二
鯨屋の主人、通称ドモ兵は、この外人がおまえさんとこの焼鳥が食いたくてはるばる旅をしてきたそうだと|煽《あお》り立てると、惣ち耳まで真赤にして、
「や、や、焼鳥にも、さ、さ、さまざまある。なんにする。」
といった。
そこで、バーバー・鴎が自分の|躯《からだ》のあちこちを指さしてみせながら、
「焼鳥、めにめにね。はつ? れば? がつ? しろ? なんこつ? かしら? まめ? こぶくろ? どれでもおっけいね。」
と外人に注文を訊いた。
すると外人は|訝《いぶか》しそうに眉を|顰《しか》めて、
「……やき、とりっこ?」
と情けない声を出した。
「おお、いえーす、焼鳥っこ、めにめに、たくさんね。」
けれども、外人はいよいよ顔を曇らせて、両手を横にひろげると、これはいったいどうしたことかと問うように助役の顔をみた。
「わしは、もはやこれまでだね。」と、バーバー・鴎が苦笑していった。「やっぱし、どうも男は相性が|悪《わり》いや。んじゃ、まず、ごゆっくり。しいゆうあげんね。」
彼は外人にちょっと片目をつむってみせると、さっさと店を出ていってしまった。
残された助役は、鯨屋と顔を見合わせて吐息した。
「な、な、なんなら、ホルモンもできるが、そういってみたらどんなもんかね。」
鯨屋は、事情が呑み込めないままに、ちょっと焦り気味にそういったが、そんなことをいう必要はなかった。外人が、もう仕方がないというふうに首を振りながら、上着の内ポケットから一枚の古い写真を出してみせたからである。
腕組みして笑っている外国の兵隊の肩に、髪をちりちりに縮らせた日本人の若い女がしなだれかかっている写真だったが、その兵隊の顔がどこかでみたことがあると思ったら、いま目の前にいる外人そのひとであった。
「ほう、若かったんだねえ。」
と思わずいって外人をみると、彼ははにかみ笑いを浮かべて、片方の頬だけ、顔面神経痛のようにひくりと|痙攣《けいれん》させてみせ、写真の女の方を指さして、
「まい、わいふ。」
といった。
そのとき、助役は突然古い英語を思い出して、
「おお、|猥婦《ワイフ》。」
といった。
「いえーす、まい、わいふ。」
助役はなぜともなく感動した。
「これ、女房だと。この人の奥さんだと。」
彼は鯨屋へ目を輝かせながらそういった。
すると外人は、要領をおぼえたのか、人差指でゆっくり写真の細君を敲きながら、
「はあ、すぃすたあ、やき、とりっこ、はあ、すぃすたあ。」
といった。
またしても助役の頭に|閃《ひらめ》くものがあった。
「おお、|吸舌《スイシタ》。」
と彼は叫ぶようにいった。
「いえーす、すぃすたあ。」
「女のきょうだいがいるっちゅうわけだね。この人の女房の、姉か妹っちゅうわけだね。」
そのとき、写真の裏を蛍光燈の方へ傾けてまじまじとみていた鯨屋が、
「じょ、助役さん。」といった。「ここに、八木春代と書いてある。」
みると、なるほどそんなペン書きの文字がうっすらとみえる。助役はいよいよ|冴《さ》えてきて、大胆にも、
「|猥婦《ワイフ》、|合歓《ネーム》、八木春代?」
と外人に問うた。すると、外人は目玉がこぼれ落ちんばかりに目をまるくして、
「いえーす、やき、はるうよ、いえーす。」
といって頷いた。
助役と鯨屋も顔を見合わせて、ほとんど同時に、これで読めたと頷き合った。外人のいう「やき、とりっこ。」は、焼鳥のことではなくて、おそらく八木鳥子のことなのだ。彼は、自分の細君の姉か妹に当る八木鳥子という女性を訪ねて、この菜穂里の町へやってきたのだ。
助役にも、鯨屋にも、八木鳥子という女性の心当りはなかったが、なにしろ人口一万の町である。人探しということになれば、とても駅や鯨屋の手には負えない。やはり警察の手を借りねばならない。
「ゆう、ごう、ぽりす。」
鯨屋が、不意に外人へそういったので、助役はびっくりした。
「あい、すいんく、そう。めに、ぴいぷる、いん、ぜす、たうん。ゆう、ごう、ぽりす。」
全く、人は見掛けによらないもので、鯨屋の英語が正しいかどうかはともかく、外人が素直に椅子から腰を上げたことと、ドモ兵が英語ではちっとも|吃《ども》らなかったことに、助役はいたく感じ入った。
外人を連れて鯨屋を出ると、駅舎の前で客待ちしていたタクシーに乗せて、運転手にまっすぐ警察署へいくようにといった。外人が窓から手を出して、
「せんきゅ、べりいまっち。」
というので、助役はその手を軽く握って、
「いやあ、|鈍米《ドンマイ》。」
といった。
タクシーが広場から出ていくのを見送っていると、助役はちょっと眩暈がした。英語は昔とった|杵柄《きねづか》だから、まだいくらでも思い出せそうだったが、やはり血圧がすこし上っているような気がした。年寄りは、調子に乗ってはいけないのだ。