。立っている二、三人が吹き飛ばされそうによろめいた。潮流も船に逆らっている。モリソン号はしばらくの間その逆風と潮流に抗《あらが》っていた。
「何としてでも、鳥羽に行きたいな、な、音」
水鳥が矢のような早さで、船の前を風に煽《あお》られて過ぎた。
「まったくや、鳥羽を見たい。鳥羽をな」
宝順丸で鳥羽を出た夜の嵐を、音吉は思いながらうなずいた。
(あん時、鳥羽を出んとよかった。したら、兄さも、船頭さんも、炊頭《かしきがしら》も、みんな死なんですんだ)
「なあ、音。むごい風やな。風までわしらば追い帰すつもりやろか」
「まさか。間切《まき》りながら、今に鳥羽に近づくで」
絶え間なく動索が軋《きし》む。帆柱が青い空の中に大きく動く。船が右に左に傾き、水平線が左に浮かび、右に沈む。船員がきびきびと、命綱につかまりながら働いている。
半刻ほど経って、モリソン号は遂に向きを変えた。鳥羽に入ることを諦《あきら》めたのだ。浦賀で薪水《しんすい》の供給も受けなかったモリソン号は、時間を浪費するわけにはいかなかった。
「何やって、鳥羽にも寄れんのか!」
インガソル船長の、鳥羽を諦めるという言葉に、音吉も久吉も声を揃《そろ》えて叫んだ。
「久、音、仕方あらせん。この風や、この潮や。抗《あらが》うにも限りがあるだでな」
たしなめる岩吉の顔にも、ありありと失望の色があった。
船は紀伊半島の新宮に向かうとキングが言った。が、この新宮に近づくことも、風と潮が阻《はば》んだ。岩吉と庄蔵がキングの部屋に呼ばれた。
「残念です。あなたがたの望む港に入りたかったが、ごらんのとおりです」
キングの言葉を伝えるギュツラフに、二人は頭を下げ、庄蔵が言った。
「仕方なかとです。わしらも諦《あきら》めていたとです」
「そこで相談があるのですが、あなたたちはこれからどこの港に向かったらよいと思いますか」
岩吉と庄蔵は顔を見合わせた。新宮にも近づけないと見て取った時、七人は話し合った。日本中の大名の中で大きな力を持つ薩摩藩《さつまはん》に頼るがよいと、九州組が言い出したのだ。そのことを告げると、
「薩摩? では薩摩の鹿児島ですね」
キングが大きくうなずいた。ギュツラフが言った。
「ミスター・キング。薩摩藩の権威はご承知のように、九州はむろんのこと、先に寄った琉球、台湾に至るまで、まことに広い範囲に及んでいるのです」
「そうですね。鹿児島と言えば、ザビエルが初めて日本に上陸した所ですね」
「そうですそうです。二百九十五年前にポルトガル人が漂着したのも、確かこのあたりだと聞いています」
キングとギュツラフがうなずき合った。庄蔵が言った。
「鹿児島には、長崎に入った清国の船や、オランダの船が、いつも寄っておるとです」
「え? 長崎以外に外国船が入れるのですか」
「いいえ、お上に隠れて、残り荷を薩摩に売るとです」
「ほほう、薩摩はオランダや清国と、単独に貿易をしているということですか」
オリファント商会の重責にあるキングの目が輝いた。ギュツラフが思い出したように、
「そう言えば、わたしもそのうわさを一、二度聞いたことがあります」
「わかりました。とにかく、江戸の政府を恐れず、かなり自由にふるまっている領主ですね、薩摩の領主は。では、岩吉たちにも理解を示すでしょうし、わたしたちの望む貿易にも、話に乗ってくれることでしょう」
キングは江戸湾を出て以来、初めて晴々とした微笑を見せた。キングたちが話し合っている間にも、モリソン号は逆流に阻《はば》まれて、毎時一マイル半以上も速度が落ちていた。だが目的地を定めたキングの心は軽かった。
「音、鳥羽からは小野浦の空が見えるで」
「ほんとや。きっと知っている船も鳥羽にはいるわ」
「そうやそうや。したら、家の便りも聞けるわな」
「うん、聞ける、聞ける」
音吉は声を弾ませた。琴のうわさも、そこで聞けるかも知れないと思う。
(どうせ、もう婿取《むこと》りをしたやろけど)
そうは思っても、鳥羽に錨《いかり》をおろすことはうれしかった。
「もしかして、うちの父《と》っさまが鳥羽に来てるかも知れせんで」
久吉は、幾度か鳥羽に行ったことを思いながら言う。
鳥羽のすぐ近くに菅《すが》島がある。そこから飛び石のように答志《とうし》島、海島、神島と伊勢湾の口を小島がつづく。鳥羽の社《やしろ》に登ると、それらの島が渥美《あつみ》半島に向かって延びているのが見えたものだ。その渥美半島と知多半島の間に、篠《しの》島、日間賀《ひまか》島、野島などが点々とつづき、今日のような晴れた日には、師崎《もろざき》のあたりもはっきりと見える筈《はず》だ。
(小野浦はすぐそこや)
音吉は胸苦しくなった。
「今度こそ帰れるやろな、音」
久吉が不意に不安げに言った。
「大丈夫や。大丈夫の筈や」
音吉は自分で自分を励ますように言った。自分の生まれ故郷のすぐ傍《そば》から追い帰されることはないような気がする。とは思いながらも、いやでも浦賀での砲弾の音が思い出される。
「けど……鳥羽には城があるだでな。やっぱり大砲があるかも知れせんな」
久吉がそう言った時、俄《にわ》かに風向きが変わった。
「おっ、向かい風になったな」
岩吉が呟《つぶや》いた。
「悪か風向きじゃ」
庄蔵も答えた。一同は眉《まゆ》をひそめた。
やがて岩吉が言った。
「この風では暇ばかりかかって、陸に近づくのは難儀やな」
「ひどい風やけど、舵取《かじと》りさん、今に弱まるとちがうか」
音吉が言う。
「そう願ったとおりになってくれると、ありがたいけどな」
言う間もなく、逆風がますます強くなった。激しい西風だ。立っている二、三人が吹き飛ばされそうによろめいた。潮流も船に逆らっている。モリソン号はしばらくの間その逆風と潮流に抗《あらが》っていた。
「何としてでも、鳥羽に行きたいな、な、音」
水鳥が矢のような早さで、船の前を風に煽《あお》られて過ぎた。
「まったくや、鳥羽を見たい。鳥羽をな」
宝順丸で鳥羽を出た夜の嵐を、音吉は思いながらうなずいた。
(あん時、鳥羽を出んとよかった。したら、兄さも、船頭さんも、炊頭《かしきがしら》も、みんな死なんですんだ)
「なあ、音。むごい風やな。風までわしらば追い帰すつもりやろか」
「まさか。間切《まき》りながら、今に鳥羽に近づくで」
絶え間なく動索が軋《きし》む。帆柱が青い空の中に大きく動く。船が右に左に傾き、水平線が左に浮かび、右に沈む。船員がきびきびと、命綱につかまりながら働いている。
半刻ほど経って、モリソン号は遂に向きを変えた。鳥羽に入ることを諦《あきら》めたのだ。浦賀で薪水《しんすい》の供給も受けなかったモリソン号は、時間を浪費するわけにはいかなかった。
「何やって、鳥羽にも寄れんのか!」
インガソル船長の、鳥羽を諦めるという言葉に、音吉も久吉も声を揃《そろ》えて叫んだ。
「久、音、仕方あらせん。この風や、この潮や。抗《あらが》うにも限りがあるだでな」
たしなめる岩吉の顔にも、ありありと失望の色があった。
船は紀伊半島の新宮に向かうとキングが言った。が、この新宮に近づくことも、風と潮が阻《はば》んだ。岩吉と庄蔵がキングの部屋に呼ばれた。
「残念です。あなたがたの望む港に入りたかったが、ごらんのとおりです」
キングの言葉を伝えるギュツラフに、二人は頭を下げ、庄蔵が言った。
「仕方なかとです。わしらも諦《あきら》めていたとです」
「そこで相談があるのですが、あなたたちはこれからどこの港に向かったらよいと思いますか」
岩吉と庄蔵は顔を見合わせた。新宮にも近づけないと見て取った時、七人は話し合った。日本中の大名の中で大きな力を持つ薩摩藩《さつまはん》に頼るがよいと、九州組が言い出したのだ。そのことを告げると、
「薩摩? では薩摩の鹿児島ですね」
キングが大きくうなずいた。ギュツラフが言った。
「ミスター・キング。薩摩藩の権威はご承知のように、九州はむろんのこと、先に寄った琉球、台湾に至るまで、まことに広い範囲に及んでいるのです」
「そうですね。鹿児島と言えば、ザビエルが初めて日本に上陸した所ですね」
「そうですそうです。二百九十五年前にポルトガル人が漂着したのも、確かこのあたりだと聞いています」
キングとギュツラフがうなずき合った。庄蔵が言った。
「鹿児島には、長崎に入った清国の船や、オランダの船が、いつも寄っておるとです」
「え? 長崎以外に外国船が入れるのですか」
「いいえ、お上に隠れて、残り荷を薩摩に売るとです」
「ほほう、薩摩はオランダや清国と、単独に貿易をしているということですか」
オリファント商会の重責にあるキングの目が輝いた。ギュツラフが思い出したように、
「そう言えば、わたしもそのうわさを一、二度聞いたことがあります」
「わかりました。とにかく、江戸の政府を恐れず、かなり自由にふるまっている領主ですね、薩摩の領主は。では、岩吉たちにも理解を示すでしょうし、わたしたちの望む貿易にも、話に乗ってくれることでしょう」
キングは江戸湾を出て以来、初めて晴々とした微笑を見せた。キングたちが話し合っている間にも、モリソン号は逆流に阻《はば》まれて、毎時一マイル半以上も速度が落ちていた。だが目的地を定めたキングの心は軽かった。