一
朝、姿見の前に、二十二、三の娘と八十過ぎの婆さんが立って、花嫁|衣裳《いしよう》の着付けをしている。花嫁衣裳といっても、襟から肩のあたりにかけて、うっすら日焼けした色がひろがっている貸衣裳の|白無垢《しろむく》だが、それでも花嫁衣裳だということには変りはない。
普通、花嫁衣裳一式といえば、うちかけ、かけ下二枚重ね、かけ下帯、|長襦袢《ながじゆばん》の揃いをいうが、そう形式張ることもないし、第一、歩くのに重くて|叶《かな》わないから、うちかけはまっぴら御免、かけ下も一枚だけにして、それを真赤な長襦袢の上に重ねて羽織り、いまちょうど、長襦袢に下締めの|紐《ひも》を胸高に締めるところで、
「あ、痛い。」
「きつすぎた?」
「きつい、きつい。」
すこし|弛《ゆる》めて、
「これぐらいで、どう?」
「まだ苦しい。」
「どこが?」
「おっぱい。」
紐の位置が悪いのだ。やり直しになる。紐がほどかれると、ついでに肌着の前もはだけて、
「おお痛かった。」
大事そうに乳房を揉んでいた手が、隣へ移ると、指の跡に血が寄って|斑《まだら》に赤くなった乳房が姿見に映る。
ふっくらと形よく盛り上った頂に、桜色の乳首がぽっちりとして、まるで十七、八の娘の乳房のようだ。
不意に、くすっと笑ったのは、若い女の方で、
「|厭《いや》だわ。年頃の女の子みたい。」
「だって、年頃だもの。」
そういったのは婆さんの方だ。それから自分で肌着の前を合わせ、長襦袢の前を合わせて、
「はい、どうぞ。今度は、ちょうどよくよ。」
「うん。さっきだってちょうどいいつもりだったんだけど……。おっぱい、下がってきたのかしら。」
「そんなことないよ。あたしのおっぱい、下がったりするもんかね。」
「そんなら、背中がまるくなってきたのね、だんだん。」
「そりゃあ、仕方がないさ。だから、さっきもいったろう? 年頃だって。」
若い女はくすくす笑って、
「今度はどう?」
「ああ、結構。今度は楽。」
花嫁衣裳を着ているのは婆さんの方で、若い女の方はただ着付けを手伝っているだけなのだ。とすると、さっき姿見に映った乳房も婆さんのものだということになる。八十過ぎの婆さんの胸に、十七、八の娘の乳房がついているということになる。
まさか、と初めての人は誰でもそう思う。この菜穂里の町には、婆さんの乳房をみた男は何人もいるが、みな狐につままれたように、きょとんとしていた。誰だって、八十過ぎの婆さんがこんな乳房を持っているとは思わない。
その男たちは、婆さんの乳房をみたといっても、べつに盗み見などしたわけではない。婆さんの方から進んでみせてくれたのである。夏ならワンピースの胸元を開けて。冬ならセーターの裾を上までたくし上げて。
初めは誰でも面くらうが、婆さんとしては、まさか男の気を|惹《ひ》こうとしてそんなことをするのではない。ただ自慢と宣伝のためにみせるだけで、他意はないのだ。なんの宣伝かというと、全身美容の宣伝である。婆さんは、本業のほかに『イチジク風呂全身美容術』という長い看板も出している。
だから、婆さんはイチジク風呂全身美容術の先生であると同時に、マネキンでもあるわけだ。女には、どういうものかあまりみせたがらないが、相手が男なら、たとえば牛乳屋の集金係にだって、気易くみせる。
近頃の牛乳は薄くなった、いや、そんなことはないという問答から、いきなり話が乳房へ飛んで、
「ほら、あたしはこうよ。」
ということになる。にこにこしながら、
「どう? 可愛いでしょう。|尤《もつと》も、あたしのはもうお乳は出ないけど、恰好だけは八十を過ぎてもこうなんだから。」
それは自慢の方で、あとは、
「女は誰だって、気の配りようではこんなふうに出来るんだがねえ。イチジク風呂を馬鹿にしてるから、三十過ぎればもう|萎《しな》びちゃうのよ。よくみてって、奥さんに伝えてよ。」
と宣伝になる。
けれども、その|甲斐《かい》もなく、婆さんの全身美容術の客足がぱったり途絶えてから、もう久しいのだが、それはどうやら、婆さんの乳房が美しければ美しいほど、他人にはいよいよ妖しげな気がしてくるからであるらしい。
町から出ている菜穂里タイムスというタブロイド版の週刊新聞の記者も、いきなり乳房をみせられたときはさすがに呆然としたが、そこは新聞記者らしくすぐ好奇心を呼び戻して、
「ちょっと触らして貰えませんかね。」
といったが、あっさり断わられた。
「駄目よ。触っちゃ駄目。みるだけ。」
「駄目ですか。手を触れずに御覧くださいか。そういえば、ちょいとした美術品だなあ。」
「美術品? とんでもない。これは飾りものなんかじゃないんだから。ちゃんと生きてるんですからね。ほら。」
指で突き動かしてみせた。ぷりぷりと揺れる。なんの細工もなさそうである。
「不思議ですなあ。」
「あたしにゃ不思議でもなんでもない。」
「|躯中《からだじゆう》、どこもそんなあんばいなんですか。」
「まあね。どこもかしこもってわけにはいかないけれど。」
そうはいうけれども、婆さんは、乳房のほかはどこもみせてくれない。まさか、みせてくれともいえないから、乳房だけみて感嘆しているほかはない。
町の人たちは、婆さんのことを『|巴里《パ リ》|座《ざ》の|婆様《ばさま》』と呼んでいる。巴里座というのは、いま婆さんたちが住んでいる建物の|旧《ふる》い名で、そこはかつて映画が掛かったり、ドサ廻りの劇団が芝居を打ったりする小屋であった。その小屋を改造して住むようになってから、婆さんは巴里座を巴里館と改めたが、町の人たちは誰も巴里館とは呼んでくれない。巴里座という名を惜しむのか、いまだに『巴里座の婆様』である。町では、巴里座の婆様は不思議な婆様だということになっているが、婆さんの少女のような乳房はその不思議さの象徴のようなものだといっていい。