一
あそこの|親爺《おやじ》の——というのは菜穂里駅前の理髪店〈バーバー・|鴎《かもめ》〉の主人のことだが——自慢話は、大概当てにはならないという説があるけれども、こういう場合は、まず致し方がないだろう。ほかに適当な人物も見当らないし、ここはやはり手っ取り早いところで、彼に頼んでみるより仕方がない。
バーバー・鴎へ散髪にいくと、毎度なにかしら自慢話を聞かされることになるが、その自慢話のなかに、いつか団体旅行で|香港《ホンコン》へいったとき、九竜という街の招待所という|曖昧屋《あいまいや》で、フィリピン女と英語で寝物語をしたというのがあった。
それが、どの程度の寝物語だったのか、ちょっと眉唾な気もしないではなかったが、人は見掛けによらないものだから、あれで、柄にもなく、すこしは英語がわかるのかもしれない。案外、用が足りるかもしれない。
待合室の売店の女の子が赤い顔をしてやってきて、さっきの下りのジーゼルカーで着いた外人の客がなにやらものを尋ねるのだが、さっぱりわからなくて困っていると告げたとき、助役はすぐ、バーバー・鴎のことを頭に浮かべて、そう思った。
「その外人が|喋《しやべ》っとるのは、英語かな?」
「英語です、多分。アメリカ人だと思うんですけんど。」
「そんなら、そこのバーバー・鴎へいって」と助役は窓から駅前広場のむこうを指さしていった。
「親爺さんにちょっときて貰わにゃあ。わしの英語は、ちと古いでな、いまの時代にゃ通用するまい。」
女の子がバーバー・鴎を呼びに走り出ていったあと、助役は、売店を見張っていてやるつもりで、ホーム伝いに改札口のところまでいってみた。すると、なるほど待合室の壁のポスターを所在なげに眺めていた中折帽子にレインコートの、あまり背の高くない初老の外人が、助役の帽子の金筋をみてほっとしたのか、急に嬉しそうな顔をして帽子に手を上げながら近づいてきた。
助役は|狼狽《ろうばい》したが、待合室の人々が珍しそうに見守っているものだから、急に|踵《きびす》を返して逃げ出すわけにもいかない。それで、とっさに、
「やあ、どうも。|植える噛む《ウエルカム》。」
と助役はいって、白い手袋をはめた手で敬礼をした。外人はなにか話しかけてきたが、聞いてもわかるわけがないので、構わずに、
「ぷりず、ぷりず。」
といって改札口の|柵《さく》の戸を開けた。
外人は、「せんきゅ。」といって改札口を通った。それくらいならわかるが、それ以上はいけない。それで、もっぱら、「ぷりず、ぷりず。」で先手を打ちながら事務室へ案内して、空いている椅子を、「ぷりず。」といって指さした。まあ、お掛けなさいともいえないのが、われながらおかしかったが、物わかりのいい外人で、「せんきゅ。」とおとなしく腰を下ろしたので、助かった。
そこへ、バーバー・鴎の主人が、白い仕事着の前をはだけたまま駈けつけてきた。
「外人が、どうかしたんですと?」
「それが、どうしたんかわからんのでな、ちょっと御足労を願ったわけだが、なにを尋ねとるのか|訊《き》いてみてくれんかね。」
「なるほど。」
バーバー・鴎は|頷《うなず》きながら外人に目を移すと、不意に、「はろう。」といって、右手をちょっと上げた。外人は、面くらったように目を大きくしたが、すぐに微笑を浮かべて頷きながらなにかいった。バーバー・鴎が腕組みをして、「おっけい、おっけい。」というと、外人は脱いだ中折帽子を小刻みに振り動かしながら、本格的に話しはじめた。
バーバー・鴎は、無言で耳を傾けていたが、話が一段落すると、|呆《あき》れたように、
「これが英語ですかいのう。」
といった。これには助役もびっくりして、
「英語じゃないんかね。しかし、わしはさっき、ふたこと三言、英語で話したんだがね。」
「これが英語だとすると、なんとも|訛《なまり》の強い英語ですじゃ。」
バーバー・鴎はそういうと、外人に向って、「なんも、なんも。」といいながら、ゆっくり首を横に振ってみせた。けれども、外人は諦めずに、また帽子を振りながら熱心に話しはじめた。
何度繰り返してもおなじようなことになりそうだったが、三度目に、バーバー・鴎は、さすがに一つ、発見をした。
「この人、焼鳥が食いたいんじゃないのかねえ。」
焼鳥とはまた唐突な発見であったが、そういわれてみると、外人の話のなかには、確かに焼鳥とも聞き取れるような発音があったような気が、助役にもした。それで、「焼鳥?」と念を押してみると、外人はぱっと表情を明るくして、
「おお、いえす、やき、とりっこ。」
といった。
二人は、顔を見合せて、くすっと笑った。このあたりでは、物の名前の尻に「こ」をつけて、親しみを表わすのがならわしである。魚は魚っこ、船は船っこ、|林檎《りんご》は林檎っこ、焼鳥は焼鳥っこである。それを、この外人、ちゃんと心得ている。ひょっとすると、これは相当な日本通の外人かもしれない。
何年か前に、やはり日本通だという外人がひとり、|苺《いちご》煮を食いにわざわざこの町へきたことがあった。苺煮というのは、まさか苺を煮たものではなく、獲れたての|雲丹《うに》と|鮑《あわび》を材料にした一種の|潮汁《うしおじる》で、お椀の底に沈んだ雲丹が木苺そっくりにみえるところから、この名がある。刻んだ|紫蘇《しそ》の葉をぱらっと浮かべると風味を増す。日本酒のほろ酔いのころに飲むと、最も|美味《お い》しい。
その外人は、苺煮を何杯もお代わりし、ついでにきんきという赤い魚の塩焼きと、|海鼠《なまこ》の酢のものに舌鼓を打って帰っていったが、外人にも不思議な舌の持主がいるものである。
けれども、苺煮ならこの浜独特の料理だから、わざわざ食いにくるのはわかるとしても、焼鳥は日本全国到るところにあるのだから、なにも菜穂里くんだりまで食いにくることはないだろう。それとも、この町に、焼鳥で音にきこえた店でもあるだろうか。
二人は指を折って数え上げてみたが、思い当る店はなかった。この町で焼鳥を食わせる店は、路地の小料理屋か、そうでなければ名もない屋台店ばかりである。
「それにしたって、こんな時間じゃな。まだどこも店を開けとらんだろう。」
助役が懐中時計を覗いていった。
すると、いつのまにか事務室にきて立ち聞きしていた線路工夫のひとりが、
「焼鳥なら、そこの|鯨屋《くじらや》でも食わせるがね。」
と口を|挟《はさ》んだ。
そうだ、鯨屋がいい。鯨屋なら近いし、食堂だから店は朝から晩まで開いている。
「それじゃ、あんた、鯨屋は隣なんだから、この人を案内してってくれんかね。」
助役がバーバー・鴎にそういうと、彼は、言下にそいつは御免だといった。さっきは|髭剃《ひげそ》りの客の|顎《あご》を蒸しタオルで包んだまま出かけてきたから、そろそろ店に戻らなくてはならないという。
「いいじゃないかね、ついでだもの。あんたがいなきゃ、鯨屋の親爺さんだって困るだろう。」
「わしがいたって、大した役にも立ちませんですて。」と、バーバー・鴎は珍しく|謙遜《けんそん》していった。「相手がせめて女ならねえ。わしはどうも、男の英語は苦手ですじゃ。」
結局、助役も付き添いで鯨屋まで同行することになってしまった。