四
実は、そのころ六蔵には、ひそかに思いを寄せている女の子がひとりだけいた。六蔵は、菜穂里の家から美羅野市の県立高校へバスで通学していたのだが、そのバスでよく一緒になる愛くるしい顔をした女子高校生がいた。やはり菜穂里から美羅野へ通っているバス通学生のひとりである。六蔵は、かねがねその女子高校生と知合いになる機会を狙っていたが、自分がどもりになってからは、すっかり望みを捨てた気持になっていた。けれども、先輩にそういわれてみると、まだまだ捨てたものでもないわけである。
あるとき、六蔵はバスのなかで隣り合せた見知らぬ中年男に、いきなり、
「いいお天気ですね。」
といってみた。中年男は驚いたような顔をして、
「ああ、いいお天気だね。」
といって六蔵の顔をじろじろみたが、六蔵は、吃らずにいえたのが嬉しくて、にこにこしていた。
相手が女なら、どうかと思って、美羅野の楽器店で、女店員に、
「このギター、いくら?」
と|訊《き》いてみた。
「そこに値段がちゃんと書いてあるのがみえないの?」
近眼で顔のむくんだ女店員が、すこぶる無愛想にそういったが、六蔵はやはり吃らずにいえたのが嬉しくてならなかった。
全く先輩のいう通り、要はどもりではないという自信を持つことだと、六蔵はすっかり勢いに乗って、ある日の夕方、町の入口の白浜という停留所で思いを寄せている女子高校生のあとからバスを降りると、両側に木の色の|褪《あ》せた|板塀《いたべい》がしらじらとつづく古い漁師町の路地を急ぎ足で歩いてゆく彼女に追いついて、「こんにちは。」と声をかけようとした。
ところが、どうしたことか言葉が出ない。これはいけない——そう思ったときはすでに遅くて、つい手が先に出て彼女の肩をぽんと一つ敲いてしまった。
彼女は、びっくりして立ち止まったが、相手がいつもバスで一緒になる高校生だとわかると、ふっと微笑を浮かべて、「なにか御用?」というふうに小首をかしげて六蔵を仰いだ。けれども、六蔵は顔がかっとするばかりで、言葉が一つも出てこない。|喉《のど》を振り絞るようにして頭をくらくらさせてみても、なにもいえない。彼は顔が焼けるように火照り、目には涙が浮かんできた。
すると、相手は、ふと思いついたように路地の貝殻を拾って、砂地に文字で書いて頂戴という身振りをした。彼女は、六蔵を|唖《おし》だと思ったのだろう。六蔵は、仕方なくしゃがんで、砂地に貝殻で、まず、
「僕はオシではありません。」
と書いた。それから、
「でも、どうしてもいいたい言葉が出てこないのです、口から。」
と書き、最後に、
「どうも失礼しました。」
と書いて、絶望的に貝殻を捨てた。
女子高校生は、吐息して|頷《うなず》きながら、
「それじゃ、手紙に書けば?」
といった。手紙に書いてバスのなかでそっと渡してくれればいいという。わかった、と六蔵は頷いた。額が汗びっしょりになっていた。
手紙ならお安い御用で、六蔵はその晩遅くまでかかってどもりの悩みを洗い|浚《ざら》いぶちまける手紙を書き、それを翌日、バスのなかでそっと彼女に手渡した。何日かすると、やはりバスのなかで、彼女から返事がそっと彼の手に渡された。
浜を歩きながら読んでみると、あなたの悩みには深く同情する、自分が役に立つものならいつでも喜んで練習台になってあげたい、そう書いてあった。六蔵は、思わず手紙を握り締めて、「ば、ば、ば、ばんざい。」とちいさく叫んだ。|裸足《はだし》になって、|渚《なぎさ》を駈けた。胸がごとんごとんと鳴っていた。
それ以来、六蔵は帰りのバスで彼女と一緒になるたびに、彼女を家の近くまで送っていったが、初めのうちは恥ずかしさが先に立って、練習台どころか、彼女がなにか話しかけてくれても|碌《ろく》に返事も出来なかった。けれども、馴れてくるにつれて、吃りながらもぼつぼつ話がつづけられるようになり、三年生の夏のある日、ふとした拍子に、
「俺、あんたのことが好きだ。」
という言葉が、ちっとも吃らずに、すらりと彼の口から滑り出た。
彼女は一瞬、耳を疑るような顔つきで彼を仰いでいたが、やがて、
「もういちど、いって。」
といった。
「俺、あんたのことが好きだ。」
不思議なことに、ちっとも吃らない。
「いえたじゃない……はい、よくできました。」
彼女は、目をきらきらさせながらそういって、それから急に不安そうに、
「いまのも、練習?」
と訊いた。
「いや、練習じゃない。」
六蔵はそういって笑った。