二
その家は、高台にある中学校の裏門から漁師町へ降りる近道の途中にあった。そのあたりは、つい二十年ほど前までは人の棲まない荒地だったが、戦後、そこに新制の中学校が出来てからはまわりにぽつりぽつりと家が増え、いまでは〈見晴らしケ丘〉などと呼ばれて、町ではまず上等の住宅地ということになっている。
アルミサッシの窓のあるモルタル塗りの、屋根には赤や緑やコバルトの瓦をのせた当世風の住宅があるのは、町ではこの一郭だけである。その家も、そんな|小綺麗《こぎれい》な住宅の一つだが、用心深く窓という窓に格子を嵌め込んであるところが、異彩といえば異彩であった。
中学校の裏門から、その家の前を通って海の方へ伸びている道を端までいって、|崖《がけ》道をくだれば、もうそこは漁師町である。その道筋は、漁師町から通ってくる生徒たちの通学路で、教師たちも海へ泳ぎにいくときや、漁師町へ家庭訪問にいくときなどには、その近道を利用している。
彼も、その日、その道を通ったのは、漁師町へ家庭訪問にいくためであった。彼は、まだクラスを担任していなかったのだが、女教師のひとりがお産で休暇をとることになり、その留守を彼は任されて、家庭訪問をすることにもなったのである。
彼は、駅通りの薬屋の二階を借りて、そこから通勤していたが、この町へきてからまだ日が浅いから、その漁師町へ降りる近道を通るのはその日が初めてであった。勿論、その家の前を通るのも初めてであった。それで、女に、
「馬鹿。能なし。意気地なし……。」
いきなりそういわれて、びっくりしたのだ。
彼は、学校へ帰ると、まだ職員室に残っていた国語担当の初老の教師に、
「驚きましたよ。妙な家がありますねえ。」
といって、その女のことを話した。
すると、この学校にもう七年いるというその初老の教師は、むしろ意外そうに、
「ほう、あんた、初めてだったんかね、あの道は。」
といった。
「ええ、きょう初めて通ったんです。」
「あんた、ひとりだったろう。」
「ええ、私ひとりでした。」
「ひとりであそこの前を通ると、きまってやられる。でも、べつに危害を加えるわけではないからね。黙って聞き流して置けば、なんということもない。」
「……しかし、何者なんですか、あの女は。」
と彼は|訊《き》いた。
「あれかい。あれはほら、大通りに三陸信用金庫の菜穂里支店というのがあるだろう。あそこの支店長の奥さんだがね、ここがちょっと怪しくなっている。」
国語教師はそういって、煙草の|脂《やに》で|飴《あめ》色に染まった人差指で軽く自分の|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》を|敲《たた》いてみせた。
「気違いですか。」
「まあ、そういっていいだろうな。」
道理で、と若い教師は納得したが、
「それにしても、一風変った気違いですね。」
「一風変った気違いだ。」
「自分が気違いなのに、人に向って、馬鹿、能なし、なんていうんだから。」
「気違いって奴は、自分のことはちっともおかしいなんて思っちゃいないっていうからね。」
「ああして、一日中、ひとりで家の前を通る人にあんなことをいいつづけているわけですか。」
「そうらしいね。」
「どうして家の人が止めないんでしょうね。」
「どうしてって、止める人がいないもの。」
と国語教師はいった。
「家族がいないんですか。」
「いないんだね。支店長の旦那さんと、夫婦二人きりらしい。」
彼はちょっと驚いた。
「そうすると、旦那さんが勤めに出たあとは奥さんだけになるわけですか、あの家に。」
「そういうことになるわけだね。でも、あの奥さんは、炊事や洗濯はよその奥さんと変らないくらいに、きちんとするっていうからな。」
「ほう。じゃ、根っからの気違いでもないんですね。」
「そこが一風変っている|所以《ゆえん》でね。」
「しかし……それにしても、その奥さんは一種の病人でしょう。病人を家にひとりきりにして置いて、いいんですかね。」
「いいか悪いかわからないけど、べつに立ち居に不自由するような病人じゃないからな。」
「でも、頭がおかしいんですからね。立ち居が自由なだけに、心配だというのが普通じゃないのかな。勝手に外へ出て、変なことをしたら困るじゃないですか。」
すると、そのことなら、まず心配がないのだと国語教師はいった。どうしてかというと、支店長は毎朝、戸口には全部外側から|鍵《かぎ》をかけて出かけるからだという。
「なるほど。そういえば、あの家の窓には残らず格子が嵌まってますね。」
「そうだろう。ただ、あの玄関脇の窓だけ、十センチほど開けられるようになってるね。奥さんが退屈したとき、外が眺められるように、そうして置いてやるんだろうな。」
国語教師はそういってから、柱時計を振り返った。もう五時はとっくに過ぎていた。
「あんたは、まだ?」
国語教師は、握りのところを琴糸で補修してある|鞄《かばん》を引き寄せながら、彼に訊いた。
「私もそろそろ帰ります。」
「じゃ、一緒に……あの道を通ってみるか。」
「またですか?」
酔狂な、と思ったが、
「馴れて置いた方がいい。これからは何度もあの道を通るんだからね。」
二人は一緒に裏門を出た。