八
女について、浜にはこんな噂が立っていた——あの女と、隣の別荘にきている大学生との仲が怪しい。いつかの晩、縁側に寝そべっているあの女の太腿を大学生が|舐《な》めているのをみた者がいる。人目も構わずそんな|淫《みだ》らなことをするほどだから、あの二人の仲はただごとではない。
女は勿論、自分についてのそんな噂のことは知っていた。誰が火元か知らないが、物好きな人間もいるものだと思っていた。このあたりには、出稼ぎの留守を守っている家が多いから、躯を持て余した女たちが集まっては、よく頬を火照らせながら淫らな噂話をするのである。
火のないところに煙は立たないというが、隣の別荘にきていた大学生と気軽に言葉を交わす仲だったことは事実である。もと自分のところの畑だったところに建った別荘の住人である。それに、夏の間だけとはいえ、いわば隣人である。隣人と和やかな付き合いをして、それがいけないことだとは思えない。
脚を吸われたことも、事実である。但し、太腿ではなくて、足首に近いふくらはぎである。けれども、女には、淫らな気持は全くなかった。おそらく大学生の方もそうだったろう。二人とも、それどころではなかったのだ。蝮に咬まれたと思ったのだから。
晩といっても、日が落ちてまもなくのころだった。女は自分の畑から穫れた|玉蜀黍《とうもろこし》を|茄《ゆ》でようとして、庭に|薪焜炉《まきこんろ》を出して湯を沸かしていた。縁側では、別荘の大学生と小学四年の上の子が、指相撲をして遊んでいた。二人は、ついさっき浜から帰ってきたばかりだった。大学生は勉強の合間によく子供たちの遊び相手になってくれる。それで、女は、お礼に自分のところの玉蜀黍を食べて貰おうと思っていたのだ。
薪が足らなくなったので、納屋の軒下の薪棚から、一と抱え持ってきた。それを焜炉のそばにどさりと置いて、玉蜀黍をとりに縁側の方へ歩こうとすると、左のふくらはぎがチリッとした。みると、薪の束から蛇が一匹、頭の方から半分地面に降りてずるずるしている。
そのとき、焜炉の薪が|爆《は》ぜていた。もし蛇がいなかったら、爆ぜた火の粉が飛んできてふくらはぎに当ったのだと思っただろう。ところが、蛇がいたので、あ、咬まれたと思った。普通の蛇なら怕くもないが、人を咬むような蛇は蝮しかいない。蝮に咬まれたと思うと、ひとりでに悲鳴が女の口を突いて出た。
大学生が飛んできて、女は縁側に運ばれた。けれども、女は、まさか彼が自分のふくらはぎを吸うとは思っていなかった。あっという間の出来事であった。彼は女のふくらはぎを吸っては、庭にぺっと唾を吐き、それを何度も繰り返した。
病院へいきましょう、と彼はいったが、その必要はなかった。彼が女のふくらはぎを吸っているうちに、上の子が蛇を追いかけて、捕ってきたのである。みると、それは蝮ではなくて、弱った山かがしだった。みんなは胸を|撫《な》でおろした。でも、よかった、と大学生はいい、玉蜀黍を三本食べて、御馳走さまと何事もなかったように帰っていった。
ただそれだけのことなのだ。それを心ない女たちが、淫らな噂に仕立てている。その噂にまた|尾鰭《おひれ》をつけて、わざわざ亭主の出稼ぎ先まで報告に及んだ者がいるらしい。亭主が小金を貯めているのを|妬《ねた》んでいる者がいるらしいから、そんな連中の仕業だろうか。
女は、初め、楽観していた。ただそれだけのことで、あとはなにもないのだから、話せばわかると思っていた。ところが、すっかり当てが外れてしまった。亭主がわかってくれないのだ。いくら潔白だと繰り返しても、亭主は信用してくれないのだ。ただもう、白状しろ、泥を吐けと、亭主は殴りつづけるだけなのである。
女は、殴られながら考えた。自分が潔白だということを相手に証明してくれるものが、なにかないだろうか。なにもなかった。自分が潔白だといって、相手がそれを信じてくれなければ、自分は永久に自分の潔白を相手に証明することができない。女は茫然とした。こんなとき、どうすればいいのかわからなかった。
——女は気晴らしに、南隣の部落へ嫁いでいる|幼馴染《おさななじみ》を訪ねてきたところであった。しんみりと悩みを聞いて貰うつもりだったのだが、相変らず仲のいいところをみせつけられると、つい口に出しそびれて、ただ出された酒を飲み干して帰ることになってしまった。