三
その夜のあけがた、モヨは、女の紅い靴を履いた夢をみた。女が履いてもいいというから、履くと、途端にそれがガラスの靴になって、ぐしゃっと砕けるという夢である。
足の裏が妙にぬらぬらするので、手で触ってみると、ガラスの破片で切れたのか指先に靴とおなじ色の血がついてきた。
きのう、目が痛くなるほどみつめた女の靴と、うろ|憶《おぼ》えのシンデレラ姫の話とが、頭のなかで変に|融《と》け合っていたからだろう。目が|醒《さ》めてみると、どういうものか、モヨはちょっぴり小水を洩らしていた。
こんな朝は、さっさと寝床を畳んで家を出るに限る。モヨは、夜がすっかり明けるのを待って、こっそり寝床を畳むと家を出た。テトラポッドの親方が通ってくるようになってから、モヨの寝場所は物置部屋の隅になったが、こんなときは大いに助かる。
外へ出てみると、雲一つない上天気だった。モヨは、水平線を離れたばかりの朝日に目を細めながら、きょうは学校へいくのはよそうと思った。こんなに上天気なら、あの女はきょうも男の腕に両手で縋るようにして、海べりをそぞろ歩きするだろう。それではこちらも、きょう一日、またあの紅い靴を眺めて暮らそう。
モヨは、ホテル・ハーバーの前のコンクリート橋のあたりで、女が出てくるのを待とうと思った。登校時間がきたら船神様の杉林に隠れて、目の下のホテル・ハーバーを見張っていればいい。そんなつもりで、モヨはホテル・ハーバーの方へ急いだが、そんなに急ぐ必要はなかった。きのうの二人が、もうホテルを出て、浜通りをこっちへやってきたからである。
モヨは、なにもそうすることはなかったのに、石屋の|石塀《いしべい》の蔭に隠れた。紅い靴の爪先に、朝日が金色の玉になって揺れていた。モヨは女の顔をみて、おやと思った。淡い紫色だった唇が、くっきり靴の色に染まっている。
モヨは、相当の間隔を置いて二人のあとをつけていった。漁師町を出外れると、二人はぴったりと寄り添って|縺《もつ》れるように歩いた。|却《かえ》って歩きにくいだろうに、そのままで随分歩いた。鬼泣きまできた。
鬼泣きというのは、海に落ち込む断崖に深い亀裂が入っていて、そこに打ち寄せる波の音が亀裂の内壁に、おおん、おおんと反響する、それが鬼の泣き声に似ているという菜穂里の名所の一つである。そばには、鬼の座敷と呼ばれる緩い傾斜の岩畳もある。
二人は、道をそれると、その鬼の座敷の方へ降りていった。ここは、例えば広場が海の方へ傾いているようなところだから、近寄れば|忽《たちま》ちみつかってしまう。それで、モヨは|諦《あきら》めて、道の反対側の高台へ登っていった。このあたりは、幼いころからの遊び場だから、高台の中腹に鬼の座敷が|隈《くま》なくみえる場所があることを、モヨは知っていた。
二人は、道からはみえない岩蔭に腰を下ろして、しばらく熱心に海をみていたが、やがて女がゆっくりとうしろへ身を倒し、その上に男が覆いかぶさった。モヨは、またかと、うんざりした。人気がないとみれば、すぐこれだ。どこがそんなに旨いのか。
モヨは、むっつりとして、鬼の座敷がみえる場所を離れた。ああなると、男は欲張りだから、長引くのである。こちらもそのつもりで時間を|潰《つぶ》さなければならない。
モヨは、|谷間《たにあい》の方へ降りていって、野生の菜の花を十本ほど摘んだ。それから、ゆっくりと中腹のさっきの場所へ引き返した。
すると、どうしたのだろう、鬼の座敷の二人がみえない。あたりを隈なく見渡したが、どこにもいない。
ただ、鬼泣きの亀裂の縁のところに、なにやら紅いものが、ぽっちりと|芥子粒《けしつぶ》のようにみえていた。その紅い色が、ただごとではなかった。モヨは坂道を駈け降りた。道を横切って、鬼の座敷へ駈け降りた。やはり、二人の姿はどこにもなかった。
鬼泣きの上へ登ってみた。すると、亀裂の崖縁に、あの紅い靴がきちんと|揃《そろ》えて脱いであった。そばには男の黒い靴も、おなじようにきちんと揃えて脱いであった。けれども、男も女もどこにもいない。
モヨは、ちょっとの間、すこし離れたところから黙ってその女の靴をみつめていた。それから、亀裂の縁に腹這いになって、下を|覗《のぞ》いた。
|眩暈《めまい》がするほど下の方に、亀裂の底のちいさな入江が、波が打ち寄せるたびに白く|泡立《あわだ》ち、揺れ騒ぐのがみえている。モヨは、辛抱強く見下ろしていた。すると、一つの引き波に乗って、脚をひろげたままの女の躯が、ひらと反転しながら外海へ滑り出ていくのが目に入った。
それをしっかりと見届けてから、モヨは身を起こして、まだ両膝を岩に落としたまま、女の靴へ手を伸ばした。最初、人差指で触れてみて、色がつかないことを確かめてから、両手で拾い上げた。しっとりとした手ざわりだった。明るい朝の日射しにかざしてみた。いい色であった。まるで生きているもののように鮮やかであった。|堪《たま》らなくなって、両手で胸に抱き締めた。そのまま、一目散に道へ駈け降りた。
モヨは、脇目もふらずに、すたすたと町へ帰ってきた。まっすぐ、港の作業場へいって、テトラポッドの林へ入った。やっとここへ戻ってきた。ここなら、誰に|見咎《みとが》められる心配もない。
モヨは、コンクリートの地面に靴を置いて、ちびた下駄を脱いだ。靴はやはり大きくて、踵の方が大分余った。歩くと、高い踵が、コンクリートの地面を『たん』と敲いた。モヨは、ちょっと首をすくめて、まわりのテトラポッドを見廻した。
「嗤っちゃ、|厭《いや》だよ。」
そういいたかった。がふがふで、踵が余っているのだから、どうしても地面を敲いてしまう。
『たん、たらん、たん、たらん、たん、たらん、たん、たらん……』
モヨは、まわりのテトラポッドたちに肩をひょこひょこさせてみせながら、灰色の林のなかの細道を、何度も行きつ戻りつした。