六
亭主は、帰ってきたときから目の色が違っていた。それが女には一と目でわかった。
いまは離れて暮らす日が多くなったが、十年連れ添っている亭主である。なにか変ったところがあれば、顔を合わせた途端にぴんとくる。
いつもは、とろんと眠そうな亭主の目が、どうしたことか酔っ払いのようなどぎつい光を|湛《たた》えていた。都会のがさつな人間たちに混じって暮らしていると、こんなにも目つきが悪くなるものかと女はちょっと悲しい気がしたが、
「おい、ちょっとここへきてけれ。」
縁側から先に部屋へ入った亭主に呼ばれて小走りにいってみると、着替えの手伝いかと思えばそうではなくて、ワイシャツの裾を垂らしてあぐらをかいていた亭主が、いきなり両腕で|膝《ひざ》に抱きついてきた。
浜で男の子たちがよくやっているラグビー遊びというのをみていると、「タックル、タックル。」といって両腕で相手に勢いよく抱きつくのがいる。あのタックルというのと、そっくりであった。
両膝を揃えて抱かれてしまったのだから、重い尻がひとりでに畳に落ちた。
「いやあ、なんの用かと思ったら……。」
女はそういって笑いかけたが、亭主の腕には半年の力が|籠《こ》もっていた。とても冗談などではなさそうだった。亭主の頭が胸を押してきて、女は仰向けに倒れた。
そうかと、やっと気がついた。あの目の変なぎらぎらは、これだったのだ。もう我慢がならなくなって、目をぎらぎらさせながら帰ってきたのだ。
それにしても、子供たち二人は学校へいっているからいいようなものの、こんな真っ昼間からいきなりラグビー遊びを仕掛けてくるなんて、このひと、少々都会かぶれしてきたのではなかろうか。
そう思いながら、女はためしに、亭主の躯を押し退けるような恰好だけしてみせた。亭主は小男だが、こういうときの男の力は躯の大きさとはなんの関係もない。女は|諦《あきら》めて、
「あんた……あんた、ちょっと待ってけれ。」
せめて縁側の障子だけでも閉めようと思って、片足の爪先を引っかけてみたが、ぎちぎちするだけで、うまく滑らない。敷居に浜から風に運ばれてきた砂が入っているからだ。
だから、帰る前にちょっと葉書でもくれればよかったのに。そうすれば砂をきれいに拭き取って、|蝋《ろう》でも引いて置いたのに。
「障子なんか、閉めんでもええ。」
亭主は大胆なことをいって、|腹這《はらば》いになったまま女を部屋の奥へ引きずっていくと、女の躯を裏返しにした。仰向けに寝ていたものを、うつぶせにした。また妙な手を、と女は思わず躯を固くしたが、亭主はただ、スカートの裾をいくらか乱暴に|太腿《ふともも》のところまでたくし上げたきりだった。
「蛇に|咬《か》まれたっつうのは、どこだ?」
亭主はいった。
「蛇?」
「|蝮《まむし》に咬まれたっつうでねえか。どこを咬まれた?」
女は驚いた。東京にいる亭主が、なぜあのことを知っているのだろう。
「あんた、どうしてそんなことを……。」
「どうしてでもええ。どこを咬まれたか、いうてみ。」
「そんな傷、もう消えちまったえ。」
「消えちまった?」
亭主は|苛立《いらだ》たしげに眉を顫わせ、
「消えちまってもええ。ともかく、どこを咬まれた?」
「ここ。」
と仕方なく、腹這いのまま、左脚のふくらはぎを指さしてみせると、なにを思ったのか亭主はそこへ|噛《か》みつくように唇をつけた。
これもまた、手のうち、と思ったのは、間違いであった。亭主はいった。
「大学生は、こうして吸うたってか。え? やつはこうして吸うたってか。」
ぎくりとしたところへ手が飛んできて、女は自分の目から火花が飛ぶのをみた。
これで、わかった。亭主の目のぎらぎらがなんであったか、亭主が今度はなにが目的でひょっこり帰ってきたか——それがいま、やっとわかった。