三
玄関の外で、「今晩は。奥野さん、今晩は。」という女の声がする。一枝が立っていって、温泉旅館の女中の声で、
「はい、どちらさまでしょうか?」
しばらくして客を送り出し、戻ってくると再び地声で、
「街燈の集金。」
「なんぼだった?」
「あとでいいよ。」くすっと笑って、「奥さん……だってさ。」
「え?」
「奥さんだと。さっきの人がさ。」
「姉ちゃんのことを?」
「おまえの嫁さんのことをだよ。山の部落にいればただの百姓の嫁っこでも、町へ出てくりゃ奥さんって呼ばれるんだもんねえ。」
「……そんなこと、どうでもいいじゃねえかね。|他人《ひ と》が勝手にそういうんだから。」
「奥さんもいいけど、たまには仏壇ぐらい掃除したらどうかと思ってね。指で字が書けるくらい|埃《ほこり》が|溜《た》まってるじゃないか。」
「……仏壇を使うのは婆ちゃんだけだからな。」
「だから、掃除も婆ちゃんにさせようっていうのかい、七十八の婆ちゃんに! それに、あの婆ちゃんの寝部屋、随分隙間風が入るじゃないの。あれじゃ……。」
「それはどの部屋もおなじだぜ。家がおんぼろなんだから仕方がねえだろ?」
そのとき、玄関が開いて、伸子が帰ってくる。けれども、伸子はひとりきりだ。一枝は気落ちして、
「あんた、ひとり……。」
「はい……。厭だあ、姉さん。誰かと一緒だと思ったんですか?」
「誰かとって、婆ちゃんを連れてくると思ったから。」
「だって、婆ちゃん、みつからないんだもの。心当りのところを片っ端しから廻ってみたんだけど。」
三人、あとは言葉もなく互いに顔を見合わせている。やがて、一枝が隣の三畳間へ駈け込むように入っていって、鉦を一つ敲いて戻ってくる。
「姉ちゃん。」と作造。「そんなとこに立ってねえで、炬燵に入んなよ。蝋燭は消してきたろうな?」
「おらが消さなくても、どうせ隙間風が消してくれるだろうけどさ。」
伸子が遊びから戻った子供のように、炬燵のなかで両手を|大袈裟《おおげさ》にこすり合せて、
「おお、寒かった。」
「伸子。」と作造は、とてもいたたまれないというふうに、「酒、持ってこ。」
「え?」
「酒、持ってこって。」
「酒? 酒はあんた、やめたはずじゃない。」
「いいから、持ってこって。」
「駄目だあ。今度の怪我をきっかけにして、酒はきっぱりやめるって誓ったじゃないの。」
「そんな……つべこべいわねで、持ってこったら持ってこ。今夜だけ……おらはこうして寝てるんだから、なんにも心配|要《い》らねって。」
「……どうしよう、姉さん。」
「酒は、怪我には悪くないんだろうか。」
と一枝がいうと、作造は笑って、
「脚の傷に飲ませるんじゃねえって、姉ちゃん。平気だよ。」
「じゃ、おらも気つけに一杯貰おうかな。」
「そらみろ、気つけだって。」と作造は伸子にいう。「なんつうこともねえんだよ。」
伸子は不服げに、それでも台所の方へいきかけながら、
「冷やでいいね? それに|肴《さかな》はなんにもねえけんど。」
「肴なんか、漬物でいいよ、漬物で。」ほくほく顔で、「姉ちゃん、自慢じゃねえが、おらんとこの漬物はな、お|前《め》さん、デパートで売ってる……。」
「作造。」
「え?」
「おまえ、車にはねられたとき、酒飲んでたんかね。」
「飲んでたって……ちょっとだけな。」
「酔っ払って、ふらふら往来を歩いてたんじゃないのかい?」
「冗、冗談じゃねえ。ちっとばかしの酒で、このおらが酔っ払うかって。」
「……飲んでたなんて、ちっとも知らなかった。」
作造が乾いた笑い声を上げたとき、伸子が一升瓶とコップと漬物を運んでくる。
「はい、お待ち遠さん。なんの話?」
「いや、なに、酒は冷やに限るって話さ。さあ、姉ちゃん、勝手に注いでやってけれ。」
自分は伸子が注いだのを一と息に飲み干して、独り言のように、
「……とうとう飲んじまった。」
一枝は|呆《あき》れて、
「へえ……。」
「どしたい、目を丸くして。」
「おまえ、いつからそんなに酒飲むようになったんだい?」
「いつからって、もうずっと前からだ。」
「山の部落にいたころから?」
「そりゃあ、町へ出てきてからだけどね。村にいたころはオホ(濁酒)を茶碗に半分も飲めなかったが……。」
「三十にもなって、十七、八の若い者とおんなしじゃないのさ。町へ出てくれば途端に酒はおぼえる、煙草はおぼえる……。」
「姉ちゃんだって、酒も煙草ものむだろう。」
「そりゃあね、おらみたいに二十年も温泉場の女中してれば、厭でも……。」
すると、不意に伸子が叫ぶように、
「警察……やっぱり警察に届けた方がいいんじゃねだろうか。」
作造と一枝は、ぎくりとしたように顔を見合わせる。
「な、なにいうんだ、警察なんて……。」
「だけど、これ以上、おらたちになにができる?」
「だけど、警察に頼むって、お|前《め》……。」
「おらも。」と一枝が伸子に向き直って、「警察に頼むのは反対だよ。警察に頼むなんて、そんな|匙《さじ》投げたようなことは、おらにはできん。」
「おらはべつに匙投げたなんて……。」
「だけど、警察に頼むなんて、もう最後の最後の手段じゃないのさ。それを最初からいい出すなんて……。」
「おらはなにも最初から、警察、警察いうてるんじゃねえです。おらたちにできることは全部してしまったから、そういうたんです。」
「全部だって? おらたちにできることは全部? じゃ、なんでおらはここへきたんだろ。おらは、あんたらが打った電報に|招《よ》ばれてきたんだよ。」
「まあ、姉ちゃん。」と作造は手を上げて、「そりゃなあ、なにをどう決めるにも、おらたちだけじゃ決め兼ねるからだよ、姉ちゃん。姉ちゃんの意見|訊《き》かんと、おらたちにはなんも決められねえさ。」
「だったら、おらの意見も訊いてみたらどうかね。意見も訊かないで、いきなり警察だなんて……。」
すると、伸子はまた叫ぶように、
「あんたらがあんまり暢気だからよ。酒の話ばっかりしてて……。おらは朝っぱらから脚を棒にして歩いてきたっていうのに……。」
そういっているうちに、涙声になってしまう。
「そりゃあ、あんたは御苦労さんだったよ。」と一枝。「だけど、おらだって、こうして出かけてきてるんだしさ。いると思ったところにいなかったからって、すぐ警察なんていわずにさ、なんかほかに方法がねえもんか、三人でゆっくり考えてみようじゃないかね。」
「んだ、んだ。」と作造は|頷《うなず》いて、「めそめそするなって。なんとかなるよ。」
「なんとかって?」
「うん、そらまあ……姉ちゃん、やってけれ。」
と一枝のコップに注いでやり、自分も自分のコップになみなみと注いで飲む。