二
その女の靴に、モヨがまたしてもめぐり逢ったのは、翌日、学校から帰ってくる途中のことである。
モヨは、腹が減っていたので(腹が減ったときはいつもそうするように)船神様が|祀《まつ》られている神社へ|参詣《さんけい》に寄った。なにもわざわざ人目を|惹《ひ》くことはないから、鈴は鳴らさずにちいさく|柏手《かしわで》だけ打って、両手を合わせたまま|賽銭箱《さいせんばこ》の縁やまわりを丹念にみると、さいわい、きょうもおこぼれが四十円ほどみつかった。
ごっつおさん。素早く拾って、長い石段を駈け降り、鳥居の脇の菓子屋で|餡《あん》パンを二つ買った。それから、石段を途中まで昇って、そこに腰を下ろした。そのとき、不意にきのうの二人連れが鳥居の根元に現われて、石段を昇ってきたのである。
女は、きょうもあの紅い靴を履いていた。それが、いまどきの若い女には珍しく裾が|膝《ひざ》までのワンピース風の白い服に、よく似合っていた。モヨは、二人の顔をまともにみるのは初めてだったが、ただ申訳に、ちらと一|瞥《べつ》したきりで、あとは食べようとした餡パンを手に持ったまま、女の靴ばかりみつめていた。
女は、男の腕に|縋《すが》るようにしながら、モヨのすぐそばを通った。靴は、みていると自然に目がいっぱいに見開いてしまうほど、鮮やかな色をしていた。まるで、濡れているようだった。触れると、指先に、血のような色がつきそうだった。二人は無言で通り過ぎていった。
女の靴が上の境内にみえなくなると、モヨは大きな溜息をついた。胸がごとんごとんと鳴っていた。モヨは、パンを食べはじめたが、さっきまでの食い気がどこかへ消えてしまっていることに気がついた。パンを食べ忘れているうちに、すでになにかで胸が一杯になっているのだ。
モヨは、パンを袋に戻して、考えた。あの二人連れは、何者だろう。町には、あんな紅い靴を履くような女はいない。それに、町の人間なら、昼日中にテトラポッドの置場などへきて抱き合ったりはしない。大方、|他所《よ そ》|者《もの》だろうと見当をつけていたが、さっき顔を一瞥しただけで、他所者だということがはっきりした。
二人とも、みっともないほど白い顔をしていた。男の方は豆腐のような、女の方は|茹卵《ゆでたまご》のような白い顔をしていた。よほど遠くから旅をしてきたのか、男はひどくくたびれているようだった。目のまわりがすっかり黒ずんで、石段を昇る足取りも重たげにみえた。
女の方はといえば、靴や服に比べて、顔の手入れが全くおざなりだというほかはなかった。おそらく、それが女の素顔なのだろう、細い眉はいまにも消えてしまいそうに薄れて、唇は男にいじめられるせいか薄紫に変色していた。
モヨは、なんとはなしに、男が病人で、女が看護婦なのではないかという気がした。そうだとする根拠はどこにもなかったのだが、モヨは、自分の目に映った二人の様子から、なんとはなしにそう思ったのである。病気の男は、どこか都会から、いい空気を吸いにこの海岸へやってきたのだ。看護婦の女は、男の親に頼まれるかして、付き添ってきたのだ。
けれども、看護婦が果してあんな素敵な靴を履くだろうかと考えて、モヨはわからなくなった。それに、病人と看護婦が、テトラポッドの林のなかに人目を避けて抱き合ったりするだろうかと考えて、ますますモヨはわからなくなった。
これが裕福な病人と看護婦でないなら、このみっともないほど白い顔をしているのに身なりだけは立派な二人は、一体、何者なのだろう。
袋のなかの餡パンを、あちこち指で押してみながらぼんやりそんなことを考えていると、うしろから靴音がして、さっきの二人が降りてきた。普通の靴音のほかに、
『たん、たらん、たん、たらん……』
そんな風変りな靴音もしたが、それは女の靴の高い踵が石段を|敲《たた》いてくる音だった。
『たん、たらん、たん、たらん……』
二人は、また無言でモヨのそばを通った。女の靴は相変らず濡れているように光っていた。モヨはふらふらと立ち上った。
——その日、モヨはとうとうテトラポッドの林へは、いかずにしまった。日暮まで、紅い靴のあとを追って海べりを歩き廻っていたからである。その結果、モヨは、二人が病人と看護婦だろうという最初の考えを、改めなければならないことになった。
というのは、二人がカメラもスケッチブックも持たずに、なんの当てもなさそうに海べりをそぞろ歩きしているところは、まず病人と看護婦らしかったが、普段、滅多に人が近寄らないような危険な場所——たとえば、直接海へ落ち込んでいる|断崖《だんがい》や、波が絶えず高いしぶきを上げているぎざぎざの岩鼻などが目に入ると、男は突然、病人らしくもなく冒険的な行為に及んだからである。
彼は、ガードレールを乗り越えていって、断崖の縁に|腹這《はらば》いになって下を眺めたり、岩浜を身軽に跳びながら突端までいって、どっさりしぶきを浴びて戻ってきたりした。こんな病人がいるだろうか。いるとしても、病人がそんなことをするのを黙ってみている看護婦がいるものだろうか。
女が最も看護婦らしくなかったのは、砂浜に打ち揚げられていた猫の死骸に、あやうく|躓《つまず》きそうになったときであった。女は悲鳴を上げて飛び退き、両手で顔を覆って|蹲《うずくま》り、長いこと泣いた。
こんな気弱な看護婦がいるだろうか。モヨは、まだ学校へ入る前の夜祭の食堂で、菜穂里病院の看護婦がきつねうどんを啜りながら、里から出てきたらしい老婆に人間のはらわたの長さについて話しているのを聞いたことがある。
けれども、女が看護婦であろうと、なかろうと、そんなことはモヨにはどうでもいいことで、問題は女が履いている靴だけであった。その靴が、欲しいとはいわない。たったいちどだけでいいから、触ってみたい。この手でそっと撫でてみたい。その上、出来ることなら両足に履いて、ほんの十歩だけでも歩いてみたい——モヨの|希《ねが》いはそれだけだったが、それさえ到底|叶《かな》うまいと思えばこそ、離れ難くて、日暮まで靴を追って歩き廻ったのである。
靴がホテル・ハーバーの玄関に消えて、日が落ちた。