二
その日、片耳の赤犬は町のあちらこちらに出没したが、朝の漁師の若者以外は、誰ひとりとして、その赤犬をみておととしのあの犬のことを思い出す者はいなかった。
おととし、あの犬を町で最初に見掛けた新聞配達の少年は、すでに中学校を卒業して、集団就職で東京に出ていた。
魚市場のゴミ捨場で、魚のはらわたを|嗅《か》いでいたあの犬に、そんなものを食ったら腹のなかに虫が|湧《わ》くぞと忠告した事務所の老人は、去年の秋口、中風に倒れて、もうこの世の人ではなくなっていた。
あの犬が駅の裏手の|陽溜《ひだ》まりに寝そべっているのをみかけた駅員は、とっくにどこかの駅へ配置換えになっていた。
浜の洗濯場で、水を飲みにきたあの犬のことを、縫いぐるみにしたいようなといった歌い手かぶれの娘は、港祭のとき、どこからともなくギターを背負ってやってきて、浜のはずれに打ち揚げられている難破船の残骸の上でわけのわからない歌のようなものを|唸《うな》っていた長髪の男のあとを追って家出をしたきり、消息がわからなくなっていた。
あの犬を町で最後にみかけた北はずれの駄菓子屋の女主人も、造船所へ働きに出ている亭主と不仲になって、去年の夏に子供を連れて美羅野の実家へ帰っていったきり、まだ戻らない。駄菓子屋の店は、黄色く日に焼けた木綿のカーテンが閉じたままになっている。
片耳の赤犬は、歩き疲れると、船神様の神社の縁の下にもぐり込み、乾いた土の上にまるくなって、うたた寝をした。