三
結局、彼は地酒を五本飲んだ。
空気が澄んでいるせいか、それとも金木犀のかおりを存分に吸いながら飲んだせいか、いつになく、快く酔いが廻った。
東京で飲んでいると、飲む酒が一滴残らず胃の|腑《ふ》の底に、水銀のように|溜《た》まっているような気がすることがある。いくら飲んでも、その水銀の玉が|脹《ふく》らむばかりで、すこしも酔いが廻らない。あれは、|苛立《いらだ》たしい酒である。じりじりしながら飲んでいる。
ところが、今夜は、ほろりと酔った。酒が酒のまま、素直にはらわたに|沁《し》みるのだ。
「うまかった。やっぱり地酒はいいなあ。」
といって、女中に酒の名を尋ねると、女中は|灘《なだ》の名酒の名をいった。
これはちょっと興醒めだったが、田舎の人は正直でいい。
酒のあとは、茶漬けにした。女中は給仕をしてくれたが、|躾《しつけ》がいいのか無愛想なのか、盆を|膝《ひざ》にのせたまま目を伏せて、じっとしている。それではこちらも気詰まりだから、
「……しかし、驚いたなあ。」
と、さっき風呂あがりに地元のタブロイド新聞で読んだ記事のことを話そうとすると、
「また金木犀のことですか?」
と、女中はほんのすこし片方の唇の端を吊り上げていった。
「いや、今度は別だ。」と彼は笑って、「漁船が沈没したそうじゃないか、港のなかで。」
「ああ、第八福寿丸のことですか。」
「夜のうちはなんともなかったのに、朝になってみたら沈んでたんだって?」
「そういう話です。」
「驚いたね。どうしたんだろう。」
「さあ……。」
「不思議だね。新聞にも、原因は誰にもわからないと書いてある。」
「わかりませんでしょうね、多分。」
「でも、沈んだ船を引き揚げて、調べてみればわかるだろう。」
「さあ……。」
「そりゃあ、わかるさ、引き揚げて調べてみれば。」
女中は、ちょっとの間、首をかしげたままだったが、やがてちいさな|咳払《せきばら》いをして、
「やっぱり今度も、わからないのじゃないかしらん。」
「今度も、というと?」
「前にも似たようなことがありましたから。」
「ほう……。」
「この前は、第三共栄丸。去年……おととしですね。その前は大成丸。どっちも|烏賊《い か》釣りの漁船でしたけど、やっぱり夜中に沈んで、朝になってからわかったんです。」
彼は、途中で|箸《はし》を止めて、女中をみていた。
「……で、わからなかったのかね、沈んだ原因は。」
「わからなかったんです、結局。」
「引き揚げて調べてみても?」
「引き揚げて調べてみても。」
不思議なことがあるものだと思いながら、茶漬けの残りを食べ終ると、彼は、急におかしくなって笑い出した。
「面白いねえ。いや、面白いなんていっちゃいけないのかもしれないけど……。でも、夜が明けてみたら船が沈没していた、なんて、いいじゃないの。なぜ沈んだかは、誰も知らない……。」
「お代わりは。」
と、女中がにこりともせずにいった。
「もう、結構。お茶だけ頂戴。」と茶碗を出して、「しかし、いろんなことがあるんだね、田舎には。」
「東京にだってあるでしょう、いろんなことが。」
「それはあるけど、みんな味気ないことばかりでね。夜が明けてみたら船が沈没していた、なんてたぐいのことは、まず、ないな。不思議なことといっても、人間たちが拵えたからくりばかりでね。都会なんか、もう人間の|棲《す》むところじゃなくなりつつあるんだ。だから時々、こうして一と息入れに出かけてくるんだよ、菜穂里みたいな町を探して。しかし、なんだなあ、こうして夜が明けてみたら船が沈没していた港町で、金木犀の匂いを腹一杯に吸いながら、地酒を……地酒でなくてもいいが、とにかく一杯やって、|按摩《あんま》でもとって……ここは、按摩は呼べる?」
「呼べますよ。」
「じゃ、あとで呼んで貰おうか。……それでぐっすり眠れたら、もう、いうことないな。こんな旅こそ、まさにディスカバー・ジャパンだね。」
そういいながら漬物の残りに箸を伸ばすと、不意に、
「いえ、それはタクワンですよ。」
と女中がいった。
彼は思わず箸を引っ込めた。
「ジャッパ漬けというのは、」と女中はつづけた。「もっと寒くなりませんと。身欠き|鰊《にしん》に、大根に、人参に、玉菜に、高菜。これだけを塩と|糀《こうじ》で漬け込むんですよ。」
彼は、女中がなぜ急にそんなことをいい出したのか、わけがわからなかった。
「……鰊漬けのこと?」
「|他所《よ そ》ではそういうかもしれませんが、ここではジャッパ漬けっていいます。」
そのとき、そうかと思い当った。彼が、ディスカバー・ジャパンといいながらタクワンを食べようとしたのを、女中は、彼がタクワンをジャッパ漬けだねといって食べようとしたのだと思ったのだ。
「なるほど。ジャッパ漬けか。こいつはいいや。」
と彼は笑った。