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海嶺222

时间: 2020-03-21    进入日语论坛
核心提示:創作後記 一八三七年八月十二日(天保《てんぽう》八年七月十二日)、砲火に追われて鹿児島湾を出たモリソン号は、八月二十九日
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創作後記
 一八三七年八月十二日(天保《てんぽう》八年七月十二日)、砲火に追われて鹿児島湾を出たモリソン号は、八月二十九日夕刻、再びマカオの港に錨《いかり》をおろした。不安のうちにも期待を抱いて、祖国に向かって旅立った音吉たち七人の、日本から受けた傷手《いたで》はいかばかりであったろう。その後の七人の消息を簡単に記して置くこととしよう。
熊太郎
熊太郎に関する史料は最も少なく、マカオに到着後、ウイリアムズの家に、庄蔵、寿三郎、力松と共に引き取られたらしいことだけは残っている。だが六年後の一八四三年|頃《ごろ》には既《すで》に病死したようである。熊太郎の性格は内向的であったとも言われ、仲間たちからもうとんじられていたそうだが、そうであればあるだけに、異国での早逝《そうせい》は何とも哀れに思われてならない。
寿三郎
寿三郎もウイリアムズのもとに引き取られていたが一八五三年、三十九歳で病死した。アヘン中毒による死であったらしい。寿三郎は、マカオに戻《もど》ってから数年後、日本の家族に手紙を出しているが、その手紙は小説「海嶺《かいれい》」の中に引用した。日本人七人の中、アヘン中毒にかかったのは寿三郎だけだが、その哀切な手紙を読み返すとアヘンの誘惑《ゆうわく》に負けた寿三郎の心の裡《うち》が、痛いほどわかるような気がするのである。
力 松
最年少の九州組力松は、庄蔵たちと共にしばらくウイリアムズと共にいたが、後に庄蔵と共に香港《ホンコン》に移り住んだ。力松は新聞社の社員として成功したらしい史料が残っている。年少であっただけに、外国語を習熟するのが早かったようだ。通訳として、一八五五年九月、日英条約|批准《ひじゆん》の際長崎に来港している。また、同年|函館《はこだて》にも通訳として現れ、この時日本人たち漂流民の消息を、函館|奉行支配調役《ぶぎようしはいととのえやく》の力石勝之助《りきいしかつのすけ》に伝えている。その妻はアメリカ人で、三人の子供をなし、一人を失っていた。
長崎を訪れた際、肥前《ひぜん》の母を自費で呼び寄せたいと奉行に願い出たが、実現を見なかったという。
庄 蔵
庄蔵はマカオに戻《もど》って、ウイリアムズに日本語を教えていたが、数年後香港に渡り、裁縫屋《さいほうや》をして大成したと記録に残っている。三階建ての家に住み、中国人を妻にし、子供は男児一人であった。多くの使用人を使い、生活は裕福で土地の人々の信用も大きかったようである。後年日本の漂流民が庄蔵の家を訪ねた時、あいにく庄蔵はカリフォルニアに旅行中であったという史料もあるから、アメリカに幾度か渡っていたのでもあろうか。力松と隣り合って住んでいたが、性格的には合わなかったようである。音吉もまた力松とは心が合わなかったと言っているが、最年少であった力松が、いち早く外国の風習に馴《な》じんだからではないかという説もあって、必ずしも力松の罪とは言えないような気もする。
庄蔵夫妻は円満であったらしく、心を合わせて日本からの漂流民に接していたようだ。この庄蔵の消息は一八五五年以後(四十六歳)何歳まで生きたか不明である。
岩 吉
岩吉は久吉と共に、ギュツラフの勤めるイギリス貿易監督庁(商務庁)に、通訳として勤めていた。アヘン戦争を前に、イギリスが清国《しんこく》の舟山列島を占領の際(一八四〇)ギュツラフはその司令官となったため、岩吉、久吉も舟山に移った。この岩吉については、私は少なからぬ興味を抱いている。彼は北アメリカにおいてインデアンの奴隷《どれい》となった時、ひそかに、誰へともなく助けを求めて手紙を書いている。その手紙が、他のインデアンからインデアンの手に移り、遂にはハドソン湾会社のマクラフリン博士のもとに届いた。マクラフリンはその手紙にある漢字を見て、最初その書き主を中国人と思いこんだらしいが、とにかく、相手が字が読めようが読めまいが、手紙を書いたという岩吉の積極性に私は瞠目《どうもく》した。宝順丸の乗組員十四人の中、十一人が死んだ。残ったのは少年の久吉、音吉であり、岩吉は言わば奇蹟《きせき》の一人であった。なぜなら大人はすべて死に絶えてしまったからである。これは、岩吉の並々ならぬ体力と精神力を物語っていると私は思っていたが、漢字の手紙がマクラフリン博士の手に届いた事実によって、更《さら》にその思いを強くした。
尚《なお》、岩吉たち三人のうち、誰の筆跡か不明ではあるが、イギリス公文書館に保存されているという「日本天保三|辰年《たつどし》十月十一日|志州鳥羽《ししゆうとば》浦港出、備州尾張国会賤《びしゆうおわりのくにかいせん》(回船)宝順丸重右衛門船十四人乗(以下略)」の筆跡は、優《すぐ》れた筆致であると、書道の心得ある二、三の人から私は聞いた。恐らく三人の中、最年長である岩吉が書いたものと推測するが故《ゆえ》に、この筆跡からも私の岩吉に対する評価は大きいのである。また、「米船モリソン号|渡来《とらい》の研究」に載っているキング、ウイリアムズ、パーカーの日記を見ると、七人の漂流民の中、最もしばしば名前の出て来るのが岩吉で、岩吉は水深測量にもモリソン号において活躍している。潮流に流されるモリソン号を危機から救ったのも、小説にあるとおり岩吉である。ギュツラフが岩吉と久吉を舟山につれて行ったのは、ヨハネ伝|翻訳《ほんやく》の際、彼らが少なからず役立ったからにちがいない。
しかし岩吉は、ギュツラフが香港で死んだ翌年の一八五二年六月、四十六歳で寧波《ニンポー》において死んだ。姦通《かんつう》していた妻の手によって殺されたという。何とも無残な話だが、私は何となく、岩吉が抵抗もせず妻に殺されたような気がする。岩吉の心の中に、消し難い日本の妻があって、そのために岩吉は死んだような気がするのである。
久 吉
久吉は岩吉と共に、イギリス貿易監督庁の通訳として働いていた。幕府の書類を翻訳して昇給したという記録があるというから、漢字もかなり読み得たのではないか。ギュツラフ宅において、音吉と共に三人、モリソン号に乗る以前に、既《すで》に中国語を習っていた訳《わけ》だが、いつの頃《ころ》からそれだけの力を得たかは明確ではない。
久吉は中国人の妻を娶《めと》り、子供もあった。一八六二年|福洲《ふくしゆう》に住んでいたが、その四十三歳以降の生活については記録が残っていない。
音 吉
音吉は、マカオに戻《もど》るなりモリソン号に乗って、水主《かこ》としてアメリカに出航している。この時モリソン号にインガソル船長は乗っていなかった。なぜなら、インガソル船長は八月二十九日にマカオに着き、十月十八日には悼《いた》ましくも世を去っていたからである。日本への航行が、特に日本の砲撃が船長インガソルの死を早めたであろうことは、想像に難くない。中でも鹿児島での砲撃は、折からの満潮時にぶつかり、岩に衝突する危険があったという。何《いず》れにせよ、悼ましい死であった。
とにかく、音吉はインガソル船長のいないモリソン号でアメリカに向かって出発した。音吉は以後数年間は商船に、軍艦に働いていた。後に音吉は舟山、そして上海《シヤンハイ》に移り、イギリスのデント商会の高級社員として活躍した。妻は、初めイギリス人であったらしいが早逝《そうせい》し、後にシンガポールのマレー人の女と結婚し、二男一女をもうけた。
上海に音吉が移った頃《ころ》、上海にはギュツラフの姪キャサリンが、医療伝道師のロカートと結婚して山東路病院(後の有名な仁済医院)を創立している。キャサリンは、上海に初めて上陸したイギリス婦人で、人々に慕われていたという。このギュツラフの姪《めい》キャサリンの存在が、音吉を上海に住まわせたかどうかは不明だが、無縁でなかったことは確かであろう。尚《なお》、キャサリンの弟ハリー・パークスは僅《わず》か十四歳の時から、アヘン戦争の終わるまで、ギュツラフから習ったその中国語をもって、外交交渉の雑用に当たったと記録されている。
音吉のこのマレー人の妻は甚《はなは》だ性格がよく、夫婦仲も極めて睦《むつ》まじかったようである。少し遠く旅行く時は、必ず音吉は妻を伴ったという。また日本人の漂流者たちに大きな慰めを与えた夫婦でもあった。摂津《せつつ》の船栄力丸の十二人は四十日間この音吉の家に世話になったといわれるが、その長い間の世話も行き届き、決してその場限りの扱いはしなかったようである。当時の上海における音吉の家は、八畳間が四室あり、三人の中国人を召し使いとし、一八五七年に訪れた永久丸の漂流者二人は「一万|石《ごく》の大名のようである」とさえ表現している。デント商会において、音吉は七十人の部下を取り締まっていたという。またその妻は日本語を話したというから、音吉は音吉なりに幸せな生活を築いていたにちがいない。
私たちは一八四九年のイギリス軍艦マリーナ号の来日を記憶している。このマリーナ号に乗っていた通訳が、実は音吉であった。音吉がかつて追い払われた浦賀に来て、どんな思いを抱いたか、想像するさえ胸の痛むことである。
更《さら》に一八五四年、イギリス東印度支那《ひがしいんどしな》艦隊司令官スターリングが長崎にやって来、この時日英和親条約が締結《ていけつ》された。この時の通訳もまた音吉であった。この時熱田を出て以来初めて音吉は故国日本の土を踏んだ。長崎|奉行邸《ぶぎようてい》を訪ねるスターリングに随行したからである。
一八六二年、音吉は妻の故郷、シンガポールに移り住んだ。上海の内乱を避けるためとも、イギリスとの関わりを避けるためともいわれている。このシンガポールの音吉の家に、日本の遣欧使節《けんおうしせつ》が訪れている。この時の家は、部屋数が八室もある二階建てで、広々とした美しい庭もあり、自家用の馬車も持っていたという。現地人の召し使いを幾人も使い、その豊かな様子に使節たちが驚き、職業を尋ねたところ、貨物の口入《くちい》れ業をしていると答えたそうだが、この時は音吉自身、十日前にシンガポールに来たばかりで、果たして職が定まっていたかどうか。あるいは上海での蓄財で、悠々自適《ゆうゆうじてき》の生活であったのかも知れない。
一八六四年以降の音吉に会った日本人はいたのか、いなかったのか、今のところ記録は見当たらない。が、私は幾人かの人から、その子孫が日本に訪ねて来た話を聞いた。春名徹氏著「にっぽん音吉漂流記」には、このことについて、次のように書かれてある。
〈一八七九年(明治十二年)六月十八日の『東京日日新聞』に、一つの記事がのった。「尾州知多《びしゆうちた》郡の産にして、四十年前に亜墨利加《あメリカ》へ漂流したる山本|乙吉《おときち》の子」ジョン・ダブリュー・オトソンという者が帰朝《きちよう》して神奈川県へ入籍を願い出た、というのである。
同紙に掲載された入籍願によれば、音吉は「一千八百六十|三《〔ママ〕》年上海を去り、シンガポールに赴き、其後同処《そのごどうしよ》にて鬼籍《きせき》に入り申候《もうしそうろう》」という〉
この入籍願が、文字どおり音吉の心からの願いであったのであろう。その願いを叶《かな》えたいと、シンガポールからはるばるやって来た音吉の息子は、音吉のように心優しく、聡明《そうめい》な、そして積極的に生きる息子であったろう。父の願いを単なる願いとして聞き流さず、しっかりと受けとめたこのジョン・W・オトソンはその後どう生きたか。とにかく、この入籍願が受理された形跡がないのが残念である。
なお漂流民の家族たちについては過去帳以外に記録は残っていない。モリソン号|渡来《とらい》の前年、久吉の父が死んでいることだけは小説にも記した通り明らかである。
以上で七人のその後を簡単にまとめたが、決して簡単にまとめ得るその後ではなかったにちがいない。誰一人の生きざまを見ても、例えばアヘン中毒で死んだ寿三郎、妻に殺されて死んだ岩吉をみても、また入籍願を子に託して死んだ音吉を思っても、その心の奥深くに、故国日本がなまなまと生きていたと思わずにはいられない。故国は即《すなわ》ち、外地にある者にとって血縁《けつえん》である。血族である。それだけに、浦賀においても、鹿児島においても、大砲をもって撃ち帰された心の傷はどんなに深かったことか、計り知れないものがある。
 漂流! 江戸時代における漂流は、幕府の鎖国政治が作り出した人災とも言えた。なぜなら、鎖国の禁を厳にする余り、造船技術が優れているにもかかわらず、遠洋航行に耐える船を造ることを許さなかったからである。千石船《せんごくぶね》は地方《じかた》航法を主とする近海船であった。ひと度《たび》嵐に遭《あ》って大海に流れ出た時、帰り得た者は果たして全体の何パーセントあったであろうか。涯《はて》しも知れぬ大海の中で、他の船に会う確率が、どれほど僅《わず》かなものか、想像ができる。島に漂着する確率もまた極めて少ない。それは点と点が大海の中でぶつかるに等しい奇跡であると誰かが書いていた。大海の中で死んで行った者、どこかの島で果てた者、それらは造船技術を抑えた幕府の犯した罪の結果でもある。しかも日本には思想信仰の自由がなかった。これがまた、運よく帰って来た漂流者たちを、どんなに苦しめたことか。取り調べのきびしさは、あるいは発狂せしめ、あるいは自殺者を出さしめたという。私は彼ら音吉たちの漂着したインデアンの村や、助けられて何か月か住んでいたフォート・バンクーバー、寄港したハワイ、そして、ロンドン、マカオ等を取材して廻《まわ》った。その後|更《さら》に北海道から船で名古屋に向かった。船が伊勢湾に入り、小野浦の沖を通った時、私は涙が流れてならなかった。彼らはどんなにこの小野浦に帰りたかったことであろう。どんなにこの小野浦の海を見、山を見、あの砂浜に立ちたかったことであろう。そう思うと、とどめようもなく涙が流れてならなかった。一体、何がモリソン号の悲劇を起こしたのか。そう私は鋭く誰かに問いたい思いで、この小説を書きつづけた。
題名「海嶺《かいれい》」は最初にも書いたとおり、百科辞典によれば「大洋底に聳《そび》える山脈状の高まり」とある地理用語である。私はこの海嶺という言葉を知った時、ほとんど人目にふれないわたしたち庶民の生きざまに似ていると思ったことである。たとえ人目にふれずとも大海の底には厳然と聳える山が静まりかえっているのである。岩吉も音吉も久吉も、それぞれに海嶺であったと思う。自分の生を見事に生きた人生であったと思う。しかも彼らは、その結果として、自分自身は知らずに、この日本の歴史に大きな関わりを持った。
即《すなわ》ちモリソン号が日本に与えた影響である。この事件を只事《ただごと》ならずと感じとったのが先《ま》ず蘭学者《らんがくしや》たちであった。モリソン号という船名によって、日本の学者たちは、高名な中国語学者モリソンが日本に訪れたと誤解したこともあったが、それのみでなく蘭学者は海外の事情に敏感であった。モリソン号を撃ち払った事実に大きな危機を感じた渡辺|崋山《かざん》、高野長英《たかのちようえい》らが「慎機論《しんきろん》」「夢物語《ゆめものがたり》」などを著し、幕政を批判した。これが世に有名な蛮社《ばんしや》の獄《ごく》を引き起こしたわけだが、とにかくモリソン号事件以来日本はいや応なく開国への道を徐々に歩き始めなければならなかったと言えよう。またモリソン号が砲撃を受けたために、アメリカは一八五三年、軍艦四|隻《せき》からなるアメリカ東印度《ひがしいんど》艦隊をもって、威圧するごとく日本に開港を迫ることとなり、更《さら》には一八五六年のハリスの来日となったわけである。むろんこれらのことと、自分たち漂流の因果《いんが》関係を、岩吉たちがどこまで知ることができたか、それは知らない。只《ただ》彼らは祖国を恋いつつ、異国に生き、そして死んだ。
 この小説を書きながら、私はいやでも人間の持つ信仰について考えざるを得なかった。板子《いたご》一枚下は地獄という生活の水主《かこ》たちは、まことに信心深く、船玉《ふなだま》をはじめ様々な神々に依り頼んで生きていた。が、それはあくまで国境のある信仰であった。自分たちの国にだけ通用する信仰であった。キリシタン禁令の日本に育った彼らにとって、日本の神々だけが安心して信ずることのできる対象であった。しかし、国を一歩外に出た時、彼らは今まで知らなかった宇宙の創造主、キリストの神に無縁であることはできなかった。それがどれほど彼らを恐れさせたか、現代の私たちの想像をはるかに超えたものがあったろう。「真実の神には国境はない」にも関わらず日本にはキリシタン禁制があった。そのことに彼らが、苦しみ恐れながら生きた姿を私はくどいまで書いた。これに関して言えば、音吉と力松は受洗《じゆせん》したといわれるが、他の者が受洗しなかったという記録もない。とにかく岩吉たち三人はギュツラフ訳聖書にかかわった。それがその生涯に多かれ少なかれ影響を与えたことだけは言えると思う。
尚《なお》、どこまでが小説で、どこまでが史料なのかという問いを、幾度か受けたが、このことについても少しふれておきたい。例えば、重右衛門日記は史料ではなく私のフィクションである。また漂流した宝順丸の十四人と、九州組の四人については、史料による事実も記したが、当然フィクションが多い。吉治郎が水を盗むくだりがあるが、恐らく大半がこの誘惑《ゆうわく》に負けた筈《はず》で、事実はもっと悲惨な様相を呈《てい》していたと思う。また、千石船《せんごくぶね》の水主たちが、米のみならず、油も、その他の品物も、抜き荷したという伝えは多い。小説の中では吉治郎が米をくすねたという話を書いたが、これも恐らくどの水主も役得としていたことと聞いている。しかしそれは今の政治家や官僚の収賄《しゆうわい》に比べれば、まことに微々たる役得なのである。ともあれ一人吉治郎だけがしたかのように書いたのは、小説のなりゆきとは言え、申し訳ない次第であった。
千石船や帆船内での用語については二、三表現を違えている。例えば「水主頭《かこがしら》」は「親爺《おやじ》」と呼ばれていたらしいが、私はわかりやすくするためにわざと「水主頭」という言葉を使い、「艫《とも》の間」を「水主部屋」とした。また「精神棒」は「気合棒《きあいぼう》」と名づけて見たこと等もそれである。
その他、私はイーグル号を二、三の史料から軍船として書いたが、イギリス海洋博物館の記録には、当時イーグル号という名の船が数|隻《せき》あり、軍船もあれば商船もあったようである。これに関して、三人の乗ったイーグル号は商船ではなかったかとの意見も寄せられている。何《いず》れにせよ、この点もまた小説としてお読みいただきたいと思う。
この小説を終わるに当たって、御礼を申しあげなければならない方が、余りにもたくさんおられる。初めて私に音吉、岩吉、久吉の存在を知らせ、知多半島に案内して下さり、十年にわたって祈りつづけてくれた聖文舎の田中啓介氏、史料提供に努めてくれた歴史家の目賀田裕一氏、小野浦取材の度に、高齢にもかかわらず献身的なご協力を賜《たまわ》った中川英一氏、音吉たちの菩提寺《ばだいじ》の良参寺住職鈴木邦良氏、音吉の血縁《けつえん》の、知多半島美浜の山本屋旅館山本豊治郎ご夫妻、その他小野浦の方々、更《さら》には千石船《せんごくぶね》の権威石井謙治氏、帆船《はんせん》の権威山形欣哉氏、大きな模型によって千石船を説明して下さった馬詰耕輔氏、今は亡き日本聖書協会の新見宏主事、青山四郎牧師、海老沢有道氏、朝日広告社の岡本敏雄氏、京都竜谷大学の沖田一氏その他多くの方々の積極的な御協力を頂戴《ちようだい》した。心から御礼申し上げる。また春名徹氏の名著「にっぽん音吉漂流記」が、たまたまこの小説の連載中に出版されたことは、私にとって大いなる師の出現で、まことに幸いなことであり、感謝なことであった。
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