三
婆さんは、こんな日曜毎の町歩きを、巴里館のパレードと称している。たったひとりでもパレードというのは、かつて二十人余りで行列を作って、しかも楽隊入りで|賑々《にぎにぎ》しく町を練り歩いたころの思い出が、いまでも婆さんの記憶に鮮やかだからだ。
婆さんが、弦之丞を連れて満州から引き揚げてきて、巴里座の跡へ住みつくようになったのは、浜で船主をしていた弟が担保流れになったその建物を|廉《やす》く手に入れて置いてくれたからである。何年かして、弟は腹膜炎を患らって死んだが、婆さんは遺言で分けて貰った船を売り払って、芝居小屋を住居に改築した。
天井が高すぎるので、二階を作って、階下は住居とイチジク風呂、二階はあとで貸間にでも作り変えるつもりで、広い板の間にして置いた。階下も、捨子の好子も入れて三人きりの住居には広すぎたので、裏の方は小部屋に仕切って貸間にした。そのころは、外地からの引揚者や戦争で住む家をなくした人たちが、菜穂里くんだりにまで毎日のように流れてきた。貸間は|忽《たちま》ち|塞《ふさ》がってしまった。婆さんは裏の物置小屋や、芝居小屋当時の楽屋も改装して、困っている人たちに開放した。
ついでに、天井裏のように放置していた二階も部屋にしようかと思ったが、それを結婚式場に切り替えたのは、物置小屋に住みついていた大学出だという|屑鉄屋《くずてつや》の入れ知恵によるものである。畳を入れ、神棚を作り、ちいさいながら結婚式場の体裁を整えて、初めて巴里館の看板を掲げた。
その開館披露のパレードを出してくれたのが、裏の貸間の住人たちである。手分けして探し出した楽器を持ち寄って、和洋混成の楽隊もできた。巴里館結婚式場のほか、巴里館アパート、巴里館イチジク風呂の|幟《のぼり》も作った。婆さんは、生まれて初めて花嫁衣裳というものを着て、野の花で飾りつけをしたリヤカーに乗って町を廻った。あのパレードはよかった。
間借人たちも、いちどだけではおさまらなくて、つぎの日曜日にもパレードを出した。そのつぎの日曜日には、隣村まで足を伸ばした。貧しくて、愉しみのすくない間借人たちにも、パレードは恰好の憂さ晴らしだったのだろう、誰がいい出したともなく巴里館では日曜日がパレードの日ということになって、曇り空の土曜日には、いい齢をして軒にテルテル坊主を|吊《つる》す者もいた。
あのころのパレードは、よかった。
おかげで、結婚式場も思いのほかに繁昌した。
けれども、それも長くはつづかなかった。世の中がだんだん落ち着いてくると、急場|凌《しの》ぎの仮住居をしていた間借人たちが、ぽつりぽつりと出ていくようになった。町にも、風通しのいいアパートや貸間や社員寮ができて、土台がボロ家の巴里館では、いちど部屋が空くといつまでも塞がらなかった。
結婚式場の方も、町営の|小綺麗《こぎれい》な簡易結婚式場が完成すると、途端に客足ががた落ちになった。いまこそ景気のいいパレードが欲しかったが、そのころはもう、下手に大声を上げれば物売りと間違えられるほど小人数になっていた。残った楽器が太鼓と三味線では、どう仕様もない。村へいくと、猿でも連れてきたかと子供たちが集まってきた。
いまは、婆さんひとりが歩いている。花嫁衣裳の胸と背中に、プラカードを吊して。
婆さんはなにも叫び立てないし、口上も述べない。ただ車と犬に気をつけて、日射しに目を細めながらぽくぽく町を歩くだけである。胸が荒く波立ってくると、道端の電柱に|靠《もた》れて、一服つける。本当はしゃがみたいのだが、花嫁衣裳でしゃがむと、それきり立てなくなるから厄介である。動悸が鎮まればまた歩き出す。
べつに、決まったコースがあるわけではない。ただ足の向くままに、通りから路地へ、路地からまた通りへと歩いていく。
どこをどう歩き廻っても、駅と、波止場と、漁師町へは、忘れずに寄ることにしている。町の人々はもう馴れっこだが、駅へいけばまだまだ物珍しげな目に出会う。そんな目が、なるべく沢山、自分をみつめてくれればいい。笑う人もいるが、意に介しない。笑う人は自分とプラカードをみて笑っているのだから、宣伝効果があったと思っていいわけだ。
波止場へいくと、漁船の若者たちが|素《す》っ|頓狂《とんきよう》な叫び声を上げたり、鋭い口笛を鳴らしたりする。思わぬ|罵声《ばせい》が飛ぶこともあるが、どんな若者も客のうちだと思っているから、笑って手を振る。
船がひっそりしているときは、波止場の突端まで歩いていって、下ろし忘れた大漁旗が風にはためく音をしばらく聞いて、引き返してくる。
漁師町は、一本道である。道の両側に、潮風に吹き|曝《さら》されてしらじらとした家々が、低い軒を並べている。海側の家々の隙間からは、砂浜と、むこうに海がみえ、山側の家々の屋根には裏山の緑がしたたり落ちている。
ほかにはなんの変哲もない、|腥《なまぐさ》い町だが、それでもこの町へ寄らずに帰れないのは、かつて巴里館華やかなりしころ、この町がいちばんのお得意だったからだ。だから、あのころのパレードは、この町へ入ると一段と活気づいたものだった。楽隊の音が裏山に弾ね返り、道には屋根から驚いて飛び立った|鴎《かもめ》の群れの影が流れた。
いまは、婆さんが引きずる草履の音のほかは、波の音だけである。婆さんのひとりパレードも、いまは宣伝というよりも、巴里館がまだ生きていることを町の人々に告げるのが目的のようになってしまったが、婆さんはこの町へくるのが好きだった。
この町は、いい思い出だけに満ちている。歩いていると、あのころのパレードの幻がみえる。耳の奥には楽隊の音と、幟が風に鳴る音がきこえる。
婆さんは、町の家並の尽きるところまでいって、引き返し、町の中程の海側にある以前の間借人の家に立ち寄る。その間借人というのは、東京から流れ着いた戦争孤児で、正確にいえば間借人たちの間を転々としていた、いわば巴里館の居候であった。それが、浜で遊んでいるうちに|太《ふと》っ|肚《ぱら》な漁師の気に入られて、いまはその娘を嫁に貰って自分も屈強な漁師になっている。
あのころの間借人たちも散り散りになって、町にはその漁師がひとり残っているきりである。婆さんは、そこへ寄るのを愉しみにしている。
表口から、
「いるかい?」
と声をかけて、返事がなければ、勝手に隣の家との間の路地を通って縁側へ廻る。
縁側の、|藁《わら》で厚くお椀のような形に編んだ、エツコという|揺籠《ゆりかご》のなかに赤ん坊が眠っていれば、親の出先はそう遠くない。婆さんは、やっとエツコのそばに腰をおろし、しばらくは目をきつくつむって足の|痺《しび》れを怺えている。それから、手拭いで顔や首筋の汗を拭き、一服つける。
エツコのなかで眠っている赤ん坊の顔が、黒く斑に汚れている。けれども、それは、墨でもなければ|煤《すす》でもない。それかといって、|瘡蓋《かさぶた》でもない。二つに折った手拭の端を|摘《つま》んで、赤ん坊の顔すれすれに|撫《な》でるように振ると、黒い斑は嘘のようになくなる。
けれども、ちょっと手を休めて、ふとみると、またもやさっきの黒い斑が元のところに戻っている。
|蠅《はえ》の群れだ。何十匹とも知れない群れなのに、赤ん坊はなにも知らずに眠っている。
婆さんは、時折思い出したようにエツコの上に手拭いを振りながら、海を眺める。晴れた日にばかりくるせいか、ここから眺める海は大概静かだが、眺めているうちに、不意に水平線が持ち上り、そのまま海が起き上ってきて自分の方へ倒れかかってくるような不安に襲われることが、婆さんにはある。
いまでもはっきり|憶《おぼ》えているが、明治二十九年の六月十五日、不意に起き上って倒れかかってきた海に呑まれて、ここからすこし南にあった生まれ在所と両親が、一緒にこの世から消えてなくなった。そのとき、婆さんはまだほんの子供だったが、一つ下の弟の手を引いて、在所を通り過ぎていった旅芸人のあとを峠の上まで追っていたので、この世に残ることになってしまった。
弟は近くの漁師に貰われていったが、婆さんは遠縁の者に引き取られて、まもなく東京へ売り飛ばされた。その後、あのとき両親と一緒に波に|攫《さら》われた方が増しだったと悔むことが多かったが、いまとなっては、どちらでもよかったのだという気がしている。
うっかり、手拭いの先が|瞼《まぶた》でも|敲《たた》いたのか、赤ん坊が目を|醒《さ》まして泣き出した。
「ごめん、ごめんよ。おおよし、いい子。」
婆さんは、口をすぼめて鼠の鳴き声をしてみせながら、エツコを揺さぶりはじめるが、赤ん坊は泣き|止《や》まない。舌をいろいろに鳴らしてみせても、効き目がない。
婆さんは、仕方なく、着ている白無垢の胸元をこじ開けにかかる。昔、捨子の好子を拾ったころ、夜中に泣かれてほとほと手を焼き、こんなときは母親ならこうもするだろうかと、乳が出るわけもない自分の乳房を口に押し当ててみたところ、好子は|騙《だま》されて吸いつき、ますます怒って狂い泣きするかと思えば、意外にも乳首を口に含んだまま、すやすやと眠ってしまった。
それ以来、何度も騙して眠らせたが、赤ん坊とはどうやら乳よりも乳房に|安堵《あんど》するものらしい。
いつもなら、馴れた手つきで、するりと出せるのだが、こう紐や帯を幾重にも巻きつけられていては、ままならない。帯を押し下げ、やっとのことで胸の片方を押し開いて、エツコから赤ん坊を抱き上げた。
案の定、乳首を口に含むと、赤ん坊はおとなしくなった。それみたことか。
花嫁衣裳が、赤ん坊に乳を吸わせながら親の帰りを待っている。