三
警察署では、駅の助役からの電話で、外人が着く前から彼の大体の用向きは承知していた。ところが、警察署にも英会話に自信のある者はいなかった。あちこち問い合せて、|罐詰《かんづめ》工場の工場長が何年かカナダへいっていたことがあり、|流暢《りゆうちよう》な英語を話すということがわかった。けれども、その工場長とまだ連絡がつかないうちに、外人が署に現われてしまった。
彼は、鯨屋で味を占めて、そこでもまず自分たち夫婦の若いころの写真を出してみせた。ところが、その写真から、思いがけないことがわかった。菜穂里署の|主《ぬし》のような老巡査が、それを覗いて女の顔に見憶えがあるといい出し、誰だか思い出した拍子に、思わず女の前歴について口を滑らせてしまったのである。
「なんと、こいつは|疾風《はやて》のお春じゃないか。」
老巡査はそういった。
疾風のお春とはまた伝法な——|掏摸《す り》ですかと若い巡査が尋ねると、
「いや、終戦直後の進駐軍相手の売春婦だよ。わしをさんざん、てこずらせた奴だ。」
もし売春婦といわずに、パンパンといったら、外人の機嫌を|甚《はなは》だしく損じたかもしれないが、そこは田舎弁の早口だから、間違っても聞き咎められる心配がない。
物好きな巡査部長が、外人に向って片言の英語をためしている間に、老巡査が若手に洩らした思い出話によると、疾風のお春はこの浜育ちの勝気な女で、本名を八木春代といい、戦争中は女子|挺身隊《ていしんたい》を志願して川崎の軍需工場で働いていたのに、終戦で浜へ帰ってきたかと思うと、もういつのまにか県庁のある美羅野市で進駐軍相手のダンサーになっていた。ダンサーがいつのまにかパンパンになった。
疾風という名は、誰がつけたのかしれないが、実際、逃げ足の早い女で、パンパン狩りをしてもなかなか捕まらなかった。たまに捕まると、美羅野署の刑事が付き添ってこの署まで届けてくる。それを老巡査が受け取って、家まで送り届けるのだが、ちょっと目を離した隙にもう姿をくらましていて、付き添ってきた刑事より一と足お先に、また美羅野の街角へ舞い戻っている。
そんな、まことに疾風のような逃げ足の早さに、何度てこずらされたかわからない。そのころ、美羅野でも疾風のお春といえばいい顔の|姐御《あねご》だったが、朝鮮戦争の直前に、ふっと美羅野から姿を消してしまった。それ以来、全く消息が絶えていたが、外人の話の様子からすると、お春は彼と一緒になってアメリカ本土へ渡っていたらしい。
お春の実家では、両親はすでに死亡しているが、老巡査の記憶では確か妹がひとりいたはずだというので、役場と連絡をとって調べてみると、その妹は現在もこの町に住んでいるということがわかった。
八木鳥子、三十八歳。まだ独身で、菜穂里洋裁学院の教師をしている。
ちょうどそんなことがわかったところへ、罐詰工場の工場長が駈けつけてきた。彼は、すこし巻舌の英語でときどき念を押しながら外人の話を聞いていたが、やがて話の概略をこんなふうに通訳した。
——自分の名はアルバート・チャップマン。終戦直後、進駐軍の兵士として日本に上陸し、各地のキャンプを転々としたのち、本国へ帰還して、それ以来ずっと電気工夫を職業にしている。妻の春代とは、美羅野のキャンプにいたころに知合い、本国へ一緒に連れて帰って、結婚した。春代は、結婚後は家政婦になり、貯金だけを楽しみに夫婦共働きをしていたが、不幸にも|肺癌《はいがん》に取りつかれて去年の暮に亡くなった。
春代は、日頃自分にもしものことがあったら、自分の貯金を遺産として、日本に残してきたたったひとりの妹に贈ってくれるようにといっていた。日本を離れてくる前に、姉妹の間に何事があったのかわからないが、春代は妹が自分をひどく恨んでいると思い込んでいて、それをなによりの悲しみにしていた。この二十何年かの間、手紙は一通も書かなかったが、心のなかでは絶えず妹のことを想っていた。
自分は今度、亡き妻の遺志を果すべく、ひとりで日本へやってきた。いまここに、妻の名義の貯金をそっくり持参している。合わせて一万ドル余りになる。自分には、亡き妻の遺志に従って妹を探し出し、この一万ドル余りの貯金を遺産として彼女に贈る義務がある。御協力を願いたい。妻の妹の名は、「やき、とりっこ」である。——
その八木鳥子の所在は、すでに突き止めてあることを告げると、チャップマン氏はいますぐにでも会いたいといった。それは無理もないことで、ちょうど恰好の通訳もいることだし、警察ほど公正な立会人に恵まれている場所は他にないわけだから、ここで遺産の贈与式を済ませてしまおうということになった。
八木鳥子のことは、姉の春代にさんざんてこずった老巡査が、これもなにかの因縁だろうといって、自分で洋裁学院まで迎えにいった。彼は、玄関に出てきた鳥子に、ただ、実はあなたにぜひ会いたいという人がきているから、ちょっと署までおいで頂きたいといっただけだったので、鳥子はみちみち、浮かぬ顔をしていた。
誰だって、身になんの憶えもないのに、いきなり警察までこいといわれたら、面白くない。それはわかっているのだが、遺産のことなど、第三者が軽はずみに口にするべきではないだろう。思わぬ大金が転がり込んで、うまい話だと他人は思うが、本人には肉親の死の悲しみがあるのだから、一概にうまい話だとばかりはいえない。
老巡査は、まだ明るい街を未婚の女性が警官と並んで歩くのは鬱陶しいだろうと思い、すこし遅れて歩きながら、前をゆく鳥子と、二十何年か前、やはりこんなふうにして家へ送り届けてやった姉の春代を比べてみて、おなじ姉妹でありながらこんなにも違うものだろうかと、不思議な気がした。
あのころの春代は、人間これ以上ふしだらにはなれないだろうと思われるような、そんな不謹慎な匂いを全身から発散させていたものだが、鳥子は逆に、極度につましく禁欲的な匂いを身のまわりに漂わせているように思えた。
片方は、身も心も放浪の果てに一万ドルの貯金を残し、片方は、生れ故郷に固く身を守ってただじりじりと齢を重ねている。
これは、育った時代の相違だろうか。それとも性格の違いだろうか。あるいは、いまの鳥子は、思春期のころの姉に対する激しい反撥心や、生理的な嫌悪感の所産なのかもわからない。
警察での鳥子は、終始、狐につままれたように、ぼんやりしていた。黄ばんだ|艶《つや》のない顔は、表情に乏しく、目はチャップマン氏の顔と通訳の工場長の|口許《くちもと》の間を揺れ動いていたが、ほとんど感動の色を浮かべなかった。ただ、一万ドルが日本の金にすればおよそ三百万円だということを聞かされたとき、鳥子はなにかの発作でも起こしたかのように、|膝《ひざ》の上でびくっとスカートを握り締め、頭をぶるぶると振りながら、
「いけません、そんな……そんなお金、私、頂けません。」
と叫ぶようにいった。
「しかし、これはお姉さんが、あなたのために貯めて置いてくださったようなお金ですからねえ。有難く……。」
と署長がいったが、
「ですから、私、頂けないんです。私、妹として、姉さんからお金を頂く資格なんかないんです。私は長いこと姉さんを……。」
それから、鳥子は両手で顔を覆って、幼な子のように泣き出した。
けれども、結局、鳥子は姉の遺産を受け取った。チャップマン氏は、その晩は望洋館に一泊して、翌日また菜穂里駅からジーゼルカーで帰っていった。その日、助役は血圧が高くて、駅のそばの官舎で安静にしていたが、夕方、若い駅員がきて、きのうの外人が引き揚げていったことを知らせてくれた。
「どんな顔をしてたかね。」
「なんだか、にこにこしてましたよ。」
どうやら〈やき、とりっこ〉はみつかったらしいなと、助役は思った。あの外人のことは、いずれ菜穂里タイムスに出るだろう。苺煮を食いにきた外人のことでさえ、あんなにでかでかと出たのだから、今度も根掘り葉掘りの記事が紙面を埋めることだろう。
これでまた、町に話題の人がひとり誕生するわけだ。八木鳥子。どういう女性か知らないが、これから当分の間は、身のまわりをひしひしと押し包んでくる、ある事ない事の|囁《ささや》き声に、じっと耐えていなければならないのだ。
あの外人が持っていた写真の女性、ただ者ではないとみたが、あの写真が姉だか妹だかの迷惑にならなければ幸いである。
若い駅員が帰ったあと、そんなことをぼんやり考えていると、庭の方から、垣根越しに隣家の子供をからかっている妻の声がきこえてきた。子供もいない、従って孫もいない妻が変に甘ったるい声で、「ばいばい、ばいばい。」などといっている。
ばいばいか。それにしても、もう自分には外人と英語で話す機会などあるまいな、と助役は思い、
「……|猥婦《ワイフ》。」
と一と言、|呟《つぶや》いてみた。